第2輪⑤

 廊下を歩く話し声。グラウンドに響くかけ声。命を削る蝉の鳴き声。

 昼間の喧騒が過ぎても空が明るい間、ここは彼らの領土テリトリー。傾いた太陽の光が保健室に満ちて、彼女は開いた窓から入り込む風を聴きながら、一人の時間を謳歌していた。

「昨夜はどうだった?」

 締め切ったカーテンから聞き慣れた声が語り掛ける。

「よく眠れましたが寝坊しました。今日は三限から登校です」

「頭だけじゃなくて体も使ったからね。それとも、少し体力落ちた?」

「そうかもしれないです。……成瀬って夜行生物部に入るんですか?次の活動には来るみたいですけど」

「入ってほしいけどね。でも次の活動も来るってことはなかなか好印象だったのかな。心有ちゃんはどう?」

 彼女は開いていた本を閉じて、風に靡くカーテンを凝視して考えた。

「人数が多い方が議論をするうえではいいと思います」

「人数的なことじゃなくて、成瀬くんはどうかって話。仲良くやっていけそう?」

 仲良く。馴れ合いを嫌う人間がそう簡単にできることではない。

「まだ、あいつのことはよくわかりませんが……同じ夜行生物部の部員ならやっていけると……思います」

 語尾の消えかかった声。確信を持てない心。どうかと問われてもわからない自分の気持ちに、別の顔が過る。響き渡る沈黙が陸の孤島と化している。

「それは後の期待とでも言っておこうか。今日、和くんは?」

「多分来てないかと」

「そっか。もう新学期が始まってから二週目だし、そろそろ催促しておこうかな?彼の担任にも言われているんだよね」

「さすが、問題児の扱いは慣れていますね」

「手のかかる子が好きなだけだよ。あっ、ハーブティー作ったから持って帰っていいよ」

「ありがとうございます。いつもすみません」

「言っただろ?手のかかる子が好きだって」

 保健室の主は相当変わり者だと思う。自身を魔法使いと名乗り、夜に眠れない子どもを集めて夜な夜な怪しいことをしているのだから。しかし本当の変わり者は、この風変わりな趣味を持つ変態魔法使いに騙されている彼女自身かもしれない。彼女は昨夜から溜めていた胸のつかえを吐き出した。

「桐崎先輩って部活やめるんですか?」

「個人的にその線は濃厚だと思うよ。二学期に入って一回も学校に来ていないようなら、出席日数とか本当に大変だろうね。ただでさえ、一学期もそんなに学校来てなかったみたいだし。新くんの言っていた通り、本当に留年もしくは退学しちゃうかもね」

 頭では理解できていても、身体がそれを拒絶するような不快感が襲った。

「心有ちゃんはどうしたい?」

「先輩には活動に来てほしいです。でも、強制することは出来ないし、このまま留年も退学もしてほしくないです」

「和くんなら心有ちゃんの言葉をちゃんと聞いてくれると思うよ」

「仮にそうだとしても、これは私の個人的な願望に過ぎませんので。どうするかを決めるのは先輩自身です」

 大切とは言い切れない存在。他人だけど他人じゃない。遠くて、近くて、名前のない繋がりから生まれた奇妙な関係とこの感情を彼女はなんと呼べばいいのかわからなかった。

「君はもっと、相手に踏み込んでもいいと思うよ。君は素直で優しいな子なんだから、みんなから愛されるよ。君の誠実にきっと答えてくれる。相手が和くんなら尚更ね」

「……ありがとうございます」

 この励ましも何度目だろう。保健室の主は度々こうして魔法の言葉をかけてくれるが、素直にこの魔法を受け入れようとは思わなかった。いつも別世界の食べ物の話のように聞こえていた。口では食べてみたいと言うけれど、本当に食べたいとは思わなかった。

「和くんを説得するの、心有ちゃんも手伝ってくれる?」

「構いませんけど、部員同士のプライベートには踏み込まない決まりじゃ」

「勧告はプライベートじゃないから大丈夫だよ。せめて、気が向いた時でいいから活動にも顔を出してほしいってマイルドに言ってくれれば」

「成瀬の勧誘の件で私のこと完全に説得係だと思っていますよね?」

「だって俺は説明下手だし、大雑把だからね。新くんはまだ不安定なところがあるし、心有ちゃんに頼むのが一番確実だと思っただけだよ。体調どう?」

「大分よくなったと思いますけど、もう少しいてもいいですか」

「うん、いいよ」

 彼女はまた本を開いて、自分の世界に閉じ籠る。風に揺れるカーテンの隙間から残暑の香りがする。サンセットに染まる空。群青はまだ遠い。グラウンドに響く青春の声を聞いていたら、一匹の蝉が窓にぶつかって、落ちてから羽音が聞こえることはなかった。

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真夜中の夢はドーナツの穴 阿透 @askism

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