28.「誓います」
瑠璃子さんに薬を飲ませて服を着替えさせた。僕が服に手をかけた瞬間に「それは、自分でできる」と軽めの拒否をされたけれど、聞こえていないふりをして続ければ諦めたようになすがままになった。
「メイク落としてない」
とうわ言のように何度も言うものだから、拭き取り式のメイク落としシートを手渡してやり、洗面所から持ってきた化粧水を塗ってやれば、「ありがとお」とふにゃふにゃの笑顔を見せて、瑠璃子さんは眠りについた。
そして僕はそんな彼女の頬にキスをし、ずっと待たせてしまっている米屋さんの元へと向かった。
「もう寝ました。本当にありがとうございました」
「いや、ていうかごめん!美輪の近くにいなかったから、体調悪いことに気づかなかった」
優しい米屋さん。だけどその言葉に神経を逆撫でされたのは、なにもおかしくないだろう。瑠璃子さんのことを分かったような口振りに腹が立って、しかもそれが間違いではないことが余計に僕を苛立たせた。
「で、話したいことって?」
「……さっきので気づかれたかもしれませんが、僕は瑠璃子さんのことが好きです。そして瑠璃子さんも」
僕のことが好きです。と、その言葉は米屋さんの「やっぱりそうかー!え、きょうだいなんだよな?」という大声に遮られた。そのうるささに思わず顔を顰める。体調が悪い瑠璃子さんが寝てるし、そもそも僕は大きな声で話す人が苦手なのだ。
僕が感じたことを理解したのか、自分の声の大きさを恥じたのか。米屋さんは「ごめん」とかなりボリュームを下げて謝った。そしてもう一度「きょうだいなんだよな?」と疑問を繰り返した。そんな馬鹿みたいな質問に思わず鼻で笑ってしまう。
「僕が瑠璃子さんの弟?そんなわけないでしょ。こんな似てないきょうだいっています?」
「似てないなぁとは思ってたけど、そりゃそう言われたら信じるだろ?!」
「米屋さんって案外純粋ですね。僕の姉なら、あんなに可愛くないですよ」
今まで険しい表情をしていた米屋さんが、僕のその発言を聞くなり「あっはっはっ!」と大きな口を開けて笑い出した。いや、ほんとうるさいから。静かにしてください。
そして目に涙を薄っすらと浮かべながら「よかった。慧くんが美輪のこと大切に思ってくれてて」と、にっこり微笑んだのだ。
「はぁ?なんでそんな穏やかでいられるの?僕ならはらわた煮えくり返ってますよ」
聞く人が聞けば挑発だと捉えるだろう。だけど僕は純粋に疑問だった。本当に理解できなかった。
米屋さんが瑠璃子さんを好きなこと、それも心底愛していたことーーもしかしたら今も愛しているかもしれないーーを知っている。だからこそ、
僕に笑いかけられる意味が分からない。どうしてそんなに余裕そうなの。どうしてそんなに嬉しそうなの。
「オレは美輪が幸せならそれが一番なんだよ」
「……本当に理解できません」
嫌悪感さえ抱いてしまいそうなほどの清廉潔白さ。僕は彼にはなれない。どう足掻いたって無理だ。僕はこの手で瑠璃子さんを幸せにしたい。
いつ離れてしまうかもしれないこの手で?血に塗れたこの手で?
自分の白い手のひらを見つめながら、僕は酷く身勝手な願いを口にした。
「僕がいなくなったら、瑠璃子さんのこと、……お願いできますか?」
「……え、それってどういう、」
「やだなぁ、死ぬとかそういうんじゃないですよ。言葉の意味そのままです。僕が瑠璃子さんの前から消えた時は……、米屋さんが瑠璃子さんを支えてあげてくれませんか」
僕の決死の懇願にも米屋さんは「美輪がそれを望むなら」と、完璧に応えてはくれなかった。ブレないなぁ。米屋さんは結局"瑠璃子さんの気持ち"を尊重することが一番重要なわけだ。僕がこうしたい、僕がしてあげたい、僕が僕が、などと思っている幼稚で傲慢な僕とは全く違うわけね。だからこそあなたに僕の尻拭いをお願いしたいのだけど。
「瑠璃子さんが望まなくても、そばにいてあげてください」
本当はこんなこと頼みたくなんてないのだ。だけど、僕は彼女に永遠を約束してはあげられない。
僕の必死さが伝わったのか、米屋さんは眉を寄せた険しい顔を見せ、「分かったよ」と一応の納得をみせてくれた。
「美輪によろしく」と帰って行った米屋さんを見送り、慌てて瑠璃子さんの様子を見にいく。はぁはぁと肩で息をしながら、苦しそうな表情を浮かべる瑠璃子さんのおでこにそっと手のひらを乗せた。すると薄っすらと開いていた唇が「きもちいい」と微かに動いた。
玄関で話し込んでいたので冷えてしまっていた僕の手が保冷剤代わりのようだ。本当に気持ち良さそうに、安心しきった顔を僕に見せる瑠璃子さんを見ていると、胸がむずむずとこそばゆくなる。考えるまでもなく、愛しい、と感情が揺さぶられる。
「……せんごく、」
「ん?どうしました?」
まどろむ瑠璃子さんの切なげな声が僕を呼ぶ。それに答えた自分の声に驚いた。僕の声はこんなにも丸みを帯びていただろうか。僕が僕でなくなったような錯覚さえ抱いてしまう。
先ほどよりも苦しげな表情を浮かべ始めた瑠璃子さんの頬に、思わず手を添えた。この人の苦しみを少しでも背負わせてほしい。そしてそんな想いに引っ張られるかのように、彼女の唇に僕のそれを重ね合わせた。風邪が僕に移ればいいのに。そしたら彼女の苦しみを味わえ、彼女を苦しみから解放してあげられるのに。
たかだか風邪で大袈裟だと思うだろうか。それでも僕は真剣にそう思っていた。彼女のものなら苦しみさえも知っておきたいなんて。我ながら恐ろしく歪だとは分かっているのだ。
「ね、私の前から急にいなくならないで」
「……それは僕に前科があるから?」
先ほどよりも随分と覚醒した瑠璃子さんは、そんな内容の悪夢を見たのか、それとも前々から思っていたことなのか。驚くほどはっきりした声でそう告げた。
それに答えた僕の"前科"とは、元いた世界で隼人とカエデの前から突然消えたことだ。しかも裏切りという最悪な形で。瑠璃子さんはその前科に思い当たり、「ちがう」と緩く首を横に振った。
「ただの身勝手な願いなの」
ほら、風邪を引いたらなんだか心細くなるでしょ?と、瑠璃子さんは照れたように笑った。恋人に「突然いなくならないで」と願うことの、なにが身勝手だというのだろう。そんな当たり前で、願うに値すらしない願いを遠慮気味に言わせるしかない僕自身に腹が立つ。
どうして、どうして僕は彼女の前から消えなければならない?どうして僕は彼女の前に現れた?彼女と出会い、惹かれあったことに意味があるというのなら、教えてほしい。確実に待ち構えている別れの時を、その意味を。
「誓います。僕は瑠璃子さんの前からいなくならない」
おままごとのような誓い。子供のときにした「おおきくなったらけっこんしようね」と同じぐらいの儚さ。だけど僕たちにはそれが全てだった。
叶わないと分かっている。僕はそれを承知で言ったし、瑠璃子さんも承知で幸せそうに受け入れた。それでいい。僕の言葉に嘘はなにもないのだから。
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