#37 世界でいちばん無垢なあなたへ

 ――テロリストによって占拠された優生遺伝子保持保管研究所が、ようやく解放されました。これにより殉職者十一名、重軽傷者二十三名と報告が確定。なお、殉職者の中には共同研究者である両性具有も含まれている模様です。


 ラジオから流れる機械音声。かつては生身の人間が声を発信していたというのだから驚きだ。どこかの少女が呟いていた雑学を思い出しながら、縹ユイはラジオを切った。


 反人工生殖主義者による襲撃。あれからもう三日が経とうとしている。


 両性具有『アン』との格闘の最中、によって保護されたユイはそのまま寒空の下に建つ廃墟に連れて来られた。同期やシロと合流したのは、全てが終わった後だった。


 ――520.2_E_21/#00800/Anne←


 『520.2_E_21』は蔵書の分類記号。『520.2』、つまり建築学に分類される書物。『E』は著者の頭文字、『21』はページ数。調べた結果に出てきたのは切妻屋根と呼ばれる、三角形の屋根であった。


 『#00800』は十六進表記法による色の表現。


 最後に『Anne←』、これはムツキの予想通り人名で読む。アンネ、あるいはアン。矢印を書き加えたのは、特殊な順番で読むからであろう。


 閉架書庫に置いてあるなんて、そりゃあなかなか見つからないわけだ。そう言いながら、さも当然のように少女が手に取ったのは、一冊の本。


 『Anne of Green Gables』、直訳すると『緑の切妻屋根のアン』。小説『赤毛のアン』の原題が記された本だった。そこに最後の悲鳴が書いてあったのだ。


 ――なあ、どうしてこの場所が分かったん?


 去り際、テロリストによって捕獲されたアンは、そんなことを訪ねてきた。


 その表情には半ば確信めいたものがあって、答える間もなく言葉を続けたのを覚えている。


 ――三階北棟、イチゴさんの描かれたお部屋。分かりやすかったろ。ようこそ、我が城へ。何十年越しやけど、見つけてもらえてよかった。


 赤毛のアン。鮮やかな赤髪と、その名にふさわしい『茜』の姓。


 人工光すら断ち、暖炉の明かりだけで過ごしてきた彼女は、どれだけの間、待ち続けたのだろうか。来るはずもない助けを、いるとも知れぬ隣人を。


 キイ、と扉の軋む音がする。顔を出したのは功労者、二人静ムツキだった。研究所にいる時とは比べものにならないほど厚着をしている。


「あー、起きてたんスね」


「もう九時よ。寝ていられるわけがないでしょ、こんな時間まで」


「ハッ、小生には分からない感覚ッスね」


 鼻を鳴らして、肩を竦める。


 何があったのかはコトニから聞いた。だからこそ、腹の内で煮えたぎる怒りを、やるせなさを、吐き出さずにはいられなかった。


「これしかなかったの。これが――シロちゃんの大切な人を奪うことこそが、正解だったと言うの」


「……そうッスよ」


「本当に?」


 沈黙。視線を逸らしたムツキは、爪を腕に食い込ませると、


「やらなければ同じ境遇の人間が生まれ続けるだけ。誰かが止めなければ、誰かが手を汚さなければ。は変わらない」


「だからって殺すことはなかったでしょう!?」


「シロ氏をお尋ね者にする気か!」


 初めて聞く怒声。それに彼女自身も驚いたのか、普段は眠そうに落ちている目蓋が震えていた。


「いいか、これは必要な死だった。シロ氏を知る脳を、データを、入念に壊して回って、あの子は自由になれるんだ。『ふたなり』という義務から、ようやく解放される。もう、無理に子供を作らなくていい。学びを、制限しなくていい」


 語尾を震わせて唱える。


「あれは、必要だった」


 その姿は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。


 教えられる知識を制限され、迷いから遠ざけられ、そうして得たのがこの結果だというのならば、ユイはただ唾を吐き捨てることしかできない。何も変わらない。ユイたちも、研究所トモミも、国も。


 恐れるあまり、慈しむあまり、時代の被害者から逃げていたのは自分たちだった。


「私は、そう、思わないけど」


「……いっそのこと、殺してやれればよかったんスけどね」


 自嘲とともに呟くムツキはくるりを身を翻す。もう話すことはない。明らかな拒絶が、ユイを妨げる。


「お互い余生を楽しみましょ。それじゃあ、小生は次の任務があるんで」


 カタン。


 ノブの落ちる懐かしい音とともに、少女は消えていく。


 残されたユイの頭には、すすり泣く音が響いていた。気づけば膝は折れ、硬く冷たい床へと座り込む。


 親を亡くした子と親を持たぬ子。


 もしもあの場にユイがいたら。別の選択肢を見出せていたのだろうか。世界と独占欲の被害者を、助けることができたのだろうか。


「どこで……っ」


 どこで、間違えた。


 鉄臭い後味が、口腔に広がった。



 ―完―

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界でいちばん無垢なあなたへ 三浦常春 @miura-tsune

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ