富田さんの瞳

釣舟草

富田さんの瞳

 認知症の富田さんが長年奥さんに暴力を振るってきたというのは、介護職員の間では有名な話だった。


 富田正之さんは大柄のがっちり体系。もうおじいちゃんだけれど、若いころはかなりイケメンだっただろうな、と偲ばれる見た目だ。ただし、いつも口をへの字に曲げて、厳しい表情をしていた。その皺くちゃのお顔の中で、つぶらな瞳だけが少年のようにキラキラしていた。


 富田さんは要介護3で特養に入所している。一方の奥さんは、そこから歩いて数分のところにある、系列の有料老人ホームにいる。


 富田さん夫妻が入居する際、息子さんは言いにくそうに職員に頭を下げた。


「お袋と親父を会わせないでください」


 息子さんは幼い頃から、父による壮絶なDVを見てきた。母は殴られ、蹴られ、謝っても許されることはなかったそうだ。



 そういう事情ならばと、職員たちは一丸となった。


 何としてでも、富田さん夫妻を会わせてはならない。それが、私たち職員全員に共有された使命だった。




 私が管理栄養士として入職したのは、20代半ば。主な業務は、厨房の管理と入居者さんの栄養管理だ。


 初めて富田さんとお話ししようとしたとき、全く取り合ってもらえず、こう言われた。


「女風情が」


 女風情って、凄い言葉だ。前時代的な価値観を、そのまま温存して老人になっちゃったんだなぁって。化石が完全形で発掘されたときみたいな感動を覚えた。


 そばにいた女性介護リーダーの渡辺さんが笑って言った。


「早瀬さん、気にしないで。富田さんって女性には誰でもこうだから」


 

 富田さんは認知症というだけで、お身体自体は健康に近かった。血液検査の結果は常に良好。お食事の好き嫌いは激しいけれど、量は人一倍食べる。お食事形態も、刻み食やミキサー食の人が多い中で、しっかり常食を召し上がっている。

 それに、車いすがデフォの特養入居者さんの中で、杖で自立歩行できる富田さんのような人は珍しかった。


 私はしばらく、富田さんに苦手意識を持っていた。出来るだけ話さずにいられるよう、仕事を工夫した。


 だけど、とうとう3ヶ月に1度の栄養ケアマネジメント作成月が来てしまった。ご本人の意思確認のため、話さざるを得ない。


 仕方ない。拍をつけようと、白衣を着て富田さんに会いに行った。




 白衣の効果はテキメンだった。昔の人は権威主義だなぁって思う。


 入居者さんの共用スペースで富田さんを捕まえた。

 富田さんったら、すっかり私を尊敬してくれちゃうの。質問にもきちんとお答えくださり(もちろん認知症なりに、だけど)。


 で、お礼を言って別れようとしたとき、こう言った。


「キノに会わせてくれませんか」


 キノさんというのは、奥さんの名前だ。


 富田さんは続ける。


「私はね、キノのことを愛しているんですよ。どうして会えないんだ」


 焦燥、でもある。怒り、でもあったかもしれない。でもどちらかというと、諦め、絶望。雄弁に語る富田さんの瞳の色は、そんな感じだった。


 困っていると、渡辺さんが助け船を出してくれた。


「富田さん、キノさんは他所の施設にいますからね、規則で会えないんですよ」


「そんなのおかしいじゃないか。あいつは俺の妻だぞ」


 富田さんがキレ始めた。瞳にメラメラとたぎる、行き場のない怒り。渡辺さんはそれを何でもないことのようにいなす。


「そうおっしゃっても規則は規則ですから。富田さんだって元警察官なら、規則が大切だってお判りでしょう」


 富田さんは静かにブチ切れて、ご自分の居室に帰ってしまった。


 私は渡辺さんに訊ねた。


「富田さんって、DVしてたんですよね?」


「そう。でもご本人はとっても奥さんを大切にしてたと思ってるの。DV加害者って大抵そうだよ」






 その日の夜、私は布団に入ったあとに富田さんのことを考えた。


 あの時代の価値観を化石のように体現した人が「愛している」と言う。これ以上の愛情表現があるだろうか。あのときの富田さんの切なげな瞳は、本当に人を愛する目だった。と思う。


 私は自分の母親のことを思い出した。


「あんたのため」


 そう言っては叩かれていた。あれは私への愛情ではなかったと思う。でも母は言っていた。


「ママだって本当は叩きたくないの。手が痛いもの。でもあんたの将来を思って、心を鬼にしているの」


 私は目を閉じた。


 それは誰に対する愛だったのかしら。富田さんのあの瞳は、誰を愛しているのかしら。





 しばらく経った頃、お隣の有料老人ホームに仕事で訪れた私は、可愛いおばあちゃんに出会った。


 桜色のセーターを着ていて、まるで野に咲くスミレのような雰囲気の方。その方がニコニコして、リハビリがてら、折り鶴を折っていた。


 微笑ましく眺めていたのだけれど、彼女は突然立ち上がって言った。


「主人が心配してるわ。帰らなくっちゃ」


 ホームの職員がすぐに応じる。


「富田さん、ご主人はお隣の施設で不自由なく暮らされていますよ」


 でもおばあちゃん、つまり富田さんの奥さんは納得しない。


「あの人、私がいないとダメなんですよ。机の片づけさえできないんだから」


「大丈夫です。ちゃんと職員が身の回りのお世話をしていますから、安心してくださいね」


 人の好さそうな富田キノさんは、不満げだったが、それ以上何も言わなかった。


 私は意外に思った。DV被害者のキノさんは、富田さんから離れられて、すっかり羽を伸ばしているのかとばかり思っていた。


 でも実際には、ずっと夫のことを心配していた。『私がいないとダメなんですよ』と、その言葉には誇りさえ感じられた。






 有料老人ホームを後にしながら考えた。


 きっと2人とも間違っている。これはいわゆる共依存で、相手の存在の中に自分の姿を見出しているに過ぎないんだ。


 富田さんはがっつり認知症で、キノさんも認知機能はかなり低下していそうだ。そんなになってまでもこの「共依存」という魔物はついて回るのかと思うと、不自然な身震いが出た。






 その3日後、厨房に有料老人ホームの食事伝票が回ってきた。お食事の形態(常食・刻み食・ミキサー食)を変更するときや、外出などでお食事を止める際に回ってくるものだ。



 食事停止

 氏名:富田キノさん

 理由:死亡したため



 愕然とした。3日前はあんなに元気だったのに。


 老人施設に勤めていると、こういうことはよくある。「さっきまで元気だった人が、いきなり高熱を出して数時間後には亡くなる」とか。だから、心の準備みたいなものは職員たちには常にある。


 それでも、いつまで経っても慣れない。昨日まで楽しそうにお話ししたり歌ったりしていた人が、突然この世からいなくなるという事実には。





 

 翌日、特養の入居者さん共用スペースに行ったとき、渡辺さんに声を掛けられた。


「ごめん、ちょっとこっち余裕がないから、食伝票書いといてくれない?」


「いいですよ。変更はどなたですか?」

 

 私が訊ねると、渡辺さんは言った。


「富田さん、ごはん減らして形状も『刻み』に落としてくれる?」


「え?」


 私はつい、訊ね返した。


「富田さん、どうかされたんですか?」


 キノさんが亡くなったことは富田さんには伏せてほしい、というのが息子さんのたっての願いだった。介護職員はそれを周知され、徹底していたはずだ。

 

 渡辺さんは困ったように溜息をついた。


「それがさぁ、富田さん、『キノはもういない』って言って全然食べなくなっちゃったんだよ。口に入れてもむせちゃうしね。……誰も奥さんのこと喋ってないのにさ、分かるんだろうね」


「え? そんなわけなくないですか? 何か理由があるんじゃ……」


 そう言いかけて語を継げなくなった私に、渡辺さんは言った。


「早瀬さんさ、まだ入って1年も経ってないから分からないだろうけど、あるんだよ、こういうこと。介護やってると、よくね」


 その場にいたベテラン介護士さん2人も、しんみりと頷いた。


 私は言葉を詰まらせた。


 そんな非科学的なことがあるだろうか。


 でも、職員が富田さんに喋ったとも思えない。


 なぜ奥さんの死がわかったんだろう。いくら考えても、私には理由が分からなかった。

 渡辺さんの言葉が脳内に反芻した。



——あるんだよ、こういうこと。介護やってると、よくね――





 その後、富田さんの容体は目に見えて悪くなった。日中寝ていることが増え、食事は相変わらず口にしなかった。


 私はすっかり心配になり、お食事中に何度もお邪魔しに行った。

 

 富田さんは車いすの上でほとんど眠っておられ、職員がいくら声をかけてもぐったりしたまま、目を開けることはなかった。


 生気のないそのお顔は、「キノのことを愛している」とおっしゃった日とはまるで別人のようだった。


 2週間後、富田さんは救急搬送されて亡くなった。死因は「老衰」とされた。

 あの物言う瞳は、永遠に私の記憶の中に封じ込められてしまった。



 あれから何年が経っただろうか。離職し、全く別の土地で生きている今でもときどき、ふとあの夫婦を思い出す。


 あれが夫婦愛だったのか、私にはいまだにわからない。

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富田さんの瞳 釣舟草 @TSURIFUNESO

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