オープニングフェイズ 

0 冬の海

 冬の海だ。

 つよい風を顔に受けてよろめきながら見上げた空に彼女は思った。

 紗砂を撒いた輝きを孕んだ紺碧の空は、手を伸ばせば掴めそうなのに、触れたらとたんに痛みを覚える、そんな冬の海。

 海のなかに落ちたように澄んだ青と広がる白い雲の端に黒いヘリが走っているのが見えた。

 容赦ない風に溺れたときのような呼吸困難に陥りながら、彼女はじりじりと鉄の上を這い動く。正確には彼女の相棒が靴となって、動いてくれているのだ。

「マスター」

 肌を切り裂くような冷たい風のなかで浅い呼吸を繰り返していた彼女はその声に目を細めた。

「ここです。気配があります。急がないと気がつかれますよ」

 声を出そうとして、奪われる。

 ここは海のなかと同じだ。なにもかも奪って、沈めていく。

 彼女は黙って手に意識を集中させる。

 人から外れたバケモノであるオーヴァードにだけ許された特殊能力――ブラム・ストーカーの力で血を武器にする。

 記憶の一番奥にひっかき傷のように残っているドラグノフ狙撃銃――我が身と同じくらい巨大なそれを無意識にも握りしめ、赤黒い銃口を足元の鉄に突き立てる。

 動き続ける鉄――寝台特急マリンスノーの鉄板はかたい。

「アリオンっ」

 声をあげたと同時に足元がきしむ。

 アリオンが鉄を脆くしてくれたのだ。紙同然となった装甲相手にほぼカンで引き金をひく。

 ゼロ距離射撃。

 足元が崩れ、落ちていく。

 土煙と鉄を纏って降り立った車内は落ち着いたワインレッドの絨毯。柔らかなソファが並ぶ様は高級なホテルのような内装だ。

 一拍して弾丸が飛び出してきたのに彼女は身を低くし、弾丸の先にいる武装した兵士の懐に潜り込むと銃の先についた刃で首を切り落とす。足に力をこめ、弾けるバネのように立ち上がると同時にその兵士の首を薙ぎ払い、視線を狭い室内に向ける。

 双方に並ぶ席の細い道の先に男が一人立っていた。

 激しすぎる憎悪に濡れた瞳は黒く、底のない闇のように暗い。

「また、貴様か」

 唸る獣のように低い声を聞きながら彼女は一言も発せずに前に飛び出す。

 飛び出した彼女に男が素早く手のなかにナイフ――カランビットを作って切り込みを受け止めた。

 小さな火花が生まれて、散る。

 単純な力勝負なら、男に分がある。

 弾かれるように後ろに吹き飛ばされた彼女が姿勢を崩さずに立つのは、靴になっている相棒のおかげだ。

 対している黒スーツの男は身を低く落とし、肩を揺らして狙いを読ませず、隙がない。

 睨み合う一瞬。

「隊長から奪ったそれをいい加減にかえしてもらうっ」

 放たれた憎悪の一言とともに、彼女の背後から衝撃を受けて軽く体を浮かせた。何かに撃たれた。

 目の前の男に集中しすぎていて隠れていた伏兵を見落としていた。

 横目で彼女は背後にいる敵を認めた。

 真っ赤な片腕しかない兵士。

 顔は面で隠れたそれは唯一ある片腕を素早く動かして彼女を床に転がし、手のなかにある鋭い剣を向けてくる。

 脇腹を刺されて息が出来ない彼女は、はっと声と共に口から血を溢れさせる。

「隊長、ナタリアとあっちへ」

 柔らかな地面を踏んで男が近づいてくるのを薄れてゆく意識のなか、彼女は音だけで確認した。

 乱暴に仰向けにされて見上げたとき、ずっと追いかけてきた男の顔がある。

 疲れ果てて、絶望した瞳と目があった。

「貴様も大概しつこいな」

 浅く息を繰り返す彼女は男を見つめた。

 一年もこうして鬼ごっこを繰り返す男を最後に見たのは三か月前のドイツだったが、また少し痩せた気がした。

 世界を巡り、幾つもの紛争地帯でテロ活動を主とするマスターレギオン。

 FHでも特別な地位の一つであるマスターの称号を得た男。

 その男を追跡するのが組織に与えられた任務であり、彼女の生まれた理由だ。

 出会った頃から男からは殺すほどの憎悪を向けられてきたが、今もそれは変わらない。

 腕が伸びてきて、彼女の首にかかったドックタグのついたチェーンが握られる。

「それは隊長のものだ。今度こそ返してもらう」

 引っ張られて彼女の軽い肉体がうっすらと浮いた。

 このまま乱暴に引きちぎられると思ったとき、彼女の靴だったそれが動いた。

 足が男の後頭部を狙って蹴りを放つ。

 靴に身をやつしている相棒が肉体を操るのに、身を任せた。

 彼が咄嗟に腕で防ぐ隙をついて、彼女は切迫の気合いの声をあげ、頭突きを男の顎にくらわせる。突然の打撃に鈍った男の動きに彼女は素早く首にしがみつくようにして腕を伸ばし、口を開いた。

 血が足りない。

 ほとんど本能のようにして噛みつこうとした首に、あと数センチで届くところで男の拳が顔面に落ちた。痛みよりも衝撃に女は再び倒された。そのとき自分の血を鋭いナイフにして男の腹を突き刺す報復は行った。互いに血だらけで睨み合う。

「っ」

 憎しみは、いつも血の匂いを漂わせる。

 がたん、と大きく車内が揺れた。

「もう来たか」

 苦々しく吐き捨てて男が立ち上がる。

 まだ、と彼女は手を伸ばすが、虚しく空をかくだけだ。

 男が早足で歩き出す。遠のく背を見つめて、必死に血反吐を吐きながら四つん這いになって這うようにして動き出す。

「マスター、傷が完治するまで待ったほうが」

「このままだと、彼に、にげられるわ……アリオンはそのままを維持して、何かあれば自己判断してちょうだい」

「わかりました。もう」

 文句を孕んだため息を吐く相棒に彼女は口元に笑みを作り、歩きだそうとして、またしても車内が揺れたのに目を細めた。

 何かが起ころうとしている。

 このままだと彼を永遠に失う。

 そんな予感がする。いつも、それは恐怖としてついてまわっていた。

 焦燥感から血、肉、骨が砕けてもひたすらに彼女は動いた。

 ふらつきながら立ち上がり、必死に懐かしい血の香りに誘われて彼女は車内を歩き出す。

 鼻孔に、どこからか漂うのか、僅かに潮騒の匂いがした。

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