30.『どうか教えてください』

 いつも通りの朝。違うことは、今日が千石の誕生日だということ。千石がこの世ーーこの世ではないか?ーーに生まれてきてくれた特別な日。

 誕生日の話をした際、「また祝えるなんて、不思議な気分です」とはにかんだ千石を思い出す。なんて素晴らしい目覚めだろうと、その表情を脳裏に焼き付け目を開けた。


「せんごくー、おはよー」


 休日はだいたい千石が早起きをして朝食を作ってくれているのだ。いや、朝食は平日も作ってくれるが、私も早起きをするので、という意味だ。

 ワンルーム、廊下へ続く扉を開ければそこには千石がいるはずだった。


「あ、れ?千石……」


 食材でも買いに行ったか?と、見当たらない千石の姿に思う。今すぐ所在確認をしたいけれど、スマホを持っていない千石への連絡手段がない。

 スマホいらないって言ってたけど、やっぱり私名義で契約したものを持っててもらおう。普段もそうだけど、こういった時に連絡が取れないのは私が困る。

 こうなれば千石が帰ってくるのをひたすらに待つしかないのだ。


 私は待った。一切使われた形跡のない台所。なんの食材が必要なの?と思ってしまうほど詰まった冷蔵庫。

 嫌な汗はとうに流れていたし、最悪の想像はもうし終えた。千石の荷物はあるもん。大丈夫。などと気休めにもならない励ましを自分に投げかけて、私は2時間千石を待った。

 だけど千石は帰ってこなかった。


 ふぅ、と吐いたため息は自分を落ち着けるためだ。そうだ、と思い立って、千石の唯一の持ち物である指輪をしまっていたタンスの引き出しを開けた。


「……ない」


 確かにここに「失くすと困るからね」と千石としまった。きちんとあるかも定期的に確認していた。その指輪が失くなっていたのだ。

 これは、もう、きっと千石も……。分かってる、頭では理解している。だけど心が追いつかない。

 千石にはもう会えないの?、と浮かんだ思考を黒く塗り潰した。もしかしたら、私に嫌気がさして他の女の人のところに行ったとか?

 それも嫌だけど。吐きそうなほど嫌だけど。この世から消えてしまうより幾分かマシに思えた。だってそれなら、また偶然会える確率はゼロではないから。だけど向こうの世界に帰ってしまっていたら?それはもう千石はどこにもいないということだ。だって、彼は死んでる。死んだ人には二度と会えない。それは自然の摂理であった。


 しかしそれを認めたくない私はかぶりを振ってその考えを頭の中から追いやった。そして何ができるだろうか?と考える。だけどできることなんて何もありはしないのだ。


 悲しみに覆い尽くされた心を切り裂くようなけたたましい着信音が鳴り響く。千石なわけがない。分かっているのに。淡い期待を抱きながら見たスマホ画面には"米屋圭吾"の文字。それを見て肩を落とした私は、しかしいつも通りに電話を取った。


「はい、どうしたの?」

『おー、突然わりぃな。大丈夫か?』


 米屋は"今電話をする時間はあるか?"という意味で"大丈夫か?"と聞いてきたのだ。しかし今の私にとって、それは優しく包み込んでくれる言葉に他ならなかった。気を抜けばこぼれ落ちそうな涙を堪えて「大丈夫だよ」と返せば、『なんかあっただろ?』と米屋は知らぬふりをしてはくれない。


「ははっ、なんかってなによ?なんもないよ」

『そうかー?いやー、なんかオマエに電話しなきゃいけない気がしてさ』


 なにそれ、と言ってしまいそうになる言葉を米屋は真面目に告げた。電話の向こうで照れたようにはにかむ米屋の表情がありありと浮かぶ。

 そんな米屋に励まされた私がぽつりと「さとるがいなくなったの」とこぼせば、気味の悪い沈黙が流れた。


「……米屋?」


と沈黙に耐え切れなくなった私が彼の名を呼べば、ハッとした米屋から『わりぃ』と謝罪が返ってきた。しかしそのすぐ後に、『さとるって誰だっけ?』と衝撃的な言葉を続けたのだ。

 息が止まるかと思った。いや、実際、息が止まったかのように呼吸の仕方を忘れてしまった。吸い込んだ空気が喉に絡みつく。肺まで上手く吸い込めなかった空気が喉の浅いところで、ひゅっ、と音を鳴らした。


「や、やだなぁ。私の弟だよ。米屋も会ったことあるよ?」


 会ったことがあるどころか、米屋んちに泊まったし、プールにも行った。だけど米屋は『それ誰かと勘違いしてるわ』と言うのみだ。そこまではっきりと言い切られてしまえば、「そうかも、ごめん」と返すしかできない。そして私のことを心配してくれる米屋に、形ばかりの「大丈夫だから」を伝え、電話を切った。

 千石と会ったことがあるサエちゃんや楓ちゃんに電話をしてみようか、とも考えたけれど。米屋と同じように「そんな人知らない」と返されることが明白で、それが辛くて、結局行動に移せなかった。


 千石慧は私の中に、私の横に、この部屋に確かに存在していたのだ。だけどそれをどうやって証明すればいいのだろう。そもそも誰に証明するんだろう。

 不思議なもので、悲しいし、それ以上に辛いのに。涙は少しも出てこなかった。そして何もしない時間を作りたくなくて、私は必死に記憶の糸を手繰り寄せた。


 その甲斐あってか、そうだ、写真!と、千石がこちらに来たばかりの頃に嫌がられながらも撮ったことを思い出す。しかしカメラロールを少し遡ればあるはずだった千石の不機嫌な顔はどこにもない。

 なんとなくそんな気はしてたけど、と何も面白くないのに嘲笑が漏れた。ここに自分がいた痕跡を残したくないと言っていた千石。「写真が残ってたら後悔するのは瑠璃子さんですよ」と呆れながら言った彼を思い出した。

 千石、千石が何も心配することはなかったよ。この世から千石が消えたら、ぜーんぶ消えちゃった。だのに、どうして私の記憶の中の千石は消えてくれないのかな。どうして私だけが千石を律儀に覚えているのだろう。消してほしかった。忘れてしまいたい。覚えていたい。死ぬまでずっと。

 なにが私の本当の願いなのか。そばにいたいよ。千石はもういない。もう、二度と会えない。それなのに涙は一つも流れない。




 どれほど放心していただろう。辺りはすでに日が傾き始めていた。西日の眩しさに思わず顔を顰め、本当は今日千石と行くはずだったクルージングディナーの予約を思い出す。

 キャンセルの電話を急いでしようと、電話番号を調べるためにネットを開いた。そしてはたと思い至った。そういえば、リングってどうなってるんだろう。

 相変わらず読む気になれないままの私は、スマホで読み続けていた千石からも内容は少しも聞いていなかった。しかし千石がいなくなった今、漫画の"リング"だけが、私たちを繋ぐ唯一の物なのだ。


 と、とりあえずキャンセルしなきゃ、と電話を済まし、震える指を必死に抑えてウェブ検索をかける。『リング 最新話』そこまで打ち込むと予測で『千石慧』と出た。あ、さとるだ。きっとそこに答えがある。私の指はもう震えてはいなかった。


 深く息を吸い込み長く吐き出したのち、私は検索結果を表示した。そこはお祭り騒ぎだった。


『慧が報われた!』

『想像と違ったけど良かった!』

『生き返ったと言ってもいいんじゃない?』


 中には納得していない人たちもいるようだけれど、ネットの反応は概ね好意的だ。そして私は理解した。千石の元いた世界で千石は生まれ変わったのだ。作者によって丁寧に描かれた最新話で赤ちゃんの姿になった千石は微笑んでいた。きっと彼は新しい人生を歩んでゆくのだ。

 幸せそうじゃん。千石が幸せならそれでいいじゃん。そう思おうとしてもやっぱりダメだ。千石の居場所は私の隣でしょ。お祭り騒ぎの中で私だけがお葬式のように悲しみに暮れている。


 それから私はもう少しウェブ検索をかけ、千石が『美輪慧』と名乗っていた時に撮られた写真もネット上から全て消えていることを把握した。本当にこの世にいた痕跡は全て消え失せている。

 今はしっかりと覚えているけれど、時間が経てば私の中からも千石の記憶は消えていってしまうのだろうか。それならそれでいいかもしれない。この先、千石との思い出を美しい過去の物として抱えて生きていくのは辛すぎる。

 どうやったら千石に会えるのかな。千石が生まれ変わった今、死んであの世にいっても会えないしなぁ。と、それが本気なのか冗談なのか、私にも分からない。




 その夜、千石の服をかき集めて眠った私は夢の中で彼に会った。"これは夢だ"と明確に理解していながら、昨日までと同じように愛おしげな眼差しで私に『ごめんね』と謝る千石に縋りついた。


『みんな覚えてないんだよ。千石がいたこと全部』

『瑠璃子さんが覚えてくれてたら、僕はそれでいいんですよ』

『……でも、私もいつか忘れちゃうかも』


 悲しげに眉を下げた私に『それならそれで』と千石も同じように眉を下げた。『そんな悲しいこと言わないで』と流れ落ちた涙を千石の指先が丁寧に拭う。夢なのに、そのリアルな感触に感情が激しく揺れた。


『そうだ、千石。お誕生日おめでとう』

『……あぁ、そうか。ありがとうございます。ケーキ食べられませでしたね』

『そうだよ。年越し蕎麦も食べられなかったね』

『クリスマス蕎麦になりましたね』


 ふふ、と2人笑う。もっともっと言いたいこと、伝えたいことがたくさんあるのに。口から出てくるのは些細なことばかりだ。


『キスして』


 と恥をかなぐり捨ててした私の懇願に、千石はまた困ったように眉を下げ、そして首を左右に振り拒否を表した。『どうして?』と問う私の声は震えている。夢の中でぐらいもっと甘やかしてくれてもいいじゃん。


『だって、瑠璃子さん泣きそうですし』

『……泣かないから!』

『耐えられないのは僕の方ですね』


 ふわりと千石の匂いが鼻を擽り、抱き締められていることを悟った。泣かないとあれだけ言い切ったのに、抱き締められたぐらいで私の瞳からは涙がぼとぼととこぼれ落ちる。色気のない豪快な泣き方に嫌になるけれど、仕方ない。それほど切ないのだ。言葉に出来ない想いが涙となって溢れ出てきているようだ。


『やっぱり泣いてる』


 と揶揄う千石の声だって震えてるよ。息を吸うたびに千石の匂いも吸い込む。なんだっけ、確か匂いが一番記憶に残るんだっけ。これが千石の匂い。話し方にも愛し方にも千石の匂いをつけてくれたなら、私はいつまでもこの人を忘れることはないのかな。


『もう行かなきゃ』


 千石は死刑宣告をする。夢なら醒めないで。一生このままで、と私は駄々をこねる子供のように頭を左右に振りながら千石をきつく抱き締めた。『瑠璃子さん』と私を呼ぶ千石の声は愛の囁きだ。それなのに、それだけで充分なのに。彼はいっそ殺してと願いたくなるほどの美しい笑みで『愛してます』と告げた。

 ずるい。千石は本当にずるい。私は絶対に言ってなんかやらない、と口を固く結ぶ。


『ねぇ、千石。幸せになって』


 しかしそんな時間がすぐに惜しくなって、口を緩めた私の言葉を聞いた千石は呆れたようにため息を吐き、指で目頭を押さえた。千石の左手にはあの指輪がつけられている。


『あなたがいない世界で、どうすれば幸せになれるの?』


 千石がそう口にした瞬間、指輪から紫色の光が溢れ出した。

 その声と光に導かれるように目を覚ました私を包み込んでいたのはやっぱり千石の服だけで、そこに千石はやっぱりいなかった。

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