第5話 詩策記⑤

「詩策記⑤」


 僕たちは、谷川俊太郎さんをご案内して会場に戻りました。

 すっかり準備の整った会場では、我々関係者、全国から集まってこられた今年の受賞者の方々、今日の表彰式並びに詩の朗読会を聞くために来られた一般の参加者の皆さんでざわざわしていました。

 谷川俊太郎さんが一番奥のステージを背にしたテーブルのど真ん中に着席されました。会場はさっと水を打ったように静かになりました。

 それから開会式があり、表彰式、詩の朗読会等、会はどんどん進行していきました。途中休憩を挟んで後半に入ったのですが、後半は谷川俊太郎さんとのトークショー的な内容でした。僕は席順の関係で、恐れ多くも谷川さんの真横に座ることになりました。二三言葉を交わすこともできました。僕はその喜びと緊張感で、自分のおかれていた状況や現実を忘れ、ただただ幸せでした。


 その後のことは残念ながら緊張と疲労とはるか過去のことで忘れてしまったのですが、とても印象に残ったことが二つありました。それは今でも鮮明に覚えているのです。


 一つは谷川さんのユーモラスで温かい豊かな人間性です。

 ご一緒できた時間は数時間で、言葉を交わしたのも僅かなものでしたが、その所作の所々に垣間見える詩人谷川俊太郎さんのお人柄にぐいぐいと惹かれて行くのが自分でもわかりました。

「詩を書いていて良かったと思うことはどんなことですか。」

「印税で食って行けることです。」

会場から笑いがこぼれます。

「教科書に載っておられることについてどう思われますか。」

「ただで宣伝してもらえるので感謝しています。」

会場が和やかな雰囲気で溢れそうです。

「詩を書くようになられてきっかけを教えてください。」

「僕は社会不適応者で、働くことが苦手でした。仕方がないので二十億光年の孤独を書いたら、変な詩を書く若造がいると言われて注目を集めてしまった。それがきっかけかな。」

「二十億光年の孤独」とはご存じのように、教科書にも載っている文壇にデビューされるきっかけとなられたあの名詩です。

 穏やかに淡々と、それでいて一つ一つの質問に丁寧に答えられる谷川さんの横顔はとても優しかった。僕は今でもその情景を憶えています。


 もう一つはサインのことです。

 谷川俊太郎さんは「サイン」には応じられないと聞いておりました。現に会場で一般の参加者からサインを求められても

「僕はサインをしないことにしているんです。」

と穏やかな口調で同じことを言われたのを目の当たりにしました。ですから会場にいる誰もがサインをお願いすることはなかったのです。

 終盤に差し掛かった頃でした。

 車椅子に乗ったお子さんを連れられたお母さんがおられました。お母さんは、マイクを受け取ると、

「この子は谷川俊太郎さんの詩が大好きです。詩に触れているときには笑顔になりま

 す。元気になります。谷川さんにお会いできるのを楽しみにしておりました。この

 子は谷川先生のサインを欲しがっています。申し訳ありませんがサインをしてやっ

 ていただけないでしょうか。」

と突然おっしゃいました。きっとさっきの話を聞いていなかったに違いありません。   僕たちは驚きそれから心の中で、

「しまった。」

と思いました。

まさに「サイン」のお願いでした。

 ここで谷川俊太郎さんがもし気分を害されたなら、この会は台無しになってしまうでしょう。会場が静まり返りました。


 ところが谷川さんは

「ああ、いいですよ。」

とあっさりおっしゃいました。そして

「お子さんは何というお名前ですか。こっちにいらっしゃい。僕のサインで良ければ

いくらでも書きますよ。」

 満面の笑みで優しくおっしゃいました。お母さんは車いすを押してきて、それから谷川さんが言葉をかけられました。そのお子さんは感動の面持ちで谷川さんをじっとみていました。お母さんはお子さんのそばに、僕のすぐ前にいらっしゃいました。涙ぐんでおられました。

 それから谷川さんは、失礼ながら決してきれいとは言えないキャンパス地の肩掛けカバンをまさぐって、輪ゴムで不造作に束ねた筆ペンの束を取り出しました。それらの何本かを引き抜き、キャップを外しては試し書きをしてインクが出るペンを見つけると、その子が震える手で差し出した色紙にすらすらと言葉を書かれました。それから

「はい、どうぞ。」

と優しい笑顔をその子に向け、そっとお渡しになりました。


 このときの光景は今でも絶対に忘れません。会場全体が暖かい空気に包まれたようで、みんなが笑顔になって暖かい気持ちになってその様子を見つめていました。

 なんて空気を読む人だろう。なんて高ぶらない人だろう。なんて優しい人だろうと、隣にいた僕は、この場面に遭遇できただけでいたく感銘してしまいました。


 それから僕たちいわゆる1期生が自分の詩を朗読しました。

僕はたぶん「暮れ色」を読んだのですが、谷川さんから「いい感性ですね。」と言われて本当に嬉しかった。

 この会場(東京)に来るのに旅費がなくてカードで禁断のキャッシングをしてしまったこと。何度受けても合格しない採用試験のこと。自業自得で失ってしまった仕事や家族や地位やお金や信用、その他諸々の損失を差し引いても、ここに来て良かったと思いました。

 ここで谷川俊太郎さんにお会いできて本当に良かったと思いました。


 ずいぶん後悔したしその頃は夢でうなされるほど後悔していたけれど、そういうことがなかったら、僕は絶対に谷川さんにお会いできなかったはずでした。

こうならなかったら絶対に「縁」が生まれなかったことでした。

 故郷に逃げ戻ってこなかったら、そうしてあの人に会わなかったら「初恋」は生まれなかった。「初恋」が偶然「ソネット詩」になってなかったら、僕はここにはいなかった。

 あのとき家族と別れなかったら、あのとき転職など考えなかったら、それから身体を壊してクビにならなかったら・・・。そう考えるとこれまでの色々なことがつながっていて、あるいはドミノのように次々に連鎖していて、そういう「縁」が生まれて現在に至っている。僕は「縁」という、とても不思議なものを感じたような気がしました。


 だから僕は人として、どんなこともおろそかにしてはいけないし、粗末にしてもいけないと思うようになりました。すべてが未来につながっている。すべては循環して自分に返ってくる、そんなことがやっとわかった遅すぎた悟りでした。


谷川俊太郎さん、ありがとうございました。今でも尊敬しています。憧れています。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

詩策記(谷川俊太郎さんとのこと) 詩川貴彦 @zougekaigan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る