第43話 明かされる真意

 八畳の広間ににじくちから入り、全員が無事に着席した。おつめの雅がトン! と軽く音を立てて躙り口を締めきる。

 その音が合図になって、やがて亭主が現れる。

 水屋から顔を出す前に、先ほど響也たちが順に手と口を濯いだ奥露地おくろじに出て、蹲踞つくばいに水を足している亭主の気配があった。

 そういえば露地には丁寧に打ち水がしてあったし、いかにも作法通りであの式部の綾姫らしいな、と響也は思っていたが、

「……え?」

 スーッと水屋口みずやぐちを引いて静かに頭を下げた亭主を見て、息を呑んだ。

 エナメル色の髪の娘。式部綾ではない。

 綾の小袖を身につけて、身代わりを務めることになったイギリス出身のエスカドロン・ヴォランも、正客の座にいるエスコート服の元隊長に、少し驚いた様子だった。が、動揺なさらないで、と目配せを送ってきた。とどこおりなく作法が進むよう、どうぞご協力を、と、無言での懇願。

 マーガレットの制服を借りて出ていった綾は、亭主役に間に合う時間に、

戻って、

こられなかった。



 辛いほどの胸苦しさに、綾は自分の肩を抱き、身震いした。

「気が付いたか。少々遅かったが、褒めてやろう」

 昔慕った人の、傲然とした声が言っていた。

「だが、ここまでだ。持ち帰ることは赦さない」

 無防備に目を合わせると、恐慌してしまう。対峙することに、綾は、歯をくいしばった。

「まあ……どうやって?! お姉様の細腕で、私を捕らえておくことが出来るとでも?!」

「帰りの足を、潰せばいい」

 綾は異臭に気が付いた。真っ青になり、振り返る。

 五、六メートルほど後ろの石畳。停めた沙記のバイクの周囲が、濡れていた。ガソリン臭。倒されている、いくつかのバケツ。

「うわわっ、いつの間に!!」

 慌てて飛び離れる沙記。エマが、握った木枝に巻いたハンカチにライターで火をつけ、そのたいまつを、優美に放った。

――……ボォォオオオオオ!!

 黄昏れそめた空、放物線を描いてガソリンの水たまりに落ちる炎。

 白亜のエンプレス・タワーの根本で、オレンジ色の大きな火焔が燃え上がる。

――ゴォオオオオオオオ……

「ボクの……ボクの、クラブマン……!!」

「お姉様!! そんなに私が……私に、勝たせたくないと?! それほど憎む理由は、なんですのッ?!」

 綾は、絶叫していた。

 エマは、口を歪めて嗤った。

「理由? ……またも理由か、アヤ……!!」

 綾は一瞬、言葉を失う。

 あの夏の早朝、バラ園の寒さに身がすくんだ記憶が、よぎった。

「――勝って、あなたを超えてから、尋きに行くつもりでした。でも……こうなったからには、聞かせて頂きますわ!! あの折、最初に私から離れていった理由を、何故、教えて下さいませんでしたのッ?!」

 エマは、肩をいからせている綾と、真っ直ぐ向き合って立っていた。

「語れと言うのか? 今なら正気で聞けるというなら、話そう。――そなたは、あのとき正気ではなかった。半狂乱だった。私は、あれ以上話をしても、無駄だと思った。故に、東苑を去った」

 ア、と、綾は喉から苦鳴をあげた。エマの静かな声は続いた。

「理由をぐだぐだと言い連ねて、そなたを傷つけたくはなかった故にな」

 アーモンド・アイが、強く、綾を見下ろしていた。

「ですから、一体、どういう理由で……私が、傷つくような理由とは、一体、なんだったんですの?!」

 金髪の乙女は、憐憫のまなざしになった。

 沙記のバイクが盛んに燃えている。綾はもう、西苑の陣地へ帰れない。

「違う。違うのだ、アヤ。――言われたらそなたが傷つく理由、という意味ではなかった。理由はひとつではなく、沢山あった。そなたらしいところ全て、ささいなことの積み重ね全て、もしかするとより深く強くそなたを愛する理由となったかも知れぬ、そなたらしさの全て。ただ、それらをたて並べていては、おそらく、別れの辛さは長く長く、時を継ぎそうだったために……わたしは、理由を語ることを、恐れた」

 綾は仰天した。

「それではあれは、私が言われたら傷つく理由、という意味ではなくて……」

「そう。ただ、既に離れると決めていたのに、言い争ってお互いが傷つきそうな予感に、わたしが、耐えられなかっただけ……」

 少し寂しそうな影が、その声音に忍び入っていた。

 勝った、終わったという感慨が、誇り高い彼女に、弱気をさらけだす隙を与えたのか。

「わたしは、離れる理由をいくらでも挙げつらえただろうし、多分そなたは、いくらでも弁明しようとしたであろう……」

 綾は、言葉に詰まった。

 正論だった。

 確かに、綾は、エマから理由を告げてもらえたなら、その後いくらでも言い訳をし、理屈をこね、どんな愚かな行動も言動も全てあなたを恋い慕い尊敬する故だと、分かってもらおうとしただろう。離別を避けようと懸命になっただろう。

 あのころの綾は、一〇〇パーセント、エマのことを敬い愛していたのだから。それだけは、自信を持って言えるのだから。

「だって……だって、お姉様に嫌われる理由なんて、思いつかなかったのですもの……」

 言い訳のように、綾はうめいた。

 抑えても涙が溢れだした。

「私の全てが、貴女に向けられておりましたのに……。想いの全てを捧げておりましたのに――」

 心細い顔、泣き崩れそうな綾に、上級生の乙女は、長く長くため息をついた。

「やはり分かっておらなんだか。それこそが、初めの理由であったのだが……」

「えっ……?」

 綾はしゃくり上げながら、涙をぬぐい、エマを見上げた。喉を押さえ、嗚咽をこらえる。

「分からぬか? そこな広慈宮の娘とつき合ってきて、なんとも思わなかったか?」

 綾は沙記に目をやった。

 強くて真摯な、慕ってくる瞳。思い切りよくボブカットになった髪。響也に非難をぶつけにいった直情。

 エマの声が、綾に降った。

「あまりに近すぎる。近付きすぎる。その気っぷのよい性格のためともいえようが、そなたは、広慈宮の献身に、怖じけたことは、なかったか?」

「そんな……!!」

 沙記が、立ちつくしたまま絶句していた。

「……重すぎるほどの好意。一〇〇パーセントの忠誠、敬愛。高い目標でいることにも、わたしは、限界を感じ始めていた」

 エマが言う。

 ああ、と綾は喘いだ。

 息が、苦しい。

 沙記が、見ている。

「……分かり、ます……。でも、そんな……!! 酷い、裏切りですわ……あなたには、私の敬愛をしかと受け止める、義務が、ありました!!」

 綾の瞳は苛烈にエマを責めた。

 エマは静かに言い放った。

「義務だのなんのという言葉が出た時点で、愛情はもう終わっておるわ……」

「……!!」

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