19.『似合ってるね』

 理性の強さに感謝しろ、とはいったいどういうことなんだろう。あの日、千石の理性は結局私を抱かないことを選んだ。つまり、私とのセックスの魅力は千石の理性に完敗したわけだ。

 そりゃモテてきた千石だろうけど、この世界では自由に使えるお金もなければ、スマホさえ持っていないのだ。簡単に性欲を発散することはできないと思うんだけど……。恐らく溜まっているであろう千石にさえ抱いてもらえないって、私の魅力ってなんなの!?と思ってしまう。

 そりゃもちろんセックスアピールが強い人が魅力的というわけではないし、そう思ってもいないけれど。あれだけ生々しいキスをしておいて、一切その気になられないってのが悲しいじゃん?


「お姉さん、着替え終わりましたかー?」

「あっ、あぁ、うん!楓ちゃんも終わった?」

「はい!どうですか?」


 と言いながら私の前に現れた水着姿の楓ちゃんを見て、持ってきたパーカーを急いで羽織った。楓ちゃんは随分と着痩せするタイプみたいだ。服の上からは分からなかったけれど、ボリュームのある胸がすごく、すごく、うらやましい。それにくびれたウエストと上がった丸いお尻。こんな楓ちゃんの横に並ぶって、どんな拷問?と思わずにはいられない。

 いや、別にそこら辺の人にどう思われたっていいんだよ?だけど、今日ここには千石がいるのだ。私の淫らな姿に圧勝した理性を持つ千石。そんな千石が楓ちゃんの水着姿を見て、理性が負けちゃったら?負けるところを目の当たりにしたら?そんなん耐えられる自信がない!

 本当なら今しがた私が羽織ったパーカーは、楓ちゃんに着てもらいたい。だけどそれは無理な話だ。だから、私はとりあえず自分の水着姿を隠すことに努めたのだ。


「今日、誘ってもらってほっんとーに嬉しいです!ありがとうございます」

「いえいえ。なんか、まぁ、せっかくだしね」


 ロッカールームの鍵を手首に巻きながら、楓ちゃんのお礼に曖昧に返事をする。本当なら千石と2人でプールに来るはずだった。だからこの状況は不本意なのだ。だけどそんな大人げないこと、ほぼ10歳も下の女の子に言えるはずもない。

 楓ちゃんは私の微妙な返答には気づかず、男性側のロッカールーム出入り口の前で待っていた千石を見つけ、「慧くんっ!」と跳ねるような声で彼を呼んだ。


 ほぇー。絵になるー。千石を捉えた瞬間、私の頭にはそんな感想が浮かんだ。2人で買いに行った水着はどこにでもありそうな、というか実際どこにでもある黒いシンプルなものだ。だけどそれを着るモデルが良すぎる。理想通りに割れた腹筋と厚めの胸板が眩しい。

 千石の裸は見たことがあるんだけど、それは突発的に起こった事故だったので、まじまじと見る機会はこれが初めてだった。いや、まじまじと見るなよって話なんだけど。


「米屋さんは先に行って場所取りしてくれてます」

「あ、あぁ。そうなんだ。じゃあ行こっか」


 千石と隣にぴたりと寄り添う楓ちゃんの後ろを歩く。これ、側からみれば別グループに見えるだろうな。どこからどうみても千石と楓ちゃんはお似合いカップルだ。はぁ、早く米屋んとこに行きたい。それだけを考えて通路を歩いた。


 

 米屋は屋根の下の最高なところにレジャーシートを敷いて場所取りをしてくれていた。陰になっていて涼しい。流れるプールの真ん中、陸の孤島的にあるその場所は、休憩場所として一番人気だとネットの口コミにも書いてあった。


「米屋、よく取れたねぇ!すごい!ありがと!」

「だろー?めっちゃ頑張った!もっと褒めて!」


 手放しで褒める私に、米屋も自画自賛で応える。それを冷めたように見ていた千石が、「プール行きますか?」と口を挟んだ。


「行く行くー!慧くん、流れるプール入ろうよ!」

「あ、私はパス。ちょっとここで休んでから入る。米屋は?」

「オレはビール飲みまーす」

「じゃあ、慧くんと行ってきますね!」


 私と米屋の答えを聞いた楓ちゃんは、千石の腕に自分の腕を回し、引っ張るように千石を連れて行く。彼女の魅力的な胸が千石の腕に押し潰されている。ちくりと胸が痛んで、咄嗟に目を逸らした。


「オマエも飲むだろ?ビール」

「えー?まだ飲まないよー。プール入れなくなりそう」


 気の早い米屋の提案にくすりと笑みをこぼせば、「たしかに!」と笑い返してきた米屋が「今日、ほんとは慧くんと2人きりがよかったんじゃない?」と声のトーンを落とした。


「え、なんでなんで?弟と2人でプールはないでしょ」

「そ?まぁたしかにそっか。オレも姉貴と2人でプールはやだなぁ」


 米屋は言いながら、実際にその光景を想像したのか、苦笑いを浮かべる。


「だから、米屋が来てくれて良かったよ。もちろん楓ちゃんも」


 嘘だ。本当は千石と2人で来たかった。来るつもりだった。水着を選んでいたショッピングビルでたまたま楓ちゃんと遭遇したのだ。「プールですか?海ですか?」と聞かれ、その場の空気を埋めるように私が「楓ちゃんも一緒にどう?米屋も誘って」と心にもないことを言ってしまった。

 今になると、なんで?と自分自身の行動に理解ができない。だけどそのときの私はなにを後ろめたく感じたのか。そう言ってしまったのだ。一度口にした言葉は取り消せない。楓ちゃんは花が咲くように頬を緩ませた。後ろで千石の纏う空気が変わった気がした。


「そっか。で、オマエはどんな水着なのよ?」

「えー、やだ。見せたくない」


 と、これは本音だ。そんな私の即答を聞いて、米屋は「楽しみにしてたのに」と唇を尖らせた。


「お、あれ慧くんたちじゃね?」


 米屋の指差した先を視線で追えば、そこには楽しそうに一つの浮き輪を使う2人の姿があった。……やっぱ今日、仮病でもなんでも使って家に居たら良かった。それはさすがに米屋に申し訳ないのでしないけれど。本当はそうしたい気持ちなのだ。


「あははー、ほんとだ。ね、私らもプール行く?それともビール飲む?」

「ビール飲むっ!」


 プールに何しに来たのよ、と思わず突っ込んでしまうほどの米屋の即答に笑った。あぁ、米屋がいてくれてほんと良かった。米屋といると気持ちが明るくなる。



「なに、あなたも飲んでるの?」

「あー、うん。一杯だけね」


 流れるプールから帰ってきたびしょ濡れの千石が呆れた声を出した。いつもはその声も、はいはい、と聞き流せるが、今日はダメな日だ。その声が、すでに脆くなっている私の心を無遠慮に抉りとっていく。あ、たぶん泣いちゃう。でもそれだけは避けなきゃ。ここで、楓ちゃんが見ている前で泣きたくはなかった。


「米屋、私らもプール行こ?」

「ん?お、おぉ、行くか」


 突然の誘いに少し驚きながらも、残りのビールを一気に流し込んだ米屋は私の手を取った。声の震えは誰にも気づかれていないようで、ホッと胸を撫でおろす。


「パーカー置いてけば?その生地、乾きにくそう」


 そうだ、全くその通り。米屋が指摘したように、私が羽織っているパーカーはラッシュガードのように速乾性ではなかった。そもそもプールに入らない可能性が高かったので、これでいっかと、家にあったものをとりあえず持ってきたからだ。


「あ、でも、」

「?じゃあ、プールに入る前に脱ぐか?」

「う、うん。そうする」


 千石の前で、楓ちゃんの前で脱ぎたくなかった。私の意図を正確に汲み取ってはいないだろうが、気遣ってくれた米屋の提案に頷き、深めのプールに向かった。

 ここなら休憩場所からは見えない。パーカーを脱いでそこそこに畳み、脱いだサンダルの上へ置く。私の水着姿を見た米屋は「かわいい。似合ってるね」と甘く目尻を下げた。

 米屋が、似合ってる、と褒めてくれた水着は最終的に千石が選んだものだ。ビキニ型は絶対に無理だと言い張った私に、「じゃあ、これはどうです?」と千石が持ってきた水着は至ってシンプルなワンピース型だった。「いいね」と頷き、試着をせずに買ったのだが、家に帰って着てみてびっくり。前から見れば露出の少ないシンプルな水着だったが、背中がばっくりと開いている大胆なデザインのそれに、まず初めに思ったのは「全身脱毛してて良かった」だった。


 


 浮き輪でプールに浮かびながら、ふと浮かんだ疑問を米屋に投げかける。


「米屋って、好きな人できた?」

「おー?突然だなぁ、どした?」

「んー?なんとなく、気になって」


 私のその答えを聞いた米屋は目線を上へやり、少し考える素振りを見せたあと、「どっちが嬉しい?」と首を傾げた。

 どっちが嬉しい?と、米屋の言葉を頭の中で復唱して、噛み砕く。米屋に好きな人がいる。そうなれば米屋のことだ、すぐにでも付き合えそう。そしたらこんな風に遊ぶことも、飲みに行くこともできなくなるのかぁ……なんかやだな。


「んー、いない方が嬉しい」

「どうして?」

「……米屋と遊べなくなるの、やだ」


 ぽつりとこぼした本音は、無理なことを承知でお願いしている子供のようだと思った。米屋もそんな雰囲気を感じとったのか、くすくすと笑っている。


「それって、オレのこと好きって聞こえるんだけど」


 米屋の揶揄うような視線がくすぐったい。冗談だと分かっているのになにも言い返せないのは、割と言い当てられてしまったからだろうか。

 そうだ、私は米屋のことを好きになったらいいんだ。だって米屋の素晴らしさは嫌というほど知ってる。コミュ力バッチリだし、誠実で明るい。仕事には一生懸命取り組んでるし、結果も残してる。見た目だって「米屋くんってかっこいいよね」と言われるほどだし。それになにより、米屋の周りの人も良い人ばかりだ。類は友を呼ぶとはよく言ったもので、素敵な人に囲まれている米屋も人格者だと確信できる。


「おい!なんか言えよー!オレめっちゃ滑ってるみたいじゃん!」

「……うん。米屋のこと好きになりたいんだ」


 私の言葉を聞いた米屋は嬉しいような悲しいような、複雑な表情を浮かべた。そしてそのすぐ後、「じゃあ、今度は2人で遊ぼうな」と優しく優しく笑った。その笑顔に私は甘やかされてばかりだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る