27.「大丈夫だからね」

 千石の説明を聞いてなんとなく状況は把握したものの、いつの間にそんなことになってたの?と、これまた新たな疑問が浮かんできた。


 簡単に説明してもらったことをまとめると、千石が今お金を稼いできているあの"人の話を聞いてる"という、一聴すると怪しんでしまうあれ。それを利用した人が写真を撮る。SNSにアップする。イケメンすぎる!、千石慧の実写版みたい!(実は本人)、と拡散される。ひと目会いたいと言う人が千石の元を訪れる。また拡散される。という事態になっているらしかった。


「……すごいね?知らなかった」

「まぁ、言っても一部の人に人気ってだけですからね」


 それは果たして謙遜なのか。一部の人に人気って、電車の中で声かけらるほどの知名度なのに?と、思わず心配になってしまう。だって彼は経歴や過去を調べられると困ってしまう身なのだ。……いや、待てよ?そもそも調べられる経歴も過去もないので、安心といえば安心なのか?そもそも、誰も千石がリングのあの"千石慧"だとは思わないだろうし。まずそんな考えすら浮かばないよね。しかも「念のため瑠璃子さんの名字をお借りしてます」と一応自衛もしているようだしね。大丈夫だよね、変なことにならないよね。


 余程険しい顔をしていたのだろう。私の顔を覗き込んだ千石が「心配しないで」と頬を柔らかな力でつねる。「なによ」とその指先にされるがまま口を動かせば、「変な顔」と失礼極まりない言葉を投げかけられた。

 しかし"変な顔"と称した不貞腐れた私の顔を見つめる千石の顔はどこまでも甘やかだ。なによなによ。千石って、そんなに私のことが好きなの?と、これは自惚れではないだろう。聞きたい、と思うけれど、聞いてしまえば「調子に乗らないでください」と呆れた顔をさせてしまうだろうか。それとも「昨日からのセックスで伝わらなかった?」と意地悪な笑みを浮かべるだろうか。どちらにしても私をどこまでも甘やかすこの表情を崩してしまうことになるだろう。それはなんだかもったいない。もう少し千石のこの表情を味わっていたくて、私は口をつぐんだ。




 それからの私たちは"順調"その一言に尽きた。そりゃ小さな小競り合いはあったけど、こんなんどこのカップルもしてるでしょ?という範囲のものだし。約束通り秋には紅葉を見に行って、食べ歩きデートもした。サエちゃんカップルと一緒にキャンプもした。

 千石はいまだに"人の話を聞く"だかでお金をもらっているみたいだし、相変わらずファンみたいな人たちもいるようだけど、今のところ心配していたような事は起こっていない。もしかしてこのまま一緒に季節を一周できるかもしれない。それどころか、千石と一緒に年を重ねて最期の時を迎えられるかもしれない。そんな浅はかな期待さえ抱きだしていたのだ。





 今年の冬はとても暖かい。12月も中旬に差し掛かったのに、秋ごろの気温に逆戻りをしてしまったようだ。特に最近のお昼間なんてコートを着ていたら暑いぐらいだった。しかし夜はそれなりに寒い。つまり私の体は昼夜の寒暖差にやられ、どうやら風邪を引いてしまったらしかった。

 それに気づいたのは終業間近。前触れもなく寒気がし始めた。やばいかも、とは思ったのだが終業まではあと少しだし、とそれを気のせいだと片付けた。

 でもやっぱり気のせいじゃなかった、と身をもって実感したのが、会社の同世代で行う忘年会の最中だった。「今年も一年お疲れ様」と乾杯をしてお酒を一口飲んだ瞬間、あ、これはだめだ、と思った。くらりとめまいがしたが、せっかくみんなが楽しみにしていた忘年会の冒頭で水を差すようなことは言えない。私は「ちょっとトイレ」とその場を離れ、手洗い場で息を整えた。

 みんなには悪いけどやっぱり帰ろう。そもそも風邪っぴきの私がいちゃ、誰に移してしまうかも分からないし。そっちのが迷惑だよね、と考えをまとめて通路に続く扉を開けた。


「うおっ、びっくりしたぁ」

「あ、あぁ、米屋か」


 トイレ前の通路には米屋がいて、私の突然の登場に驚いたようだ。ごめん、と本当に軽く謝罪をし、米屋の前を通り過ぎようとした時、「オマエ具合悪いだろ」と確信めいた声を出した米屋に腕を掴まれる。


「や、まぁ、うん。だから帰ろうと思って、」

「オレ、家まで送ってくよ」

「いやいや、大丈夫だから!一人で帰れるよ、私のこと何歳だと思ってんのよ」


 ケラケラとふざけたように笑った私とは対照的に、米屋は真剣な眼差しと口調で「まじで心配だから」と私を送っていくことを勝手に決めたようだった。

 正直に言えば有難い気持ちもあった。だって体調は最悪の最悪。気を抜けば今にも膝から崩れ落ちてしまいそうな倦怠感。だけど浮かんだのは千石の顔だ。きっと嫌な思いをするだろうな。千石に嫌な思いはさせたくないな。

 一向に返事をしない私に痺れを切らせたのか、「気まずいかもしんないけど、オレが送ってくから!」と、米屋は私を支えながら歩き出した。途中で飲みの席に戻り「美輪が体調悪いみたいだから送ってくるわ」と言っているのが聞こえた。

 お待たせ、と戻ってきた米屋の手には私の上着と荷物がある。その上着を私に羽織らせた米屋はてきぱきとスマホでタクシーを手配し、私をゆっくりとエレベーターに乗せてくれた。


「米屋、ごめんね。せっかくの忘年会……」

「んなこと気にすんなよ!それより吐きそうとかないか?タクシー来るまで店にいた方がよかったかな」


 と、自分のことより私の心配ばかりだ。先ほど米屋が"気まずいかもしれないけど"と言っていたように、私たちはあの日から一切関わってこなかった。そもそも部署も違ければ関わり合いが深い部署でもないので、どちらかが会おうと思わなければ会うことがなかったのだ。

 しかしどうだろう。久しぶりに顔を合わせても、隣に立っても、米屋が心配していたような気まずさは少しも感じない。あの頃と変わらず米屋の隣は居心地がいい。


 忘年会を行っている飲食店が入っているビルの一階に着くなり、米屋が「オレにもたれてろよ」と私に声をかけた。断らないとまずいかなぁ、とも考えたのだ。だけど私は単純に体調が悪く、真っ直ぐ立っていることさえしんどい。心の中で千石に謝り、米屋のお言葉に甘えるように体を預け、しんどさから目を閉じた。


「タクシーすぐ来るからな」


 私を安心させるような米屋の優しい声が耳に響く。辛いことすべて、きれいさっぱり無くしてくれそうな心地よさだ。米屋の言葉に私が軽く頷けば、米屋がほっと息を吐き「大丈夫だからな」と言葉を繋げた。





 今日は忘年会があると言っていた。なんでも同年代の人たちで行う忘年会のようで、ただただ飲んで騒いでをするだけの楽しい会らしい。だから僕はいつものように「あまり飲み過ぎないようにしてくださいね」と、釘を刺して彼女を送り出したのだ。

 

 なので驚いた。インターホンが鳴ってそれに応じれば『米屋だけど。お姉さんを送ってきたから開けてほしい』だなんて。瞬間的に腹が立ったが、すぐに考え直した。時間が余りにも早いこともあったが、瑠璃子さんが意味もなく僕との約束を破るだろうか、と。瑠璃子さんに何かあったんじゃないか、と思い至れば居ても立っても居られなくて、少しでも早くとなかなかの勢いで玄関の扉を開けた。


「うおっ、びっくりしたぁ」

「あ、米屋さん……、瑠璃子さん?!どうしたんですか!?」


 僕が勢いよく開けた玄関の扉ともう少しでぶつかりそうだった距離に米屋さんは立っていた。ぐったりとした瑠璃子さんを支えながら、だ。

 瑠璃子さんが僕の焦った声に「かぜ」と僅かに反応を返す。このぐったりとしている理由が分かり、とりあえずほっと胸を撫で下ろした。

 あぁ、瑠璃子さんのこと寝かせてあげなくちゃ、と思ったのと同時に、米屋さんに寄りかかっている瑠璃子さんを横抱きにした。いつもなら絶対に「お姫様抱っことか恥ずかしいからー!」と暴れていただろう。だけどそんな気力と体力もないほどに瑠璃子さんはぐったりとしている。僕の首筋に唇を押し当て、甘えるように鼻を鳴らして「さとる」と僕の名前を呼んだ。

 その響きに僕の熱も上がったようだ。「瑠璃子さん、大丈夫だからね。寝ようね」と首を傾け、瑠璃子さんのフェイスラインに口づけを落とす。

そして米屋さんに「玄関で待っていてもらえますか?」と問いかけた。

 いやいや、問いかけたでは語弊があるな。だって「や、オレは美輪を送って来ただけだから、ここで」と帰ろうとした米屋さんに、「米屋さんにお願いがあるんです」と無理に引き留めたのだから。

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