第3話 鏡の中の私
§
落ち着いたアカンサス柄の壁紙に囲まれた、男爵家の中でも特別な客室。
部屋のソファには、優雅に紅茶を楽しむカイの姿があった。
その傍らには、なぜか家の主であるトリノ男爵が立っている。
「トリノ、お嬢様の用事は何だったんだ?」
「ああ、鉱山の再開発について、二、三、確認をしたかったようですな」
「ふぅん……そうか。案外、気づいているのかもな」
「まあ、頭は切れる方だと聞いておりますが……肝心の当主があれでは、どうにも」
トリノは苦笑いを浮かべる。
呼び捨てにされたことは、気に掛ける様子もなかった。
「もはや引き返すことはできん。大義のためとはいえ……、何とも心苦しいな。だが、ヴィノクールには『毒』になってもらわねばならない」
「はい……仰るとおりでございます」
そう答えて目を伏せるトリノが、思い出したように顔を上げた。
「ああ! そうでした! それよりも皇子、そのぉ、客の出迎えなどなさりませんようお願いできませんか……家の者の仕事がなくなってしまいますし、万が一、誰かに姿を見られて旧貴族派の耳に入れば……私の素性も怪しまれてしまいます」
トリノはハンカチで汗を抑えながら、カイことアレン皇子の顔色をうかがう。
「あぁ、悪かった、もうしないと約束するよ」
「くれぐれもお願いいたします……」
「カイになるとつい楽しくて困る」
「来週にはウィリアム皇子から動くと連絡がありましたので、それまでは、どうか、ご辛抱いただければと思います」
「ああ、わかった」
「では、何か御不便があれば何なりと……」
丁寧に頭を下げ、トリノは部屋を出て行く。
残されたアレン皇子は紅茶に口を付け、「アナスタシア……か」と独りごちた。
§
馬車の窓から荒涼とした大地を眺める。
岩混じりの痩せた土には、雑草さえ生えていない。
遠くに見える森も、恐らく手つかずだろう。
作物を育てているわけでもなく、めぼしい特産品もない。
決して豊かとは言えないはずだ。
だが、あの邸宅を見れば、いかにあの家に金が集まっているのかがわかる。
調度品はおろか、応接室にあった油絵も高名な作家の作品ばかりだった。
あれで、借金まみれで没落寸前などと笑わせる……。
それに、あのカイという青年が言っていたウィリアム皇子が来ていたという話。
旧貴族派でつながりがあるのはわかるが……どうにも腑に落ちない。
なぜ、皇子が男爵と二人で会う必要がある?
なぜ、そこに兄がいない?
トリノ男爵の勝ち誇った顔を思い出し、私は一つの答えに至った。
この絵を描いたのはウィリアム皇子だ……。
もはや、ヴィノクール伯爵家に価値はないと判断したということ。
鉱山に関わる
群がったハイエナ共は、我先にと手形を乱発するだろう。
そして、手形は不渡りを起こし、ヴィノクールは……。
頬に温かいものが流れた。
手の甲で涙を拭う。
だが、拭っても拭っても、涙が途切れることはなかった。
「うう……うっ……」
――心の芯が折れてしまった。
もう、自分の力ではどうしようもない。
傾きかけていたとはいえ、これだけ長きに
ならば、潔く最後の時を迎えるだけだ。
家に着き、自分の部屋で書類を整理していると、顔を赤くしたカイルが、ずかずかと部屋に入ってきた。
「アナスタシア! 聞いたぞ、トリノのところへ行ったらしいな!」
「……はい、伺いました」
「俺の顔に泥を塗る気か⁉」
怒鳴られても不思議と何の感情も湧かなかった。
自分でも驚くほど冷静にカイルを観察していた。
この男が……ヴィノクール家の歴史に幕を下ろしたのか。
これでは、父も浮かばれないだろうな……。
「トリノ男爵とは特に何も話しておりません」
「何?」
「そのままです、既に手遅れでした」
「手遅れだと⁉ どういう意味だ!」
「ですから、そのままの意味です……もう、私が口を挟むことはありませんので、ご安心を」
投げやりに答え、目を伏せるとカイルは「ハッ」と嘲笑した。
「最初からそうやって大人しくしていればいいのだ、女の癖に小賢しい真似をしようとするからそうなる、よく覚えておけ!」
「……わかりました」
「チッ……」
カイルはそのまま出て行き、部屋の扉が大きな音を立てて閉まった。
「ふふっ……あはは……あははははは!」
目尻に溜まった涙を拭う。
ここまで酷いとは、流石に思わなかった。
でも、改めて考えてみると、ここまで酷くなければヴィノクール家を潰すことなどできなかっただろう。ある意味、感心してしまう……。
さあ、もう寝よう。
急いで書類を片付ける必要もない。
もう、泣いても笑っても、どうにもならないのだから。
――え⁉
席を立とうとして、突然、目の前が暗くなった。
床に倒れ、体に衝撃が走った。
私、どうしたの……?
目を開けているはずなのに、何も見えない。
どこまでも真っ暗な闇が続いている。
そういえば、ここ最近はろくに眠っていなかった。
うん、きっとそうだ、疲れがたまっていたのだろう。
少し眠ればすぐに……。
だが、何かが違うと私は本能で感じていた。
痛みを感じていた皮膚の感触も、まばたきする感覚もない……。
まるで意識だけが、暗い海の上を漂っているような感覚を覚える。
死ぬ……? わ、私……このまま死ぬの?
突然、恐怖と後悔が現実感を伴って押し寄せてくる。
い、嫌だ……。
このまま死んでしまったら……私は、何のために生きていたの……?
傾きかけた家を助けようと勉学に励み、結婚もせずにずっと家に尽くしてきた。
家に縛られてきた。母と兄に縛られてきた。
父が生きている間は、まだ良かった。
でも、それでも、自分のために何かをしたことなんて一度もなかった!
馬鹿な兄に振り回され、父が死んでからはずっと尻拭いをしてきた。
ああ……なんて空しいんだろう。
泣きたいくらい空しくて、ばかばかしい。
もっと……自分のために生きればよかった……。
幼い頃は、家の図書室で父に勉強を見てもらっていたっけ。
あの頃は良かったなぁ……。
もし戻れるなら、今度は自分のために生きたい……。
田舎に家を買って……おしゃれをして……たくさん友人を作って……素敵な恋をして……。
ああ、これでおしまいか……。
意識が濁り始める。
暗闇を暗闇だと感じなくなった。
自分……私?
あれ、私って……誰?
黒い毛布に包まれているようだった。
とても心地よくて、何もかもがどうでもよくなっていく。
……。
――その時、音が聞こえた。
わからない、でも、水面に雫が落ちたように、私の意識に波紋が広がっていく。
一点の光が見えた。
綺麗……遠いのか、近いのかわからない。
手を伸ばそうとすると、黒いもやが自分の手になった。
そうだ……私の手……体……。
意識が繋がると、同時に私の体が形を取り戻していく。
光、光から音が聞こえる。
耳を澄ます、懐かしいような温かい音。
あ……違う、これは……声だ。
「……スタシア、アナスタシア?」
あれ? 父の顔……若くて中性的な顔立ち。
そういえば、昔はイケメンだったよねって……ん?
「――⁉」
私は飛び起きた。
ハッと周りを見渡すと、伯爵家にある図書室の中だった。
はぁ……良かった、夢だったのか。
「アナスタシア、だめだよ居眠りしちゃ」
「え、ええ、ごめんなさい……最近いそがしくって……へ?」
な、何⁉ 夢? いや……これって? この声?
この小さな手……⁉
え……? えええええええええっ~~~~~っ⁉
「おや、随分大人びた答え方だな、どこで覚えてきたんだ?」
「あ、いえ……これは、そのー、侍女がいっていたのを聞いたんです!」
「そうか、アナスタシアは何でも覚えてしまうな、ほら、続きを読んでごらん」
ん? 続き? 見ると、目の前には歴史の本が置かれていた。
ああ、そうか……懐かしい。こうして良く父に勉強を教わっていたなぁ……。
いや、それどころじゃないって! 何が起きてるの⁉
「あの、お父様……いまはグレイリノ歴何年でしょう?」
「急にどうした? 423年だろう?」
父は不思議そうに私をのぞき込む。
「そ、そうです! 423年ということは、ちょうど終戦から50年の節目を迎えるのですね」
パッと目に入った歴史の本を見て咄嗟に誤魔化した。
423年ってことは、私が倒れたのが440年だったから、17年前……?
「なるほど、確かに節目だな。あのような悲劇は二度と起こしてはならないな」
「え、ええ、私もそう思います……」
父は感慨深げに歴史の本を見つめている。
「あの、お父さま、ちょっとだけ離れてもよろしいですか?」
「ああ、どうしたんだい?」
「れ、レディの用事です……」
「ははは、そうかそうか、それは失礼しました。では姫、ごゆっくり」
父が冗談交じりに、胸に手を当てて礼を取った。
「ありがとうございます」
私は図書室を出ると、大急ぎで自分の部屋に向かった。
部屋に入り、すぐに姿見に自分の姿を映す。
「ああ……やっぱり」
そこには13才の自分がいた。
だが、私の中には30才まで生きた記憶がある。
どういうことだろう?
単にそういう妄想を抱いている可能性もある。
でも、仮に死に戻っていたとしたら?
ここが既に、私が経験した世界だとしたら……。
そう考えていると、次第に欲めいたものが自分の中に生まれた。
死に際に見る夢の中かも知れない。
でも、やり直せるのなら、今度は自分のために生きてみたい。
そのためには経済的に自立を果たし、誰にも頼らずに生きていけるだけのお金が必要になる。
普通に考えれば女が自立なんて鼻で笑われそうだけど……でも、私なら……この先に起きる時勢を知る私になら、できるかも知れない――。
私は鏡の中の自分に手を伸ばした。
幼い顔を小さな指でなぞる。
兄も母も伯爵家も関係ない、私は自立した女性として生きる。
そのためには……もう、動き始めなくては。
「やるわよ、アナスタシア」
鏡に映る13才の自分に、私はそう語りかけた。
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