第44話 人には甘やかされる瞬間が必要だ
エマの瞳は、もの思うように天上を見上げていた。
夕闇の丘の上に立つ白亜の塔、朱色に染まって流れるライン。
女帝塔の名は俗称で、本来の名は、聖女塔。
汲めど尽きない愛情の聖母を象徴する、巨大で優美なモニュメント。
「裏切りを挙げつらうなら、そなたの自殺未遂も、わたしには痛い裏切りであった」
綾は、唇を強く噛んだ。
「そなたが、かような切札を切る人間とは、思っていなかった。――対等に、人生を闘い、生きてゆく人間として、最高の、裏切りであった!」
「ちょ……っ!! それは、酷すぎます!!」
沙記の声が林間に飛んだ。
「いいのよ沙記……。エマ姉様のおっしゃることは、正しいのだわ……」
綾の涙は引っ込んでいた。震えて、歯をくいしばる。
「……確かに、私は、あの程度で自殺を企ててはいけない人間だった。誰も、私に、それを
「でも!!」
沙記は、ジャンプスーツの足を踏み出した。
自分のバイクはこの際どうでもいい。今、綾は泥の地面に崩れ落ちようとしている。沙記の視線は、まっすぐに、エマの傲岸不遜な瞳を射抜こうと光った。
「あなた達は、自他両方に厳しすぎます!! あなたが何をしても赦す、味方でいる、という態度は、確かにただの甘やかしかも知れない。公明正大さを欠き、正義に反することもあるでしょう。だけど人間、生きていく上で、メタメタに優しくされることが必要って時期も、あるんです! 本人も間違っているかもと危惧しながら、友人が、仲間が、親しい人間がそういう態度をとってくれることで救われる、そんな瞬間が、誰の人生にもあることは、真実だ!! そんな仲間が、生きていくには、必要で、少なくとも、ボクの家族は、みんな、そうだ!!」
「……ほう」
エマの低い嘆息。
綾は、沙記の言葉に震えていた。
沙記はエマ・ヘルフェリッヒを睨みあげることを止め、綾に手を貸して、しっかりと立たせた。
「あ……ありがとう、沙記……」
「リリー隊長も、マーガレット様も、みんなみんな、そう言うっス……きっと……」
「ああ……そうだわね。そうだったわね……」
――言い方まで、聞こえてくるよう……。
そう、
涙が溢れる。
「お姉様……こんなときになんですけれど、こんなに気だてのよい人達と別れて、西苑へ行かねばならなかったときのお心は、いかほどのものでしたでしょうか……。私は……今まで、想像しようともしませんでした……なんて、なんて、お詫びをしてよいか……」
「だから綾様!! あなたは人のことを考えすぎです!!」
――カラカラカラカラ……
沙記の怒鳴り声に、軽い車輪の回転音が重なった。
「ひっ……」
綾は反射的にぎゅっと目を閉じる。
沙記はバッと振り返った。
「塔の……姫様……? なんで、こんなところに……」
腕時計は、あと十分もすれば六時。彼女はいま時分、審査員として、茶室のひとつに登場しているはずだった。
しかし、石畳の上で燃える炎に照らされて浮かび上がる、大粒のペパーミントグリーンの瞳。クラシックドレスの車椅子の童女は、セレイン・スプリング――源
無表情に、三人の高等部生達を見つめている。
エマも呆然としていた。
綾は怖くて振り向けなかった。
――あのときも、あの無表情な、碧い瞳が、私を、見ていた――
胸が千切れるような哀しみに、カッターの刃を当てた左手首。今から一年以上前の、夕刻の情景。
彼女の大きな、変わらない瞳を思い出しながら、ああ、あのときと同じだ……と想いながら、あの日、高一の綾は目を閉じて、思い切り刃を滑らせた。
「あ……の……と……き……」
今、綾の喉から、うわごとのような喘ぎが漏れる。
――あのときって、いつ……?!
――高一のときに思い出していた、あのときって、その前?!
年を取らない少女の顔は、昔から同じ。思い出しても、それがいつとは断定できない。
――いったい、いつ……?!
初夏の夕暮れどきではない。寒々とした、白っぽい空の印象が、どうして、今、浮かぶ?!
振り返ってはいけない。
セイレーンの歌声を聴くように、源聖蓮の碧い瞳は、綾の意識を暗礁に引きずり、沈没させる威力を持つ。
ぎゅっと目を閉じたまま、綾は、自分の意志の力で自らの心の深層にダイビングしようとした。
「……あのときって……私……いつ……?」
頭痛が激しい。頭を抱える。
でも、今この時を逃したら。エマとの記憶も、何も全てつながらなくなる。今、今しなくて、いつ、自分を取り戻せるというのか!
「綾様!!」
頭が割れるように痛い。瞼をぎゅっと閉じる。
「綾様ぁ!!」
――カラカラカラカラ……
暗闇の中で、沙記の呼び声が残響し、車椅子の車輪が廻った。
綾が漂う闇の底から、エマの声が、深く響いた。
『理由を述べて、お前を傷つけたくはない、アヤ――』
重なって別の少女の声も、同時に響いた。
『理由を言って、あなたを傷つけたくありませんの、綾姫――』
綾は絶叫して、瞳をカッと見開いた。
「私が傷つく理由って、なんですのッ?! 美耶姫――ッ!!」
目の前には、驚いたような顔のエマ。
「あ……? お姉様……?」
綾は拳を握りしめて、震えていた。
全て想い出した。吐き気が、苦しい。
しかし、まだ、怖くて聖蓮に振り向けない。
「お姉様……。思い出しました……全て、あなたのせいじゃ、なかった……。エマ姉様が、美耶と同じ言葉遣いをなさったから……たまたま……」
「美耶姫なる者とのこと、思い出したのか?」
綾は驚愕した。
「ご存じなんですか?! 美耶のこと!!」
「ああ……。東苑より西苑に転籍した折、悩まされたのは、三年も前に去った人物だというのに、そなたの噂話、名前が人の口から耳に入ってくることだった。同時に、その美耶という姫のことも、知ったさ。――同じ歳で、双子のように揃って人気者だったようだな? 姉妹のように素晴らしく仲が良く、そして、かの姫がこの学院から――どころか、この世界から忽然と姿を消したように思われたとき、そなたは、それはそれは激しい狂乱状態に陥った。――そうだな?」
綾は、こくりと、涙を堪えて頷いた。
「やっと、想い出せました…… 美耶姫は――妹尾美耶は、中一の終わり、西苑から、私に理由も何も言わずに去ったのですわ。あれほど仲が良かったのに……。あんなに、分かり合える友達だったのに」
声も、顔も、仕草も表情も全て今は思い出せる。
初等部のときから綾の最高の好敵手で、楽しかった各種の行事も、二人だけの間の内緒話も、日々の他愛ない想い出も、どっと堰を切ったように胸にあふれ出した。
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