29.「明日言います」
他の風邪症状はすっかり治ったのだけど、あの日から1週間以上経った今もなお咳だけが尾を引いていた。
ケホケホと乾いた咳をしながら食器を洗っていると、千石が「やっぱり月曜にでも病院に行ってきたらどうです?」と背後から突然現れた。
「わっ!びっくりしたぁ!!」
「……そんなに?ね、病院」
「んー、昔からだしなぁ、咳だけ長引くの」
気が進まないことが丸分かりの返事をしながら、洗い物の続きに取り掛かる。千石も私の返事はほぼほぼ予想していたのだろう。「行った方がいいと思いますけどね」と、軽めの口調でもう一度言うのみで、無理にとは思っていないようだった。
「それよりもそろそろケーキ取りに行った方がいいよね?」
「あぁ、ほんとだ。いつの間にかこんな時間ですね」
時計を見れば16時。近所のケーキ屋さんにクリスマスケーキを予約した時間まで、あと30分ほどだった。
昨日のクリスマスイブは私の仕事帰りに外食をして、イルミネーションを見た。クリスマス当日の今日は、「どっか行く?」と千石が気遣ってくれたのだが、なんとなく部屋で千石とゆっくりしたくて。サブスクでクリスマス映画を観ることにした。
それにしても、映画を観ていると時間感覚がおかしくなる。なので気づけば16時。ちなみに晩ご飯の準備は少しもしていなかった。
1週間ほど前はあんなに暖かかった気温も今は冬らしく、空気まで凍えている。暖房の効いた部屋に篭っていたからか、今日初めて感じた外の空気に思わず身震いをした。「寒いね」と率直に告げれば、鼻の頭を赤くした千石が「ね」と頷いた。
ケーキを受け取って家路を急ぐ。初めは私が持っていたケーキも、「瑠璃子さんが持ってると、つまずいてケーキ崩れそうだから」と今は千石の手に渡っている。その光景が頭に浮かんでくるほどあり得そうなので、意地を張らずに千石に任せたのだ。
「ねー、誕生日ケーキも別で買わなくてよかったの?」
「それは以前に断ったでしょ?」
「そうだけどさぁ。千石も甘いの好きじゃん?」
「それはそうですけど。冷蔵庫に入りきらないですよね?!」
ほんとお母さんみたいなこと言うじゃん。しかもその通り過ぎて反論ができない。だけど明日に迫った千石の誕生日もケーキでお祝いしたかった。し、明日もケーキを食べたかった。私が!「ちぇ」とあからさまに肩を落とした私を見て、千石がふっと小さく笑う。
「じゃあ、今夜ワンホールを2人で食べ切れたら、明日また買いに来ましょうか」
「いいね!そうしよう!」
「……2人でワンホールですよ?」
「うん?知ってるよ?私たちなら大丈夫でしょ!」
約束ね、と小指を出せば、千石は諦めたように自分の小指を私のそれに絡ませた。
帰宅後、冷蔵庫にケーキをしまいながら「晩ご飯どうします?」と千石に聞かれ、「考えたくない」と率直な意見を口にした。
ケーキの箱が2つは入らないほどに食材は用意されてるのに、なんだか腰が重くて料理をする気になれない。普段なら「じゃあ僕が作りますよ」と言ってくれる千石も、どうやら今日は私と同じ気持ちのようだ。
「デリバリーでもします?クリスマスっぽくピザとか?」
その提案に「それいいね!」と一度は乗ったけれど、クリスマス当日のピザ屋の混雑を考えると今さら注文することに気が重くなった。そもそもお腹が空いてて長くは待てそうもない。
それを伝えれば、「たしかに、そうですね」と千石も納得をし、「では、蕎麦とかどうです?」と新たな候補を提案した。
「そば?」
「ええ。蕎麦」
「クリスマスっぽくないね」
くすくすと笑いながら「お正月じゃん」と1週間後の行事を告げれば、「だから今日は空いてそう」と千石も笑みをこぼした。
たしかにその通りだ。1週間後に年越し蕎麦を食べる予定の人たちは、わざわざ今日食べたりしないか。
「お正月は蕎麦食べないの?」
「え?食べますよ?」
さも当然だという表情の千石がさらに面白さを増幅させた。あはは、と先ほどよりも声を出して笑い出した私に釣られるように千石も笑う。2人で「じゃあ、お蕎麦にしようか」と戯れあいながら決めて、クリスマスの夜、私たちは温かい蕎麦を食べた。
その後は2人でケーキをワンホール。これは思ったよりペロリといけた。生クリームではなくムース系にしたのが良かったのかもしれない。
「ね?食べれたでしょー?」
と得意げな顔を見せた私に、千石が「これで明日もケーキ食べられますね」とニヤリとした笑みをみせた。バレてる。千石の誕生日にかこつけて、ただ私がケーキを食べたかったこと、バレてる。
「明日の誕生日楽しみだねー?さっ、マグカップ洗ってこよっかな?」
わざとらしく話を逸らせば、「いつもは『ちょっと休憩』とか言って、なかなか洗わないのにね?」と千石がチクリ。そのおかげか、普段の食器洗いはだいたい千石がしてくれていた。
「夕方にも洗ってたでしょー?」
心外だとばかりに、たまにの食器洗いをこれでもかとひけらかせば、「そうでしたそうでした。ではお願いします」と、千石はマグカップとケーキ皿をシンクまで運んだ。
洗いながら明日の予定を考える。「プレゼントはいらない」と言い切った千石の気持ちを尊重し、物ではなく体験型プレゼントを送る予定だ。嬉しそうな千石の顔が見られるかもと考えただけで、無意識にふんふんと鼻歌を奏でてしまう。そんな私を見て、千石が「ご機嫌ですね」と幸せそうに目尻を下げた。
「あっ、」
「あっ、触らないでください!」
私の手から滑り落ちた千石のマグカップがシンク内の私のマグカップに当たった。ガシャン、と穏やかな空気を切り裂くような不吉な音に咄嗟に手を伸ばせば、千石がその手を掴んだ。
「切れたら危ないから僕が片付けます」
と言った千石がマグカップを持ち上げれば、どちらのものも綺麗に割れていた。厚みもあり丈夫なはずのマグカップが割れたことになぜだか悪寒が走る。しかしそんなものは思い込み、気のせいの類だとすぐにその思考を追い払った。
「完璧に割れちゃいましたね。捨てますよ」
「えぇ、やだなぁ。せっかくのお揃い……」
私にとってはかなり特別なマグカップになっていたそれを、あっさり「捨てる」と言い切った千石の言葉にも悲しくなった。しょんぼりと肩を落とした私を、「明日新しいの買いましょう」と励ましてくれた千石に、「そういうことじゃなくて!」と責めるようなきつめの口調を放ってしまった。
2人の間に微妙な空気が流れる。喧嘩まではいってないけど、だからこそどちらからも歩み寄れない空気だ。
「ごめん……私お風呂入ってきてもいい?」
破片はまとめて置いといてね、と言い残し、逃げるように風呂場へ向かった。あれ以上険悪な雰囲気になりたくなかったから頭を冷やそうと思って、と言えば聞こえは良いだろうか。しかし実のところは何かを言いたげにしていた千石から逃げたのだ。全然変わってない。傷つきたくないが故に予防線を張って、相手の気持ちを邪推してる。一番最悪を予想することで、あの人はこんなもんだと勝手に決めつけてる。
深いため息を吐いて気持ちを落ち着けた。熱めのシャワーが凝り固まった気持ちを解してくれた。お風呂を出たら千石にもう一度謝って、何が悲しかったのかきちんと言おう。私は大丈夫。千石も大丈夫。
お風呂から上がれば、シンクは千石の手によって綺麗に片付けられていた。「ありがとう」と目を見てお礼を言った私に、千石は「ごめんね」と謝罪の言葉を口にする。
「瑠璃子さんの悲しい気持ちを蔑ろにしてた。マグカップ、僕にとっても大切ですよ」
「うん……ありがとう。私もごめんね。自分の気持ちきちんと伝えずに逃げた」
大丈夫。分かってるよ、と千石に抱き締められて、胸が締め付けられた。幸せすぎて怖い。本当にそう思うことってあるんだ、と。
失う不安を払拭させようと、千石の胸に顔を擦り付けている私に「金継ぎって知ってます?」と聞き慣れない言葉が降ってきた。
「きんつぎ?」
「そう。こんな感じで修理できるかもしれませんよ」
明日電話して確認してみますね、と言いながら、千石はスマホの画面を私に見せた。
壊れたり欠けたりした食器を漆でくっつけて、そこに金属の粉を装飾して修理するのかぁ。ふむふむと表示された画面を見ながら既に"これ、絶対したい!"と私の心は決まっていた。
近所でワークショップも開催しているようで、「とりあえず明日電話しましょうよ」と言う千石の意見は右から左に流し、必要項目を打ち込み参加申込ボタンを押した。
しょうがない人、と呆れた声を出しながら、千石は酷く甘いキスをする。「大好きだよ」とどうしても言いたくなってそれを口にすれば、「僕の方が、」と勿体ぶって口をつぐむ。
「僕の方がー?」
「……明日言います」
「えーー?!なにそれー?」
子供みたいにはしゃいでいたから気づかなかった。いや、そもそも日々の楽しさや幸福に満たされすぎて、存在すら薄れていた。千石が元の世界から唯一持ってきていた指輪。千石が触ると紫色に光る指輪。それが「失くすと困るよね」と大切にしまっていたタンスの奥で淡い光を放っていたこと。
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