第29話 女帝と響也の疑義

 窓の外は暗くなっていた。

 スプリング・ヒルの上に立つエンプレス・タワーに、西苑の側から最後の残照があたっている。シルエットラインだけが朱色にきらめいているのが、藍色の一面の空の中に、美しい。その右肩に、一番星が強く輝いていた。

「お呼びですか、女帝」

「その呼び方は、どうにかならないのか?」

 ノックをして入ってきた響也に、くるりと椅子を回して向きあいながら、エマはため息がちに言った。

 東苑ゲストハウス七階、客室の一室を、賛成派総長室として使用していた。

「内密に用事とは、何ですか? オレもいろいろと忙しい身なんですがね」

 単刀直入に行くか、とエマはそのバイオリニストの顔を見て思った。

「あの新隊長は、何者だ?」

「……何者、とは。一ヶ月前まで英国名門イートン・カレッジの生徒で、日本に帰国後は中等教育の雄・全人ぜんじん学園中高に、難関中の難関といわれる編入試験をパスして入った高校三年生。おまけに家は日舞の家元で、その襲名披露も間近い御長男ときては、身元は疑いようもないと思いますが?」

「養子やなにかということはないのか」

「は……? 聞いてませんし、口さがない人々の多い名流社交界で毛ほどの噂もあがってないんですから、その可能性は、少ないと思いますが」

「兄弟、姉妹は?」

「自分が跡を継がねばならない一人っ子だと、ボヤいていましたよ」

 響也は、小柄な新隊長の飄々とした様子を思い出していた。

「いとこでもなんでもいい、一学年下で綾と同い年の娘が、親戚・知縁にいないだろうか?」

「――ああ、妹尾、という名の?」

 察しよく言った響也に、エマは、そうだ、とうなずいた。

 吐息をつく。

「ただのカンだがな…… 美耶とやらいう姫の関係者なら、綾の噂を聞くなり、引き合わされるなりしていても、おかしくはない」

「なるほど。対立することにしたものの、新参者が尻馬に乗って彼女を虐めるのは、気に入らないと。それで動機を調査ですか。――意外に大事に思ってらっしゃるようですね、あの姫さんのことを」

 エマは、反射的に否定したそうな顔になったが、その後、長く長く吐息をついた。

「ああ……憎々しいほど、い奴よ。そうは思わなんだか、狭間?」

 この女帝まで、勘弁してくれ、と、響也は天井を仰ぎそうになった。

「……可愛い、ですか。まあ確かに、まがいものの恋で盛り上がって告白までしてしまうなんて、非常に女子高生らしいとは思いますが」

「ほう? 振ったのは、それが理由か」

 面白そうな顔になるエマ。

 響也は、エマの口から、振った理由などという言葉が出たことに少々驚いたが、ポーカーフェイスで、

「まさか」

 否定した。

「交際相手が他にいる、というのは、その場の方便てわけではありませんで。……しかし、そうでなくても、あのお嬢さんと本気で付き合ったら、怖いことになったでしょうね。特に、別れ話とか」

「はっきりと言う……」

 エマは、辛そうな目をした。響也はしれっと笑って、

「っと失礼、言い過ぎましたか、マドモアゼル」

 苦虫をかみつぶしたような表情になるエマ。

 しかし、怒りはせずに、不敵に口許で笑った。

「ふふん。最近とみに方々から揶揄されて、ストレス気味とみえるな?」

「否定しません。本人にナンクセを付けられるならともかく、と思ってますよ」

「そろそろキレるか?」

「けしかけないよう、お願いします」

「しかも、マドモアゼル、ときたものだ。そなたは私を女とも思っておらぬだろうに、狭間」

「ええ、それはもう、誠心誠意、油断のならない相手と見なしているつもりですよ。女性扱いなど、滅相もない」

「好かれたものよの。似たもの同士か」

「まだまだ貴方様には遠く及びませんが?」

「まったく、ああ言えばこう言う……」

 えんえん続きそうなかけあいを笑ってうち切って、エマは、扉を押し開けた。

 ゲストハウス七階の回廊に出ながら、響也は、

「伊能のことは、調べさせてみますよ。人のプライバシーに踏み込むのは、あまり趣味ではありませんが」

 一礼して、踵を返した。



 綾が客室で休んでいたのは、小一時間ほどのことだった。なんといっても、明日までが勝負なのだ。午後の残りと夕方とを、懸命に働き、頭を絞って過ごした。

 その帰り際、カープールのところまでわいわいとお喋りしながら歩いていくと、小径のカーブの隅に、バイクが停まっていた。

「沙記」

「ちょっと折り入って相談が。綾様」

「……ええ、分かったわ。皆さま、申し訳有りませんが、どうぞお先に」

 綾の言葉に、ご令嬢達は、マナーどおり、余計な詮索なしで、爽やかに頷きあった。

「ではお先に」「ごきげんよう」「おやすみなさいませ」

 笑顔がとりかわされ、集団は先へ歩いていく。

 どうせ、解散が少し早まっただけだ。彼女達もすぐ、各々の御用車に分かれて乗り込む。

 木立の向こうで挨拶がかわされる声、バタン、バタンとドアの締まる音、それぞれの車の排気音が、ひとしきり続いた。

「調べてくれたの、沙記?」

「ええ。ひとまず、あちらの方へ」

 ベンチの一つを指さして、沙記は言った。

 ヘルメットはバイクに固定し、代わりにマグネット式のタンクバッグを外して持って、綾を促し、きびきびと歩いていく。

 蒸し暑い夜、街灯の回りを忙しげに飛んでいる、数匹の虫。

 沙記は、午後から夕方にかけて、綾のそばを離れ、調べものをしていた。

 深刻な様子を見せた綾に、いてもたってもいられなくなったのだ。図書館で、目が血走り、落ちくぼむほど探しに探しに探しまくった、その成果。

 綾は、沙記に送ってもらうからと、車をとっくに帰らせていたが、彼女が予想外に早く報告に来て、内心、動揺していた。

 街灯の投げかける光の輪の中、並んで腰掛けると、沙記は、どさっ、と分厚い一冊を膝に取りだした。

「〝セレイン・スプリング〟は、長期欠席扱いではありますが、正式に、学院に在籍しています。――見て下さい、東苑、中等部三年、睡蓮クラス」

 臙脂えんじ色のボール紙の表紙、分厚い学生名簿に紛れ込んで、その名があった。

「本当だわ……」

「ただし、学生名簿は卒業アルバムと違って顔写真がないので、塔の姫様イコール彼女の確証には、なりません。昔の写真でもと思って、彼女が初等部の頃の卒業アルバムをよく見たんですが、セレイン・スプリングはいませんでした。つまり、中等部一年からの編入なんでしょう。――それはそっちへ置いといてっと」

 彼女は、アルバムの山を指し示した。

「塔の姫様の顔写真が出てるぶんだけ、借りてきました。今日中に返しに行く約束で」

 三年飛びの卒業アルバムが、四冊。

 薄気味の悪い胸騒ぎが、綾の中ではじまった。

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