#32 赤

 驚きだった。まさか自分以外にも、男性器を持つ者がいるなんて。


 じぃんと、胸の中に何かが広がる。それは温かくも冷たくもあった。


 男性と女性、両方の性を一身に持つ者。子供を残すことを義務づけられた存在。


 話したいことがたくさんあった。


 普段どんなことをしているのか、どんな本が好きなのか。子供について、どう思うか。どっと洪水のようにあふれ出る話題は、シロの喉を締め上げる。熱くなった頭は言葉を紡がない。


「ま、アイスブレイクはこのくらいでええやろ。ウチ、あかねアンて言うん。アンタは?」


「し、シロです」


「姓名は?」


「……ない、と思う、です」


「んふ、まるでペットやねぇ」


 女性、茜アンはおかしそうに肩を揺らす。


 よく見れば、その目の奥にはひどく冷たい光があった。仄暗い視線。しっとりとねっとりと、黒く熱い触腕が背筋を撫でる。喉の奥が鳴る。同時に、ひどく既視感があった。


 『アン』――その名をどこかで聞かなかっただろうか。


 火照りつつある頭を冷ましながら思考を巡らせていると、アンはますます笑みを深くしてシロとの距離を詰めた。


「アンちゃんでもアンさんでも、いっぱい好きに呼んでな。ウチもシロちゃんのこと、いっぱい呼ぶさかい。一緒に気持ちよくなろーね」


「それって――」


 ふに、と唇に柔らかい感覚が触れる。


 それは刹那のふれあいだった。


 艶やかで引っ掛かりの一つもない、少しだけ冷たい唇。ぼやけていた女性の顔が、次第に鮮明に映る。してやったりとばかりに笑むその顔は、いつか見た少女のように無邪気だった。


「あは。目ェ閉じひんで、シロちゃんってばムッツリやねぇ」


「……へ?」


「……何されたか分かっとる?」


「接吻?」


「んはっ、接吻て」


 噴き出すアン。シロの腿に手を置いて、ずいと顔を突き出す。鼻先が触れ合い、温く甘い吐息が唇を掠める。


「『ちゅー』とか『キス』って言ってみ。その方がおねだりしやすいで?」


「えっ、いや、おねだりしたいわけじゃ……」


「コトニちゃん――やったっけ? あの子よりすごいの、したくない?」


 数日前、シロとコトニは接吻を交わした。それはコトニから一方的に与えられるものであったが、享受するには余るほどの騒めきと熱を残した。コトニの愛らしい舌が、肉々しい眼光とともに口腔を這いずる感覚は、今でも身体の奥底に残っている。


 ふわりと漂う花の香り。あの子とは違う、大人びた芳香。羞恥と焦燥、それが急速に頭を冷やす。いつの間にかシロは、アンの肩を押していた。


「や、やめてください……」


 ひどく頼りない抵抗であった。肌に手を添え、紙を押すかのごとき力で妖艶を押し返す。


 接吻はあの子との性行為だ。そう、約束した。その瞬間に、シロにとって接吻は特別な意味を持つものになった。手を繋ぐのとはわけが違う。


 これは絶対に、見ず知らずの人と交わしてはいけないものだ。もう名前を知っているから『見ず知らず』ではないけれど、嫁でもない人と安易にするものではない。


 シロは、ちゃんと知っていた。それなのに――。


「あはァ、たまらんわぁ」


 聞こえてきたのは、ひどく熱っぽい吐息だった。


 恐る恐ると視線を持ち上げれば、そこにはとろりと眉尻を溶かした女――否、雄の姿。


 恍惚と、震えるウサギを見下ろす猛獣は、息荒くシロを深いシーツの海に押し倒した。


「なあ、もっと抵抗して? もっと嫌がって? 今までのメス共とは違うってこと、証明して?」


「ッ……」


 喉が詰まる。


 さらりと落ちた赤い髪が世界を閉じる。


 恐怖に震える己を震い立たせて、今まさに獲物を捕らえようとする赤い口を押さえた。


 アンの瞳が驚愕に染まる。しかしそれも一瞬のことで、すぐに愉悦に満ちると手の平に生暖かい感覚が走った。


「ひっ……!?」


 舐められた――そう知覚して慌てて手を引っ込めるが、トモミは力づくで引き寄せると、再度それに舌を這わせた。


 中指の腹から水掻きへ、少しさかのぼって指先を吸って、戯れに口腔に含む。


 温かく湿った口内でねっとりと絡みつく蜜が肌を伝い、手首へと落ちていく。


 それを追う真っ赤な唇。血管が透けるほど白い手首に八重歯を立てる。


「あは、思えば指フェラなんて初めてやなぁ。ウチにも『ハジメテ』、残ってたわ。やったげよか、下も。初めてやさかい、下手かもしれんけど堪忍な」


 うっとりと微笑むアン。その目は「性行為」で向けられたものとは似ても似つかない。煮えたぎる情欲と狂気を孕む目。


 あれは――口腔を貪り合うようなやり取りは、ただの子供の遊びに過ぎなかったのだ。


 頬を撫で、首筋を伝い、鎖骨へと降りていくその手に、シロはただ身体を固めることしかできなかった。


「なあ、なんでそんな緊張しとるん?」


 赤い檻の中で、獣は首を傾げる。


「――あ、もしかしてハジメテとか? せやな、破瓜は誰でも怖いもんな。みーんな同じこと言うねん。けど安心してな。こう見えてウチ、いろんな子を抱いてきたから。経験豊富な子も不感症の子も、もちろん処女も。だから、絶対に嫌な思い出になんかさせへん」


 切々と機嫌を取る滑稽な様でありながら、有無を言わさぬ迫力がある。心の底から安心させようとしているのか、アンの瞳は情欲に濡れていながらも優しい。


 特異な身体ゆえに男にも女にも理解のある彼女だ、きっと片性の人間よりも大切に扱うだろう。


 それでも、シロは大きな瞳に涙を浮かべた。


 首を振った。


 小さく幼く、拒絶する。


 獣には届かない、静かな音で。


 遠くで、何かが鳴いている。

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