15.「早く泣き止まないと、キスしますよ」
楓ちゃんと別れるなり、私は千石に詰め寄った。
「あのさぁ、テキトーなこと言わないでよ!」
「どれのことですか?」
「他に好きな人がいるとか……あ!あと、私に米屋はもったいないってのも怒ってるんだからね?」
じっと意味ありげに私を見つめたかと思えば、その後にっこりと笑った千石は「ここ、廊下なので。声もう少し落としてください?」と私の神経を逆撫でした。しかも間違ってないのがさらに悔しい。
怒りの発散方法を失ってしまった私は、先を行く千石の背中に向かって思いっきり舌を突き出した。あっかんべーをするなんて、いつ以来だろうか。
部屋に着くや否や私の反撃は再び開始された。それをのらりくらりと交わしながら聞いていた千石が、ふと何かに気づいたように動きを止める。
「ど、どうしたの?」
「あれ、もしかして今日お酒飲んでないですか?」
そう言いながら、私との距離を徐々に詰め始めた千石に、遂に壁際まで追い詰められてしまった。そしてあろうことか、千石はすんすんと犬の様に私の匂いを嗅ぎ始めたのだ。
「や、やだ、やめてよ!お酒飲んでないから!」
私が事実を伝えても、千石は私の首筋に顔を近づけたままだ。羞恥に耐えられなくなって、千石の肩を押したけれど、全然力が入らない。こんなん、もっとして、って誘ってるみたいな拒否の仕方じゃん。
「いつもの瑠璃子さんの匂いですね。米屋さんの香りが移ってたらどうしようかと思いました」
千石は満足げにそう言ったけれど、私の気持ちはちっとも収まらない。こいつほんとなんなの?という気持ちでいっぱいなわけだ。
「なんでこんな恥ずかしいことすんのぉ」
「瑠璃子さんのその顔が見たかったから」
千石の顔が満たされたような表情に変わる。なに楽しくなってんのよ、と私が睨めば、千石はあっけなく解放してくれた。
やっと解放された安心感と少しの物足りなさを感じる。その顔が見たかったって、私どんな顔してたんだろう。分かんない。だけど、真っ赤になってることだけは確かなのだ。
千石のこと、心底意地の悪い男だと思うのに、この胸の高鳴りは誤魔化せない。楓ちゃんは「米屋さんのこと好きなんですね」と言ったけれど、この高鳴りを経験してしまった今、それは違うと言い切れる。
私、千石のこと、好きだ。認めてしまえばなんてことなかった。ストンと腑に落ちて、その気持ちは私の心の中心に堂々と鎮座している。まるで千石のように、傲慢で厄介な気持ちだ。
私はこの気持ちを飼い慣らすことができるのだろうか。好きになられたらここを出て行くと言った千石。私のことは絶対好きにならないと言った千石。いつか消えてしまうかもしれない千石。
気がつけば、私は千石に微笑みかけていた。その表情を見た千石が、ほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。千石の紫色の瞳に私が映ってる。それがこんなに幸せなことだなんて、知らなかった。誰も教えてくれなかった。
「お風呂入ってきたらどうです?」
と言った千石の提案に反応せずに、「私の好きな人って誰よ?」と返した。先ほど千石が楓ちゃんに「この人、他に好きな人がいますよ」と言い切ったのだから、千石には思い当たる人物がいるのだろう。まさか自分だとは思っていないだろうな?と考えたけれど、千石ならあり得そうなところが恐ろしい。
「え?隼人でしょ?」
うん。そっちだったか、と体から力が抜ける。脱力した私を見て、「あれ?違いましたか?」と本気で不可解な顔をしている千石に、さらに力が抜けた。
「いや、永良くんのことは好きだよ?でもそれとこれとは違うの」
「?分からないです」
こいつ本気か?そりゃ世の中には2次元キャラにまじの恋をしてる人もいるだろう。だけどそれは少数派だと思うし、何より私はそこは分けて考えているタイプなのだ。
「永良くんはここにいないじゃん?」
そこまで言って、ハッとした。千石のことを気遣い、「永良くんは漫画のキャラクターじゃん」とは言わなかったのだ。だって、千石にとってはそうではないから。私が非現実だと思っているあの世界こそが千石の現実だからだ。
だけどさっきの言い方は良くなかった。気遣ったふりして、千石のこと傷つけることになったかも。そういう意味じゃないよ、と訂正をしようとした私よりも早く、千石が口を開く。
「隼人だったらよかったのにね」
「え?」
「僕じゃなくて、隼人が来た方が瑠璃子さんは幸せでしたね」
……やっぱり。そうとられてもおかしくない言い方だった。危惧した通りに勘違いした千石は、こちらが悲しくなるような言葉をさらりと言ってのけた。心の底からそう思っている言い方で、そこには嫉妬心も拗ねた感じもない。それが私にさらに追い討ちをかけた。
そんなことで「千石は私のこと好きじゃないんだな」という現実を突きつけられた気になって、自分勝手に傷ついたのは私だ。お酒飲んでないのに、情緒不安定。涙腺が馬鹿になってる。脈絡もなく泣き出す女ほど、面倒なものってないでしょ。分かってる、分かってるのに涙が止まらない。
「なんで瑠璃子さんが泣いてるんですか?」
「分かんない。なんで泣いてんの?」
「ふっ……知らないですよ。そんなに隼人に会いたいの?」
ちがう。そうじゃない。私は首を左右に振ってその意思を伝えた。
「僕の方が泣きたいですよ」
泣きたいほど困っていると言うのか。……そんなに迷惑に思わなくてもいいじゃん。目の前でこんなに泣いている女がいるというのに、千石は抱き締めてもくれない。
千石は深く息を吸い、俯いたままの私の耳元に唇を寄せた。耳元で感じる千石の息遣いにピクリと体が震える。
「早く泣き止まないと、キスしますよ」
揶揄うような声と言葉に勢いよく顔を上げると、そこにはやっぱり意地の悪い笑い方をした千石がいた。きゅっと上がった口角と、細められた瞳が生意気そうだ。
「泣き止まないから、キスして」
そんなふうに返ってくるとは思っていなかったのだろう。間抜け顔を晒した千石が「実はお酒飲んだの?」と見当違いの答えを導き出した。
「飲んでないから」
「えー?じゃあ、僕にキスしてほしいほど欲求不満なの?」
「……あんたってほんと、」
気がつけば涙は引っ込んでいた。残念、これじゃあキスしてもらえないし、なんだか千石の手のひらの上だ。悔しい。
しかし当の本人は一応困惑しているようなので、少しの仕返しはできただろう。っていうか、人のこと散々鈍感だって罵ってきたくせに、千石の方が余程鈍感じゃない?
まぁ、今の私にはそれぐらいの鈍感さが有難いんだけど。
▼
就寝前、電気はもう消したので部屋は真っ暗だ。そんな中で千石がふと「最近、隼人たちはどうなってますか?」と聞いてきた。
まさか千石から自主的にその話をしてくるとは思ってもいなかったので、言葉に詰まってしまった。
「あー、実は最近読んでないんだよね、リング」
「?どうしてです?」
どうして。それは端的に言えば千石の存在のせいだった。私にとって千石はもう漫画内の人物ではなくなってしまった。
そうなれば、リングを読みながらツラい気持ちが勝ってしまうのだ。回想で千石が入ったり、永良くんやカエデちゃんが怪我をする。そして誰かが死ぬ。フィクションだから耐えられた。だけど、千石にとってはこれが現実。私にとって千石は現実。じゃあ、リングの世界は?それはもう私の中で現実になってしまった。
「う、うん。特に理由はないんだけど……もう読まないと思う」
正確には、読めない、が正しい。そんな私の気持ちを知ってか知らずか、千石は「どうなったか気になるので、僕が読みますね」と告げたのだ。
「えっ!?なんで!?」
「……声、もう夜!」
「そんなんいいから!なんで?」
「だから、気になるからです。僕が死んだあとどうなってるのか」
自分が死んだ後の世界を覗き見る。それってどれだけお金があっても、地位や権力があってもきっと無理なことだ。
気になる気持ちは分かる。それこそ千石なんて志半ばで亡くなったわけだし。だけど、彼の場合死に方が死に方なだけに……しかも私は今の鬱展開を知っているだけに……。その意見に賛同は出来かねた。
だけどこうなった千石を止めることはできないだろう。私は渋々といった様子でそれに頷いた。
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