第10話 オルガという男
オルガの後に続き、路地裏の薄汚れた小さな酒場に入った。
酒と埃、煙草のヤニの臭いが鼻につく。
暗いカウンターの上には、空の酒瓶やグラスが置きっぱなしになっていて、テーブルの上には逆さになった椅子が置かれていた。
「開店前だ、誰もいないさ」
「……そのようね」
「よっと……、まあ、少し汚いが我慢してくれ」
オルガが椅子を用意する。
薄汚れたかつらを外すと、青みがかった珍しい髪色があらわになった。
「ありがとう」と、オルガに礼を言って、
「ニーナ、悪いけど外してくれるかしら」と頼んだ。
「わかりました、扉の向こうにいますので」
「ごめんね、ありがとう」
オルガに向かって、ニーナが冷たい目を向ける。
「……もし、アナスタシア様に何かあれば、生きて帰れると思うな」
「ちょ、ニーナ⁉」
「ははは! 心配するな、何もしねぇよ。俺が余計な事をすれば、親父の職が無くなっちまうからな」
「……わかっているのなら良いわ」
ニーナは私に『大丈夫ですよ』と目配せをして、扉の奥に入って行く。
こんなにも私を心配してくれてるのだと思うと、どこからともなく勇気が湧いてくる。
「さて……俺に話があるんだって?」
「ええ、その前に、さっきのは一体何のつもりだったのかしら?」
「気を悪くさせたのなら謝る。だが、俺の身にもなってくれ。突然、ヴィノクールのご令嬢から話があるって親父に言われてみろ? そりゃ警戒もするさ」
「それはそうね」
「だろ? まあ、事前調査ってやつだ。あんたがどんな人間かを見させてもらった」
「それで? テストには合格したのかしら?」
「まあ、慌てるな。酒は飲めるか?」
「いいえ、まだ子供ですので」
「それはちょうど良かった、飲み頃のワインがある」
オルガは席を立ち、カウンターからワインとグラスを持って来た。
静かにワインを注ぎ、自分と私の前に置く。
「あの、お酒は飲めないのですが」
「大丈夫だ、ワインは酒じゃない」
白々しく肩を竦めると、グラスを私に向ける。
仕方なく私もグラスを持って、オルガに向けた。
「では、乾杯しよう。慈悲深いお嬢様に――」
「……」
グラスを合わせ、私はワインに少しだけ口を付けた。
――かなり上等なワインだ。
「それにしても、あんたは変わったお嬢様だな。普通、路地の浮浪者の言うことなんかに耳を貸す奴なんていないぞ?」
「でしょうね」
「で、俺に何をさせたいんだ? まさか本当に、俺を雇いたい家門があるわけじゃないだろう?」
どうする、このまま正面からぶつかってみるか?
いや、策を弄したところで、見透かされるのは目に見えている。
小細工は通用しない――か。
ならば真摯に。
ありのままの自分を。
「オルガ、あなたはこの人生で何をしたいと考えていますか?」
「……答える必要を感じないな」ワインを飲み干し、新たに注ぐ。
「では、質問を変えます。このままスロキアの
「ふん……余計なお世話だ。ヴィノクールのお嬢様、あんたはどうなんだ? そのまま脛を囓るつもりですか?」と、少しふざけた口調で聞き返してくる。
「私は脛を囓るつもりはありません」
「ほぉ? 名門貴族家のお嬢様が脛を囓らない?」
「正確に言えば、いずれ、となりますが」
「なら、いまは脛を囓っているのは認めるのか?」
「ええ、もちろん。今の私があるのはヴィノクール家に生まれたお陰ですもの」
「ならば、これからも脛を囓っていれば良いだろう? ヴィノクール家ともなれば何も困る事はあるまいに……」
私は――と、言葉を落とし、覚悟を決めた。
全てを打ち明け、その上で助力を願う。
私に必要なのは、全てを理解した上で協力してくれる仲間なのだから。
「私はヴィノクール家を出るつもりです」
「なっ⁉ なんだと⁉」
オルガがワインをこぼしそうになった。
「私は自立したい……それは経済的にも、精神的な意味においても。ですが、私だけでは力が足りません、パートナーが必要です、優秀で信頼できるパートナーが」
「それが……俺ってことか?」探るようにオルガが聞いてくる。
「あなた以上に優秀な頭脳を持つ人を私は知りません。それに……偉そうな貴族は嫌いでしょう? 私もです」
「ハハッ、お嬢様がそれを言うかよ?」
笑うオルガから目線を外し、私はワインに口を付けた。
「飲めないんじゃなかったのか?」
「私だって怖いんです。少しくらい飲まなきゃ、とてもこんな話はできませんよ」
「ははは! なるほどな、わかった。あんたが目指している場所は大体掴めたよ。それで、具体的なビジョンはあるのか?」
「ええ、私は表に出ることができません。ですのでオルガ、あなたには共同経営者として『表の顔』になっていただきたいのです」
「ん? 店でもするつもりか?」
「いいえ、商会を設立して投資を行います。もちろん、その過程で店を運営することもあるかもしれませんが」
「投資ねぇ……で、表に出られないとは?」
「自立できる力を得るまでは、家の者に知られないようにしたいのです」
「どうして?」
「……兄と母に邪魔をさせないため、です」
「――⁉」
オルガは顎を触りながら、テーブルのワイングラスをじっと見つめている。
沈黙が続く中、オルガがゆっくりと口を開いた。
「あの坊ちゃんはカイルとか言ったか……。まあ、ある程度は親父から聞いてはいるが、もしや、没落を見越して行動してるのか?」
「……」
たったあれだけの言葉から、良く辿り着くものだ……。
私はまじまじとオルガを見つめ、質問には沈黙で答えた。
「ふふ、面白い。正直に言おう。アナスタシア様、あんたは凄い、賢くて度胸もある。だが、何よりも凄いのは、その行動力だ。普通の人間は、確定してもない未来に対して行動を起こせない。しかも、地震や水害ならともかく、自分の兄が家を潰す可能性に対してなんて……ハッ、どうかしてるぜ? それにまだ、ヴィノクール卿は健在だろうに」
「そうですね、確かにそうです。もしかすると、繁栄する未来もあるのかも知れません、ですが、たとえ繁栄したとしても、私は同じ道を選ぶでしょう。私は――自分の人生が欲しい」
「……決意は固いってわけか、なるほどね」
呟くように言って、オルガはグラスを片手に私を見ている。
今、彼は、私にベットする価値はあるのか、様々な要因と期待値を天秤に掛けているはず。
ここだ――。
私に用意できる、最後のカードを切ろう。
これで駄目なら、その時はその時、別の方法を考えるまで。
「オルガ、お願いします、あなたの力を私に貸して下さい」
「……見返りは?」
「私が自立できる資産を得た暁には、商会の全てをあなたにお譲りします」
慌てたオルガが席を立った。
「はぁ⁉ い、意味をわかってんのか⁉ 商会を譲るってのは、培った信用や取引先、人脈を捨てるってことだぞ⁉」
「ええ、あなたになら惜しくはない」
私はグイッとワインを飲み干す。
「あ⁉ お、おい⁉」
「それに、相応の働きはしてもらうつもり……れすから……ヒック?」
あ、あれ?
しゃっくりが……。
「だ……大丈夫か?」
「え? ヒック……」
「お前、飲めないんじゃ……」
「あ、そうらった……ん?」
目の前がぐるぐる回る。
顔が熱い……あ、あれ……。
「お、おい! ニーナとかいう女ぁ! 大変だ!」
オルガの叫ぶ声。
バタバタと誰かの走る音……。
「アナスタシア様! あ、あなた、酒なんて飲ませたの⁉」
「ち、ちが……勝手に飲んで」
「ア、アナスタシア様ぁ! しっかり!」
「うへへ……あ〜、にぃーなだぁ~……」
「お、おい! しっかりしろ!」
「アナス……」
「お……」
ふわふわして気持ちが良い……。
私はそのまま、意識を手放した。
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