18.「僕の理性が強いことに感謝してくださいね」

 常夜灯の少しの明かりと静寂に包まれた部屋の中で、千石の息遣いが聞こえる。たったそれだけ、そんなことにさえ反応してしまう私の身体が憎らしい。気を抜いてしまえば、千石を誘うためだけにはしたなく彼の名前を呼んでしまいそうだ。


「瑠璃子さん、」


 沈黙を破ったのは千石が私を呼ぶ声だった。いつもより色気をたっぷりと含んだ声に呼ばれて、ずくりと下腹部が疼いた。もじもじと膝同士を擦り合わせてしまいそうな衝動になんとか耐えながら「千石、ここ米屋んちだから」と、冷静になりなよと訴える。


「なにも最後までしようだなんて思ってませんよ。あ、もしかして期待してました?」

「ちっが、ん、んっ、……はっ、せんご、く、だめ、ん」


 いつもいつも千石は私のことを「うるさい」と注意するのだ。今回もそれを注意するように唐突に合わされた唇に、拒絶の言葉さえ吸い込まれてしまう。


「嘘だね。もっとして、って顔に書いてありますよ」


 生憎私には自分の顔は見えない。だけど千石がそう言うのだからそうなのだろう。


「せんごく、もっと、」


 彼の言葉通りのことを発しながら千石の首に腕を回せば、「仰せのままに」と恭しく返事をした千石は再び唇を合わせてくれた。

 初めから口を薄く開けて千石のキスを待っていたあさましい私に、千石は深い口づけをあてがう。私の望み通りの生々しい舌の感触に、全身が悦びで震えた。ぺちゃぺちゃと身震いするような水音に頭が揺さぶられ、もうなにもかもどうでもよくなりそうな感情に襲われる。全て捨ててしまってもいいかもしれない。この人がいるなら、それ以外なにを必要とするのだろう。


「あー、瑠璃子さんってこんなふうに男を誘うんだね。知らなかったよ」


 と、愉しげに声を震わせ、千石は自分の腰を私の腰に擦りつけた。


「んっ、」


 その行為に快楽の声が漏れる。その行為に、私が知らず知らずのうちに腰を揺らしていたことに気付かされる。恥ずかしい……!心でも言葉でも千石のことを拒否しておきながら、本当はいやらしく腰を振って彼を誘っていただなんて。


 千石の唇は薄いのに柔らかい。ずっとこうやってキスしていてほしいぐらい気持ちいいのに、これ以上されると本当に彼に逆らえなくなってしまいそうで恐ろしい。


 頭の中だけでなく全身が溶けきってしまいそうな、私の中を暴き出すような丁寧なキスを施しながら、千石は腰をゆっくりと私に打ちつける。平時と比べると確実に芯を持った千石のそれをズボン越しに感じ、キスの合間に「挿れて」と懇願しそうになる欲望を必死で押さえつけた。


「も、せんごく、ほんと、だめ、やめて」

「キスしかしてない。これからはセックスもするんでしょ?刺激に慣れないと」


 さも当然かのようにきっぱりと言い切られれば、熱に浮かされた私の頭は「そうか」と簡単に納得してしまう。


「今までもこうやっていろんな男のこと誘ってきたの?ほら、瑠璃子さんから僕のに擦り付けてきてますよ。このズボン、米屋さんに借りたんですよね?染みができたらどうするの?」


 あぁ、そうだ。これ米屋に借りたズボンなんだ。霞がかった思考の向こうで、米屋への申し訳ない気持ちが姿を現した。米屋ごめん、もう手遅れだ。触らなくてもぐしゃぐしゃに濡れているのが分かる。

 もうここまで濡れて汚れているなら、いっそイキたい。必死で腰を振って千石のものに擦り付けている。それは自慰行為と言われても否定できなかった。

 心なしか千石の息も上がり始めた気がして、それがまた私の快感を刺激する。これはセックスではない。それを免罪符にして快感を貪っている。純粋なセックスよりも歪な自慰行為だ。


「あっ、千石っ、好き、ん、いっ、く」


 自分勝手に果て、肩で息をする私を見下ろした千石は、「酔っ払いの言うことは信じませんよ」と眉を下げたのだった。





 日曜日の朝早く米屋の家を後にした私たちは、マンション内で楓ちゃんと別れ、自宅に着くなり早急に唇を重ね合わせた。

 待ちきれなかった。早く2人になりたかった。そう思っていたのは私だけではない、と感じるような荒っぽいキスに胸が苦しくなる。


「米屋さん、ズボンについた染みに気づきますかね?」

「やだ。やめて、言わないで」

「あー、米屋さん悔しいだろうな。こんな何処の馬の骨かも分かんない奴に掻っ攫われて」


 千石は心底愉快だというような笑みを浮かべ、訳の分かっていない私にもう一度噛み付くようなキスをする。


「まーた腰振って。そうすれば僕に挿れてもらえると思ってるの?浅はかだねぇ」

「…………?」

「惚けた顔して、脳みそまで溶けちゃったのかな?かわいくて、信じられないぐらいに愚か」


 僕はあなたには挿れませんよ、とうっとり見惚れてしまう笑みを浮かべた千石は、私に死刑宣告をした。


「え、なんで?」

「え、なんで?おもしろいから。瑠璃子さんが必死に僕を欲しがってるの、すっごくおもしろいからですよ」


 ……あ、こいつやっぱり性格捻じ曲がってるわ。さー、っと潮が引くように熱が冷めていく。少しは心が通じ合ったと思っていたのは、私の完璧な勘違いだったみたい。


「もう、いい!私も絶対千石とはしない!」

「そうなんですか?挿れること以外ならなんでもするのに?」

「っ、……しない!ぜんぶしない!」

「へぇ?キスも?」

「キスも!」

「なぁんだ、残念!分かりました。じゃあ、今まで通り、同居人としてお願いします」


 千石はまたにっこりと整った顔で笑い、手を洗い終えるとすぐに部屋着に着替えた。玄関に一人残された私は悔しくて泣きそうになったけど、そうなると完全に負けたことになりそうなので、必死で我慢をしたのだ。

 っていうか、対価としてするって言ったのは千石じゃん!?





 千石の気まぐれに付き合わされるのもなんだか馬鹿らしくなって、私もさっさと着替えを済ませた。昨日できなかった家事をしなければいけないし。

 2人で行うと多くない家事はあっという間に終わってしまった。手持ち無沙汰だ。だけど部屋着になってしまった今、再び外出する気力もない。千石の存在は無視して、録り溜めていたドラマでも観ようかと思い、リモコンを手にした時。千石が「漫画読んでもいいですか?」と聞いてきたのだ。ついこの間言っていた「続きが気になるから読む」というのはどうやら本気だったみたい。


「その……、最新話はまだ手元にないんだよ」

「どういうことですか?」


 常日頃漫画を読んでいたわけではないだろう千石に、本誌はウェブで購入して読んでいたこと、単行本は揃っているが既刊分は千石が知っている内容ーーつまり千石が死ぬ前のこと。千石が死ぬのは恐らく次の巻だーーであることを伝えた。


「なるほど。では瑠璃子さんのスマホを貸してください」

「そこまでして見たい?」

「はい。こんな機会そうそうないでしょ?」


 そりゃそうだと思うけれど。あまり気の進まない私は、仕方なく、という気持ちを隠すことなくスマホを千石に渋々手渡した。


「2ヶ月分ぐらい買ってないから、先に最新話まで買わなきゃだ」


 そう言いながらはたと気づく。千石がこちらに来てからもうそれだけの時間が経っていたのだ。初夏の匂いが色濃かった季節も、今は夏真っ只中。私は千石と、季節を一周できるのかな。


 千石の手の中のスマホを私が横から操作する。顔認証で最新話までを一気に購入し、ベッドへのぼって横になった。

 千石の指が流れるようにスワイプをして漫画のページをめくる。今どの辺りを読んでいるんだろう、と気になったが、リングから遠ざかっていた私は内容を知らないのだ。嫌でも目にしてしまう情報から、なかなかの鬱展開だということは把握しているが。

 そんな内容を読んでいる千石の感情がやっぱり気になる。体勢を起こし、ベッドを背もたれにしている千石の後ろから彼の手元を覗き込んだ。


「ん?なに?瑠璃子さんも気になるの?」


 私の気配を察した千石が、視線はスマホの画面から逸らさないまま問いかけた。私が本当に気になっているのは千石の気持ちだよ。辛くないかな、これ以上傷ついていないかな、とそんなことばかりが気になる。……まぁ、絶対言ってやらないけど。


「え!ちょ、永良くんたちプールに行ってるじゃん!」


 スマホの画面を見た私の目には、推しの永良くんの筋肉が飛び込んできた。どうやら千石はちょうど日常回を読んでいたらしい。永良くんの隣には可愛い水着姿のカエデちゃんが、これでもか!というような豊満な胸を揺らしている。……千石はいったいどんな気持ちでこれを読んでいたんだろう。


「あちらも夏を楽しんでいるみたいで安心しました」

「……千石もプール行きたい?」


 私はカエデちゃんのように胸も大きくないしーー断っておくがある程度はあるーー、なんなら日焼けしたくないからラッシュガードを着たいんだけど。


「プールかぁ、瑠璃子さんはどんな水着を着るんですか?」


 その問いかけとともに、千石がこちらを振り向いた。そして目が合って、顔の近さに驚いた。思っていたより近くで覗き込んでしまっていたみたいだ。

 ドッドッと、心臓が力強く拍動を開始したのに、身体は固まってしまったかのように動かない。視線さえも逸らせないこの状況で、千石の紫色の瞳だけが少しの戸惑いに揺れている。

 

 私が本能的に目を閉じたことが合図となり、千石の手のひらが私の右頬に触れたかと思うと、ゆっくりと唇が重なり合った。

 ちゅっ、と可愛らしい音を立て、瞬間的に離れた唇を、また重ね合わせる。ふわふわと体が宙に浮いたような心地になって、無意識に千石の名前を呼んだ。

 下唇を千石に甘噛みされ、「んっ、」と漏れ出た声は完璧に情欲に侵されていた。その声を聞いた千石が鼻で笑い、自身の体勢を立て直す。そして体ごと私に向き直ったと思ったら、そのままベッドへとあがってきたのだ。

 ぎしりとスプリングが軋み、その音を拾いながら千石に押し倒される。視線はずっと合っているのに、なにも発しない千石に戸惑ってしまう。


「ね、せんごく」


 何か言って、とお願いする前に、千石が「キスもしないって言ったのに」と眉を下げて笑った。いつもの揶揄うような笑みではなく、胸が締め付けられるような切ない笑みに、自然と私の眉も下がった。


「せんごく、ごめんなさい。謝るからキスして、」

「…………、」

「?せんごく、だめ?」

「はぁ……あなたって本当、」


 聞き慣れたため息が私の耳元に落とされた。そしてそのまま千石の舌先が私の耳の縁をなぞる。


「んぁっ、や、ぞくぞくする、それや、だ」

「ねぇ、僕の理性が強いことに感謝してくださいね」

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