第4話 侍女ニーナ

「アナスタシアさま、今日はとても良いお天気ですよ~」


 カーテンの開く音が聞こえる。

 薄く目を開けると、甘橙オレンジ色のくるんとしたくせ毛が陽光に輝いていた。


「ん……まぶしい……」

「さあ、もう起きる時間です」


 少しそばかすが混じった優しげな笑顔が、視界に飛び込んでくる。


「ニーナ……」

「どうしました?」


 きょとんとした顔で私をのぞき込む。

 ああ、ニーナだ……覚えてる。


 親身に私の世話をしてくれた、優しくて、とてもすてきな人。

 流行に詳しく、メイクや洋服選びのセンスは抜群。

 いつも明るく社交的で、侍女たちの間でもムードメーカー的存在だった。


 でも、前世でのニーナは、カイルに宝石を盗んだ罪を着せられてしまった……。

 宝石はヴィノクール家の家宝でもある『精霊の涙』という希少な宝石。

 代々当主に受け継がれる、とても大切なもの……。


 とにかく、そんな大切なものをカイルは屋敷の外へ持ち出した。

 恐らく、父はそれを知っていたはずだ。

 知っていてカイルが正直に打ち明けることを願い、問い詰めたのだろう。


 しかし、予想外の事が起きてしまった。

 母が自分もニーナが盗むのを見た、とカイルをかばったのだ。


 平民で使用人のニーナと、名門貴族家の伯爵夫人たる母の言葉。

 例え白い物でも……黒に変わる、いや、変わらざるを得ない。

 しかも、明確な証拠もないとなれば、いくらカイルの仕業と分かっていても、父は母の証言を聞き入れるしかなかったのだ。


 家を出たニーナがどうなったのか、私は知らない……。


 あの時、私は14才で、屋敷を去るニーナに何もできなかった。

 どうやって助ければいいのかもわからず、ただ、部屋で枕を濡らすだけしかできなかった。

 

 でも、今の私なら――。

 没落寸前のヴィノクールを、何年も支えた続けた経験は私の糧となった。

 きっと今の私なら、彼女を助けられる……いや、必ず助けてみせる!


「アナスタシアさま?」

「あ、ご、ごめんなさい……えっと、着替えないとね」

「まあ、いつもはあんなに嫌がられるのに、どうされたんですか?」

「え? ほ、ほら、お天気も良いし、お外に行きたいから……」

「いいですねぇ! じゃあ、ミラさんに何かお弁当を作ってもらいましょうか?」

「ほんと⁉ 嬉しい!」


 あ……思わず本気で喜んでしまった。

 だって、ミラの料理は最高だったから……。

 父の死後、ミラが屋敷を去ってからは、食べられなくなっていた。


 今思えば、ヴィノクールには素晴らしい人たちがたくさんいた。

 これほどの優秀な人材をカイルは……いや、私にも責任の一端はある。

 ずっと仕事ばかりで、皆のことを気に掛けてあげられなかった。

 あの頃はピクニックにさえいかず、ずっと書類とにらめっこだったから……。

 せっかくだし、ちょっと楽しんじゃおうかな。


「では、動きやすいお洋服にしましょう、これなんかどうですか?」


 ニーナがネイビーのワンピースを出してくれた。

 胸元に白いリボンと、袖口に可愛らしいフリルが付いていて、スカートの裾には綺麗な刺繍も入っている。


「うん、これにする」

「かしこまりました、きっとよくお似合いですよ~」


 ニーナが優しくパジャマを脱がせてくれた。

 ワンピースを着て鏡台の前にちょこんと座ると、ニーナがブラシを持って袖を捲った。


「さぁ、美しく纏めてご覧にいれますからね」

「ふふ、お願いね」

「お任せください!」


 冗談っぽく胸を叩くニーナ。

 鏡越しに見つめ合い、私たちはぷっと吹き出した。


「もう、ニーナったら」

「ふふ、冗談です。さて、どこに行きましょうかねぇ」

「うーん……」


 裏庭か、それとも正面の庭園になるけど……確か、母が良く庭園でお茶を飲んでいたわよね……。なるべくなら会いたくはない。


「裏庭がいい」

「あら、庭園の方が薔薇が咲いていて綺麗ですよ?」

「いいの、裏庭で」

「わかりました、では裏庭へまいりましょう」


 手際よく髪を束ねながらニーナが微笑みかけてくれる。

 ああ、やっぱりすてきな人、絶対カイルから守らなくちゃ。


 考えるのよアナスタシア――。

 彼女を守るために何が必要なのか……何をすべきなのか。


 私は考えをめぐらせながら、自分の髪が編み上がるのを眺めていた。



    §



 玄関ホールの大鏡の前で、編み込んでもらった髪を眺める。


「ふふ、やっぱニーナって上手……」


 満面の笑みでバスケットに頬ずりをしながらニーナが戻って来た。


「お待たせしました~! いただいてきましたよぉ~、ミラさん特製の燻製ハムサンドで~す! いやぁ、楽しみですねぇ~!」


 それを見て、思わずぎゅるるとお腹が鳴った。


「ね、早くいこっ!」

「はい、では、しゅっぱ~つ!」


 ニーナと手を繋いで、私は大きく手を振りながら裏庭へ歩いた。

 伯爵家の敷地はかなり広く、街へ出るときは馬車が必要だ。


 本邸の正面には、来客に見せるために造られた庭園が広がっていて、エドワードという腕の良い庭師が手入れをしている。


 裏庭はもっぱら家族がお茶を飲んだり、散歩をしたり、伯爵家の使用人たちで内輪のパーティーなどをする際に利用されることが多い。


 庭といっても見晴らしが良い草原のようなもので、目印になるのはシンボルツリーの大きな菩提樹だけだ。


「木陰まで競争しない?」

「え?」

「いくわよ!」

「ちょ、ちょっと、アナスタシアさまぁ!」


 体が軽い、芯からエネルギーが湧き出てくるようだった。

 少し走っただけで、気分が高揚し、楽しくて仕方がなかった。


 吹き抜ける風、足の裏に感じる大地の感触、太陽の匂い、菩提樹の葉が擦れる音、この世界の何もかもが、圧倒的な現実感を持って迫ってくる。


「はぁ……はぁ……」


 菩提樹の木陰まで走り、そのまま芝生に寝転んだ。

 うっすらと汗が滲む。ドクドクと音を立てる胸に手を当て、大きく深呼吸をした。

 やっぱり……私は、私は生きてる!


「アナスタシアさまぁ~、早いですよぉ~」


 ニーナがバスケットを揺らさないように抱えながら走ってくる。


「遅いわよ、ニーナ」

「アナスタシア様、そんなところに寝転んじゃ駄目ですよぉ~! 早く起きてください、いま敷物を用意しますから」

「はーい」


 ぴょんと飛び起きて、ニーナが敷物を広げるのを手伝う。


「大丈夫ですよ、私の仕事がなくなっちゃいますから」

「あ、そっか、ごめんなさい……」

「ふふ、アナスタシアさまは優しいですよねぇ」


 ご機嫌なニーナは、鼻歌をうたいながら敷物を敷いた。


「その曲、好きなの?」

「ええ、私のお気に入りです」

「なんて曲?」

「これは『希望』という曲です、私の母が好きだったんですよ」

「へぇ……とっても綺麗な曲ね、私も好きよ」


 そう答えると、ニーナは破顔して私を抱きしめた。


「ああ、アナスタシア様は、本っ当~に、かわいらしいですねぇ!」  

「ちょっとニーナ、苦しいよぉ」

「あ、すみません、つい……」


 ニーナはごまかし笑いを浮かべて、バスケットを敷物の上に置く。 


「はい、できましたっ! さてさて、お茶でも淹れましょうかね」

「のど渇いちゃった」

「じゃあ、すぐに用意しますね」


 手際よくお茶の準備を始めるニーナ。

 バスケットから事前に淹れていたアイスティーを取り出し、ティーカップに注いで私の前に出してくれた。


「わぁ~、ありがとう!」


 口を付けると紅茶の香りが鼻から抜ける。

 あぁ、美味しい……。


 木漏れ日の中、気持ちのいい風が頬を撫でる。

 時間がゆっくり流れている、何て贅沢な時間なんだろう……。


 こんな近くに、こんな素晴らしい場所があったことを、いつの間にか私は忘れていたんだなぁとしみじみ思った。


「ねぇニーナ、そろそろ……食べちゃわない?」

「ふふ、そうしましょうか?」


 二人でにやりと笑い、バスケットをのぞき込む。

 ニーナが高価な骨董品でも取り出すように、燻製ハムサンドを取り出した。


「おぉ~……」

「はい、どうぞ」


 食欲をそそる香ばしい匂いがした。

 燻製ハムと新鮮なレタス、それに料理長のミラが焼いた特製のパン。私は大きく口を開けてかぶりついた。


 まさか、もう一度これを食べられる日が来るなんて……!


「ん~~っ! さいっこう! やっぱりミラは天才だわ!」


 ニーナは目を細め、ハムサンドで口をいっぱいにして、うんうんと頷いている。


 ――と、その時。

 屋敷の方で父が手招きをしているのが見えた。


「んぐっ⁉ だ、旦那さま!」


 ニーナは慌ててハムサンドを口の中に押し込む。


「おとうさまが呼んでるみたい」

「す、すぐに参りましょう!」


 敷物を畳んでバスケットにしまうと、ニーナが私の手を取る。


「忘れ物はないですね、さ、急ぎましょうか」

「うん」


 私はニーナに手を引かれながら、父の待つテラスに向かった。

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