#33 選択の時

「茜アン!」


 闇を切り裂くのは、聞き馴染んだ声だった。


 鴨ノ羽トモミ――シロの世話係の女性であった。組み伏せられたシロの姿を捉えると、サッと顔を青くする。だがすぐに煮えたぎる憤怒の色を濃くすると、黒光りする筒を取り出した。


「手を組んでベッドに伏せろ」


「嫌やなぁ、拳銃なんて物騒なモンを向けて。そんなんをしとねに持ち込む趣味はあらへんで?」


 クスクスとアンが頭を持ち上げる。


 銃口を向けられてなお平然とする彼女は、ゆっくりと立ち上がった。ベッドの上に立ち、トモミを見下げる。裸体を惜しげもなく披露して、茜アンはわらう。


「撃てんの、鴨ノ羽トモミ。とっても貴重な種馬を。アンタの友人を」


 視線が交差する。寒々とした空気の満ちる部屋で、黒ネコが欠伸をする。


「……甘いなぁ、相変わらず」


 軽く肩を竦めながら、アンはベッドを降りる。すらりと伸びた足は一直線にトモミへと向かう――その瞬間、耳をつんざく破裂音。


 拳銃が火を噴いたのである。しかし弾丸はトモミには当たらず、赤い絨毯に穴を開けるに留まった。


 案の定。そう言わんばかりに、アンが肩を揺らす。


「ほんっと、けったいな立場やなぁ、トモミ。人質も誘拐犯もどっちも殺せないなんて。ほんま可哀想。可哀想でかわいいわぁ」


 銃口が揺れる。依然として拳銃を構えるトモミをくるりと、さながら値踏みでもするかのように見て回る。


「強がるなや。子供ができんくても、楽しむ穴はあるやろ? 手塩に掛けて育てた娘同然のハジメテ、欲しいと思わん?」


 歪む唇。トモミの背後に回った獣は、そうっと白衣を纏った身体に腕を絡ませる。


 するりと撫でたのは下腹だった。子の宮のある、その場所。精子を受け止め、子を宿す準備をする聖域。


「挿れたいんなら、それはそれで準備があるし、どっちでもええで? ウチはあの子に種つけできれば、それで十分や」


「やはりそれが目的か、茜アン」


「逆に興味ないん? ふたなり同士の子供がどんな風に生まれてくるのか。ふたなりか、それとも一方の性しか持たん劣生か。ウチとしては前者に賭けてるんよ。ほら、筆下ろしって興奮するやん? 『童貞も処女もパパとママで捨て合いました』なんて、それこそ世紀末っぽくてサイコー!」


 な、とアンがくるりと振り返る。同意を求められたシロは、ただ身を固くした。


 ふたなり――それは、初めて嫁たちと出会った時にかけられた言葉だ。


 両性具有と意を同じくするが、どちらかといえば俗っぽい、侮蔑や好奇の意が込められているように感じる。


 だからトモミはあの時、嫌そうな顔をしたのか。シロは初めて思い至った。


「……どうしてこうなったんだろうね。昔は性に怯えて、私に縋りつくほどだったのに」


「ウチをこう育てたんはどこのどいつや。責任転嫁も甚だしいわ、義務の犬め」


 吐き捨てたその瞬間、アンは自らの拳をトモミの腹部に突き刺した。呻きとともに体をくの字に折ったトモミは、そのまま崩れ落ちた。


 嘔吐えずくトモミとそれを見下ろすアン。ふと冷たい眼光がシロを射抜く。びくりと肩を震わせると、彼女はフと相好を崩した。


「ごめんなぁ、シロちゃん。怖いとこ見せてもうて。でもな、これが現実やねん」


「え……?」


「こんなん、狂わんとやってられへん。チンポもマンコも、精子も卵子も自分のものやない。この国の、ひいては世界のものなんや」


 言いながら、アンは地面に落ちた拳銃を拾い上げる。


 それは何度も聞かされてきた話だった。子供を作り、国に貢献する。その果てに世界の平和があるのだ。三十畳の『家』で、何度も何度も、擦り切れるほどに刻まれたその言葉――それが初めて揺らいだのは、つい先日のことだった。


「でっ、でも――」


「知っとるか、シロちゃん。かつては食い物がないから子を育てられなかった。その次は金、今は精子や。精子がないっちゅーことは、どこからか精子を調達せなあかん。そのためにウチらがいる。――なるほど、それは分かった。けど、思われへんかった? なんで自分なんって」


 ぎくりと胸の奥が悲鳴を上げる。


「ウチらはただの種馬。特別でも何でもない。人口が少ない? 労働力が足りない? ジジババだらけの世の中になる? そんなモン知ったこっちゃねぇ。テメェらの都合でウチらの人生を奪うなや」


「口を閉じろ、茜アン……!」


 トモミの唇から、低い呻きが洩れ出る。アンは肩を揺らした。


 シロはちらりとトモミを見遣る。


 彼女はいつまで経っても否定をしなかった。アンの言葉を、悲鳴を。それはどうしようもない真実なのだと、暗に認めているようなものだ。


 暗い暗い穴が、シロを飲み込んだ。


「さあ、シロちゃん。選択の時や。権利の自由か義務の奴隷か、好きな方を選ぶとええ!」

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