第一章 前途多難(2)


 ただ、一つだけ理解できるのは、助かったと安堵するのはまだ早かったらしいことだけである。

 何とか縄を解こうと一頻り身を捩ってみる。

 落下時に強く打ち付けたのか、動く度に鈍痛が走るが、そうも言ってはいられない。

 人が来ないうちに逃げなければ、今度こそ命が危うい気がする。

 一度は死んだと思った身でも、助かってしまえばやはり命は惜しかった。

(……っ、駄目だ! 少しも弛まない!)

 半ばやけくそ気味にじたばたともがくが、縄には僅かの隙も出来ない。

 それどころか、動けば動くほど縄は皮膚に食い込んで、ギリギリと締め付けてくる。

(どうしよう、逃げられない! 何か、縄を切れるものはないの!?)

 刃物でなくとも、それに代わる物があればいい。

 懸命に首を動かし、辺りを見回してみて初めて、そこがどこかの物置部屋らしいことに気付いた。

 目が大分闇に慣れてはきているものの、不運なことに、あまり役に立ちそうな代物は見当たらなかった。

(まずい。これは本当に生きて帰れないかも……)

 焦りが全身に渦巻いた時、外に足音と話し声が聞こえた。

 ガタン。と、重い錠を外す音がして、木戸が開けられる。

 その光景を、伊織はただ凝視する以外に、成す術もなかった。

 開いた戸口から入る僅かな光で、監禁場所が土蔵であったことを知る。

 そこに入ってきた、二人の影。

「このコですよ、土方さん」

 一方の男が、言いながら蔵内に明かりを燈す。

 薄暗い灯が照らし出したのは、羽織袴姿の二人の男。

 二人とも、長く伸ばした髪を一つに括り上げ、各々が腰に二本の刀を差している。

 伊織は我が目を疑った。

「やっぱり目を覚ましてたんですねぇ、手首に血が滲んでる。無理にとこうとしましたね? 痛いでしょう」

 灯を燈した男が、後ろ手に縛られたままの伊織の腕に触れる。

 背が高く凛とした風貌に似合わず、やたら優しい声を出す。

 歳はまだ若く、伊織よりも四、五歳は上だろうと思われた。

「おい、まだ縄は解くな。轡もだ」

 ひどく冷たく低い声の主は、まだ戸口の前に立っていた。

(――あれ、あの人、何処かで……)

 何処かで見た顔だ、と思うのだが、明るさが充分でないために、思い出すまでに至らない。

「ガキ。大声を出さねえと約束するなら、轡を外してやる。いいか、騒げば斬るぞ」

 横倒しになった姿勢のまま、伊織は深く頷く。

 腰の刀が本物であれ贋物であれ、ここはおとなしく従うのが良策である。

 男が表情も変えぬまま、伊織の口の戒めを解こうと近付いた時、伊織はハッとした。

 漸く、その顔が誰なのかを思い出したのだ。

「――っ!!?」

 轡が外されると同時に、伊織はその名を呼んだ。

「土方歳三!!」

「あぁ?」

 目の前の男は、新選組副長土方歳三、その人であった。

 断髪洋装の写真しか見たことがなかったせいか、確信までに時間を要したが、顔は見紛う事無く土方のそれであった。

「騒ぐなと言っただろうが。斬られてえのか」

「あっ、いえ、そんな……」

 慌てて首を横に振る。

 いくら憧れの土方とはいえ、斬られたいとは思わない。

「土方さんのお知り合いですか?」

「んなわきゃねえだろ。それより総司、こいつのことは他に誰も知らねえんだな?」

「ええ。見つからないように運びましたからね」

 二人の会話で、伊織はもう一人の人物を確信する。

「それじゃあ、あなたが沖田総司……」

「あらら。私のことも知ってるんですか?」

 一瞬、伊織は頭の中が真っ白になった。

 名を呼ばれて否定しないということは、つまりそういうことではないか。

(――ということは、ここは、幕末……)

 やはり自分は死んでいるんじゃなかろうか。

 有り得ない話だ。

 清水の舞台から転落したら、幕末にタイムスリップしちゃいました。なんて話を、一体誰が信じるだろうか。

 少なくとも、ここにいる二人は信じるまい。

「――で? おめえは何者なんだ」

 土方が、じろりと伊織を睨む。


 

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