#34 もう何も

 突如として拓かれた道。


 以前と変わらぬ生活か、それとも茜アンの手を取るか――どちらを選んでも、行く先はじっとりとした闇に覆われている。


 想像できなかった。想像したくなかった。


 いつかトモミに自分の子供を見せたい。その気持ちに変わりはない。だけど、その後は。見せた後も、また作らなければならないのか。シロの意志と外れたところで、永遠と。精魂枯れ果てるまで。


 シロは運がよかっただけなのだ。己を鑑みてくれる嫁たちと出会えて。


 しかし、もしも――もしも。アンのように迫る子が現れたら。もしも嫁たちが同じ目に遭ったら。それはとても、ひどく恐ろしいことだ。


 悲鳴と擁護と、さまざまな声がシロの中で反響する。世界のために、トモミのために。いつか必ず、子供を作らなければならないのに。


「分かんない……分かんないよ、こんなの――選びたくない!」


「ホンマに? ホンマに選べない? こんなに簡単な問いやで?」


「うるさい! もう何も教えないで!」


 我がもの顔で肌を這う手が気持ち悪かった。


 男と女の混じる歪な身体に吐き気がした。


 いつまでも立ち止まったままの知識に反吐が出そうだった。


 三十畳の『家』が息苦しかった。ピンク一色の部屋に黒のクレヨンをなすり付けたかった。


 幼稚な玩具を咥えた箱に水を入れたかった。


 作り物の空がひどく淀んで見えた。『常識』が鬱陶しかった。


 嫌だ、消えろ。消えろ。


 見ないふりをした悪い子が、のっそりと顔を出す。


 消えないと、消さないと、苦しくなる。


 耳を塞いで背を丸めて、顔を、背けた。


「……そんなつまらん答えを出すとは思わんかったわ」


 銃口が揺らぐ。ゆったりと、たっぷりと時間を使って、もどかしそうにシロを捉える。


「知らんことは楽や。考えんことは楽や。けど、それじゃあ意味ないねん。。可哀想になぁ。なんも知らない、穢れを知らない無菌室の培養っ子に育って。それで幸せやった? なあ、シロちゃん」


 知らない。ゆえに知る楽しさを覚えた。


 しかし「知らないこと」を口にするたびに嫁たちから向けられる驚愕と哀れみに、よい気分はしなかった。


 知っていて当然の事柄を知らない。それは恥なのだろう。それを理解していながら、知ろうとしないことは罪だ。


 だが――とシロは目を伏せる。


 もう何も知りたくなかった。情欲を孕む視線も、熱を帯びた愛撫も、深く艶めかしい口づけも。別の生き方があるということも。


「死にたいか? シロちゃん」


「……選びたくない」


「しゃーないなぁ」


 白い指が引き金に掛かる。はと顔を上げたトモミが何かを叫ぶ。たった一瞬、ほんの数秒の出来事が、何時間にも感じられた。


 あれは――あの拳銃は、人の命を奪うものだ。ベランダから落ちた時よりもずっと簡単に、轟音とともに意識を掠め取るものだ。初めて触れる死の空気。それは素肌を慰撫する冷気よりもずっと寒かった。


「お――おおお!」


 雄叫びとともに何かが突っ込んで来る。長い髪を翻し、狼狽うろたえた銃口と腕を押し退けて、力強い跳躍とともにアンを押し倒した。ひねり上げられたアンの手から拳銃がこぼれ落ちる。


 裸体の上に膝をついたその人は、必死の形相で叫ぶ。


「逃げなさい、シロ!」


「縹ユイ……!」


 肩を、頭を、腕を、全身を器用に使ってユイはアンを組み伏せる。背丈はほとんど変わらない。しかし『スポーツ』に励む少女を、鍛え上げた身体を跳ね上げるには至らなかったようだ。綺麗な顔を歪めたアンは、ただもがくばかりであった。


「こんっの……捨て駒ごときが! 誰のおかげでガキが作れると――」


「黙れ!」


 どうしたらよいか分からず、はらはらと見守っていると、ふと背を何かが這った。悲鳴を喉で押し留めながら振り返れば、そこには唇に人差し指を当てた不言コトニの姿があった。


「コトニちゃん……?」


「シロちゃん、こっち」


 その傍らには薄手のシーツを手繰るムツキがいる。彼女はくるりとシロの身体にシーツを巻きつけると、抱えるようにベッドから降りた。


「ま、待ちなさい、どこ行く気!」


 ふらりと、頼りない足取りで立ち塞がるのは世話役の女性。


 コトニが一瞬怯む様子を見せたが、ムツキが取り出したものに息を飲んだ。黒い箱だ。パチリと小さな光を放つそれは、トモミの首筋へと吸い込まれた。その瞬間にトモミの瞳がぐるりと目蓋の裏に隠れ、膝を崩す。


「トモミさ……っ」


「スタンガン!? そんなのどこで――」


 顔を青くしたコトニがムツキへと詰め寄るが、彼女は全く意に介すことなくシロの手を引いた。


 行かないで――引きれるような悲鳴が、耳を掠める。

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