17.「萎えた」
なんでこんなことになってんだ?と思う。
私と千石が下着を買ってコンビニから帰ってくると、次に米屋と楓ちゃんがコンビニへと向かった。米屋は買うものなんてないんだけど、夜道に女の子一人は危ないしね。
2人を見送り、米屋の部屋で千石と2人。いったいどんな状況だよ、と思う。追加でお酒を飲むことは千石に止められたので、酔いは随分と醒めてきていた。
「ね、結局キスしてくんなかったね?」
「まーだそんなこと言ってるんですか?」
「千石が誰とでもできるって言った!」
「……はぁ……そんなに欲求不満なの?そのうちセックスもしてほしいって頼んできそうですね」
そう言った千石は私を完全に揶揄していた。しかしその指摘は当たらずといえども遠からず。決して欲求不満ではないし、誰でもいいわけではないけれど。いずれ「セックスしたい」と言ってしまいそうなことについては否定できなかった。
だって、好きかも、好きだ、って思ったら、触れたいんだもん。千石のこと、隅から隅まで知りたい。出来るだけ漫画には載らないようなこと。千石はどうやって人を愛するのか、ということ。
しかしそれを認めるわけにはいかなかった。だって認めてしまえば、千石は私の前からいなくなる。だけどキスしたい。できるならセックスだってしたい。その折衷案として私が出した答えは、「そうだよ、欲求不満なんだよ!」と認めることだった。
つまり誰でもいいからセックスをしたいと装ったのだ。そうすれば私の気持ちに気づかれず、千石ともっと近づける。要は最終手段に早々と手を出したわけだ。
私の答えを聞いた千石は、いつものように呆れたため息を吐いた。
「それは対価ですか?」
「……え?対価?」
「僕は瑠璃子さんちに住まわせてもらってるわけなんで。瑠璃子さんが対価を払えというなら喜んでしますよ、キスでもセックスでも」
千石はそう言うけれど、対価というならお金をもらっている。千石にはこれ以上対価を払う義務はないのだ。
だけど狡い私はそれに頷く。この判断が正しかったのかどうなのか。この日を境に私と千石の関係性は変わっていってしまった。
程なくして米屋と楓ちゃんが帰ってきた。米屋の手にもコンビニのビニール袋があるのを見て、おつまみでも買い足したのか?と思ったが、その予想は外れていた。
「ほらこれ、甘いの」
と言いながら、米屋は私にそのビニール袋を寄越した。なになに?と覗き込めば、そこには今話題のコンビニスイーツ。
「え?!いいの!?やったー!ありがと!これ食べたいって思ってたんだよね」
「おう!だから買ってきた」
お酒の締めには甘い物。私のその癖を知っている米屋は気を利かせてくれたわけだ。さすが!出来る男は違うぜ!
「米屋さん、わたしと慧くんの分も買ってくれたんだよー」
「そうなんだ。米屋さん、ありがとうございます」
「いえいえ。慧くんは食べるかな?と思ったんだけど、一応ね」
「僕、甘い物好きなんですよ」
千石のその返答に、心の中で「知ってる知ってる」と頷いた。それは漫画の中で描かれていたからだ。千石慧は甘い物好き。リングファンなら誰でも知っている。
3人で「美味しいね」とスイーツを食べ終えると、米屋が「風呂入って寝るかぁ」と水の入ったコップを3つ、テーブルに置いてくれた。どこまでも出来る男である。
「オレ、一番最後に入るから。女性陣から入れば?」という米屋の言葉に、楓ちゃんが「やったー!じゃあ、お言葉に甘えて」と喜んだ。素直な子って可愛いよね、とその姿をうらやんでしまう。そして、この子千石とキスしたんだよなぁ、とこれは醜い嫉妬だ。
風呂場の説明を終えた米屋が帰ってきたので、一緒に片付けをしながら楓ちゃんが上がってくるのを待った。
「もう酔いは醒めたか?」
「んー?だいぶねぇ。あ、酔ってる時の私ってかわいい?」
「ぶはっ!!なんだよそれ、笑わせるなよ」
ゴミをまとめながら、米屋が吹き出した。思っていたよりずっと笑うものだから、それにつられてどんどんと恥ずかしくなってくる。冷静になって考えてみれば、とんだ勘違い発言だ。
「もー、恥ずかしいんだけど。さっきの忘れてー!」
「いや、わりぃわりぃ。かわいいよ、美輪はかわいい。酔ってなくても、意地っ張りでも、すげぇかわいい」
そう言った米屋の細められた瞳があまりにも優しいものだから、胸が詰まって言葉が出てこない。米屋って、もしかして、私のこと好き?そんな風に考えてしまった自分の思考を、ないないない、と慌てて否定する。そんなこと思うの、米屋に失礼じゃん。
「イチャついてるとこ申し訳ないですけど、先に僕がお風呂行ってもいいですか?」
突然頭上から声がかかり、その声に肩が跳ねた。上を見れば、冷めた千石の瞳と視線が交じる。
先ほどの千石の発言から考えると、楓ちゃんはお風呂から上がってきたようだった。
「あぁ。どうぞ。オレたちはもう少し片付けしてるし。な?」
「う、うん!行ってきて」
その後すぐ片付けを終えた私たちがリビングへ戻ると、そこに楓ちゃんの姿は見当たらなかった。おっかしーな。千石がお風呂へ行ったのだから、楓ちゃんは上がってきてるはずなのに。そこまで考えて、同じことを思ったのか、米屋と顔を見合わせた。
「ちょ、まさか2人でお風呂に入ってるとかないよね?」
「オレも一瞬思ったんだけど、さすがにないだろ」
米屋は否定したけれど、千石ならあり得る。あいつは自分がしたいようにする男だし、千石にベタ惚れである楓ちゃんなら、多少の無茶は受け入れてしまいそうだ。
「ご、ごめん、米屋。さすがにその、おっぱじめることはないと思うんだ……けど……」
語尾の頼りなさが、否定する気持ちの弱さを表している。今すぐ風呂場の扉を開けてしまいたいけど、さすがにそれはダメだろうと理性が邪魔をした。
「ま、いいよ。とりあえず2人が出てくるの待とうぜー」
いやいや、なにもいいことなんてないでしょ!私なら、自分ちで他人がセックスないし、それに近い行為をするのは絶対にいやだ!
しかし米屋の言うようにただ待つことしかできないのも事実。そわそわしながら2人を待っていると、脱衣所の扉が開いて米屋が貸したであろうブカブカの部屋着を着た楓ちゃんが、一人出てきた。
「あれ?さとるは?」
「慧くんなら今お風呂ですよ?わたしと入れ違いで入ったので」
「あっ!楓ちゃんは髪乾かしてたのかぁ!そっか、そっか、そうだよね」
分かってしまえばそりゃそうだ、という話だ。髪を乾かし終えるまで待つより、そうした方が断然効率が良い。早とちりしてほんと恥ずかしい。
「慧くんもそろそろ上がりそうだったので、お姉さんお風呂へどうぞ」
と楓ちゃんに促され、私はなにも考えずに風呂場へ向かう。「着替え用意したからな」という米屋の言葉に軽く頷き返した。
良かった。2人でお風呂に入ってたわけじゃなくて。その事実に胸を撫で下ろしながら服を脱ぐ。裸になったところで、風呂場の扉が開き、私の目の前に裸の千石が現れた。
ぎゃー、という私の叫び声は、千石の大きな手によって押さえつけられ、「声出さないでくださいね」と念押しされる。それにコクコクと頷けば、千石の手から漸く解放された。
「ごめん、私着替えのこと全然考えてなかった」
私が入るべきタイミングは千石が着替え終わったときだったのだ。だけどそこまで考えが及ばず、今のこの惨事に繋がってしまっている。
「べつに、僕は平気ですよ。それに僕たち、これからセックスする仲になるんでしょ?慣れてかないと」
そう言った千石は、徐に私の顔を上へ向かせた。そして無理矢理に視線を合わせる。ぽたりぽたりと、千石の銀髪の先から雫が垂れ、私の顔や身体を濡らしていく。
「せ、んごく」
「瑠璃子さん、発情した顔してる。かわいい」
それは私が欲した言葉なのに。全然嬉しくないのはどうしてだろう。千石の顔が私にゆっくりと近づいてくる。あ、このままキスされる。
「や、やだ、」
「…………」
そう察した瞬間、思わず顔を背け、拒絶の言葉を口にしてしまった。千石はそんな私をじっと見つめるのみでなにも言ってはくれない。
「ご、ごめん。ここは米屋んちだから、やだ」
咄嗟に繕った理由は半分本当で半分嘘だ。千石を深く知れるなら身体だけでもいいと願ったのは紛れもなく私なのに。いざそうなれば、心のない瞳で見つめられ、心のない甘い言葉を囁かれることが耐えられなかった。
「中途半端な気持ちで僕のこと煽んないでくれます?」
「萎えた」と吐き捨てた千石は、乱暴に髪を拭い「早く入ってくださいね、僕の気が変わる前に」と冷たい声で告げた。
私でさえ自分がどうしたいのか分からないのだ。キスしてと言ったり、したくないと言ったり。それに付き合わされる千石がほとほと呆れ、嫌気が差すのも充分すぎるほど分かる。「ごめんね」の言葉は何に対して向けたものなのか。振り回してしまったことへの謝罪か、萎えさせてしまったことへか。それとも好きになってしまったことへの申し訳なさなのか。
▼
米屋がお風呂から上がってくると、「寝るところを決めよう」と夜に相応しくない明るい声を出した。米屋は1LDKに住んでおり、一部屋は当然寝室になっている。そこに米屋が寝ることは揺るがないだろう。
「オレと慧くん、美輪と楓ちゃんに分かれる?」
「えー、つまんないです」
「……つまんないって!じゃあ、どうしよっか?」
かなり真っ当な、というかその選択肢しかないだろうという提案をした米屋に、楓ちゃんが待ったをかけた。困った顔をした米屋は話を千石に振る。
「僕たち3人がリビングで寝ますよ」
「それはオレが寂しいじゃん」
「じゃあ、みんなでリビングに寝ますか?」
「さすがに4人は寝られないかなぁ。やっぱり男と女で分かれるか、オレが美輪と、」
「男と女で分かれましょう。僕が寺元さんと2人で寝たら、手を出しちゃうかもしれませんし」
「え?!わたしはそれでもいいよ!お姉さんも米屋さんと寝たいですよね?」
「分かった!グッとパーで分かれましょ、は?」
若干ピリついた空気が流れ出したところで、私が場を和ませようと大きな声でした提案に、米屋が「おもしろいじゃん」と乗ってきた。
楓ちゃんは少し不満顔で、千石に至っては完全に呆れて視線を明後日の方向に向けている。いや、私だって冗談のつもりだったんだよ。まさか家主の米屋が乗ってくるとは思ってもいなかったんだよ、ほんと。
結局グッとパーで分かれたのは、私と千石、米屋と楓ちゃんだった。……一番あり得ないチームに分かれたな?というのが第一印象だ。何があり得ないって、米屋と楓ちゃんが一緒に寝ることだ。
「え、これは流石にまずくない?米屋と楓ちゃんだよ?」
「まさかこうなるとはなぁ!」
「お姉さん、交代しません?」
米屋は気にしていないようだけど、これは楓ちゃんがかわいそう。米屋本人がどうこうというわけではなくて、今日仲良くなったばかりの男の人と寝るのはさすがに……という話だ。
私が楓ちゃんの言葉に「そうだね」と同意しようとしたとき、千石が私の口をその大きな手で塞いだ。本日2度目である。
「だめ。ルールは守ってください。僕は姉さんと寝ます。米屋さんは紳士だから変なことしませんよ。ね?」
「はは、同じベッドでは寝ないよ、さすがに。布団敷くから、楓ちゃんはそこで寝て?」
米屋の言葉に楓ちゃんが頷いたことにより、寝る場所はこれで確定した。しかしすぐその後「あ、来客用の布団が二組しかないからそっちにも一組しかいかないわ」という米屋の発言に、私はめまいを覚えた。米屋の"姉弟なんだからいいだろ"とでも言いたげな口振りに、何も反論できない。「分かったー」となんともないような振りをしたけれど、内心は冷や汗まみれだった。
「おやすみ」と米屋と楓ちゃんと別れたあと、「私、ソファで寝るよ」と言えば、千石は半ば無理矢理に私を布団の中へと引き摺り込んだ。シングルの布団は2人で寝るには狭すぎる。だけど馬乗りになられたこの状況では、横幅の狭さは問題にはならない。
なんでこんなことになってんだ?そればかりがぐるぐる頭の中を回り続ける。
ほんと、なんでこんなことになった?
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