第36話 プール開放日
「ヒロちゃーん、忘れ物!」
玄関を飛び出した僕を追いかけて、お母さんが叫んだ。走り出した僕は、足を止めて振り返る。お母さんの手に、僕のプールバックが握られていた。
「あっ!」
慌ててお母さんの所に戻る。靴を履くときに、玄関の上り口に置いたまま、飛び出してしまっていた。
「水着も持たないで、何しに行くつもりだったの?」
お母さんが、呆れた顔で僕を見ている。僕は、お母さんの手から、そのバックを引っ手繰った。
「行ってきます」
恥ずかしさを隠すようにして、僕はまた走った。今日は、学校でのプール開放日。授業の水泳はあまり好きではないけれど、プールで遊ぶのは大好きだ。特に、今日は暑いから尚更だ。
走っていた足を緩めた。額から汗が流れてくる。手の甲で汗を拭い、空を見上げた。昨日の夕立が嘘のように、晴れ渡っている。雲ひとつない青い青い空が広がっていた。空気が澄み切っている。とっても清々しかった。
ジ――ジリジリジリジリ!
蝉も、晴れ渡った空の事を喜んでいるのだろうか? 嬉しそうに大合唱している。ちょっと五月蠅いけれど。
廃墟の工場を横切り、学校に到着した。下足室で、上靴に履き替える。廊下に出ると、校内はシーンと静まり返っていた。夏休みなので、誰もいない。教室に向かう為に階段を上った。教室に近づくと、そこだけが賑やかだ。笑い声や、話し声が聞こえてくる。僕は、教室の扉を開けた。
ガラガラガラ!
太田が、僕を見つける。
「よっ! 小林」
僕は、太田に手を振る。
「おはよう」
自分の机にプールバックを置いた。中から、水着やバスタオルを取り出す。教室では、既に水着に着替えているクラスの友達もいた。僕は、シャツを脱いで半ズボンも脱ぐ。腰にバスタオルを巻きつけた。水着に着替えるには、少しテクニックがいる。バスタオルが落ちない様に注意しながら、ブリーフを脱ぎ、水着に穿き替えないといけない。この細心の注意を怠ると、バスタオルが落ちてしまう。そうなったら、目も当てられない。僕のそんな様子を見て、太田が鼻で笑った。
「おい、小林! 堂々と着替えろよ」
僕は、顔を上げて太田を見る。太田は、腰にバスタオルを巻いていなかった。堂々と股間をさらけ出している。はっきりと見えていた。
――えっ!
しかも、黒々と毛が生えていた。僕は、目を背けてしまう。
「隠せよ!」
太田は、笑いながら水着を身に着けると、ドタドタと僕に近づいて来る。僕は、慌てた。嫌な予感がする。手に持っていた水着を穿こうとした。足を上げる。でも、もたついてしまう。野獣のように襲いかかってきた太田が、僕のバスタオルを掴む。そして、引っ張った。
――ああっ!
僕の下半身が、あらわになる。
「ギャッハッハッ、ツルツルやないかー!」
太田が、僕を指さして、笑い出した。股間を隠したが、今度は、お尻が丸見えになる。クラスの視線が、僕に集まった。皆に注目される中、僕は真っ赤になりながら、水着を穿く。
――最悪だ!
そんな僕を見て、今度は小川が更に笑った。僕を指差しながら、お腹を抱えている。
「き、き、金玉。ヒャッハッハッハッ……!」
俯いて、下半身を見た。息を呑む。僕の金玉が、片一方だけ水着からはみ出ていた。手を伸ばし、慌てて金玉を水着の中に押し込んだ。恥ずかしくて、顔を上げれない。太田が僕の肩に手を置いた。慰めるようにして口を開く。
「気にするな小林」
太田は、笑い転げている小川を指差した。
「小川も、ツルツルやった。さっき見たんや」
僕は、笑っている小川を見た。目が合ってしまう。小川の笑いが止まった。僕は、そんな小川を見て、鼻で笑う。小川が、目を背けた。
「なあ、小林」
太田が、僕の耳に囁きかけてきた。
「なんだよ!」
僕は、太田を睨みつける。太田は、僕が睨みつけても、ニヤニヤと笑っているだけ。そんな太田が、首をひねった。隣の教室を見つめる。
「隣で、女子が着替えているやろ」
僕は、小さく頷く。太田の言葉に、小川が近づいてきた。興味深そうな表情を浮かべている。
「なになに?」
太田が、真剣な顔で僕たちを見る。
「俺は、加藤は生えているとみた」
僕は、小川と目を見合わせた。隣で着替えているであろう、加藤裕子の下半身事情を想像してしまう。あの加藤が……顔が赤くなった。なんだか下半身も元気になってくる。太田が、僕と小川の反応を見て、意地悪そうに笑った。
「ギャッハッハッ! 行こうか、プールに」
僕と小川の背中を、太田が楽しそうに叩く。騒ぐだけ騒いで、太田が歩き始めた。僕と小川は、お互いに見つめ合い、肩を竦める。太田の後に付いて、教室を出た。
廊下に出ると、隣の教室の女子たちが肩にバスタオルを掛けて、教室を出るところだった。賑やかにお喋りをしている。その中に、加藤裕子がいた。何となく、目が合ってしまう。大田の言葉を、思い出してしまった。何か察したのか、加藤が眉間に皺を寄せて、僕たちを睨む。
「こっちを見るな、エッチ」
肩に掛けたバスタオルを引っ幅って、加藤が胸を隠した。
――いや、気になるのはそっちじゃなくて。
僕は、目を背けた。
階段を降りて、僕たちは校舎から出る。渡り廊下を渡って、プールに向かった。今日は、先生だけでなく、プールの監視員として、クラスのお母さんたちも何人か来ていた。一箇所に集められた僕達は、点呼を取られたあと、プールの入り口のシャワーに向かわされた。
「キャー、冷たい!」
先頭から、悲鳴が上がる。順番に僕達も押し込まれた。暑い夏とはいえ、プールに入る前のシャワーは好きじゃない。逃げるようにして、シャワーの下を駆け抜ける。プールサイドに飛び出した。整列した後、みんなで準備体操を行う。本荘先生が、僕たちに注意事項を述べた。
「自由に遊泳しても良いですが、飛び込みは禁止です。良いですか!」
「はい」
返事をしたか思うと、クラスの皆が立ち上がった。我先にプールに向かう。プールサイドに腰かけ、足先を水の中に入れる。冷たい。そこ彼処で、黄色い歓声が上がった。勢いよくプールの中に身体を沈める。ブクブクと泡が弾ける音が聞こえた。
僕は、泳ぎに少し自信がなかったので、一人クロールの練習を始める。二十五メートルを泳いで壁にタッチした。壁を蹴る。折り返した。息継ぎをする時に、どうしても半身が沈んでしまう。まるで溺れている人みたいだ。いまひとつ要領が分からない。黙々と泳いでいると、足を掴まれた。そのまま、身体ごと沈められる。慌てた僕は、鼻に水が入ってしまった。カルキ臭い。暴れながら立ち上がる。犯人は太田だった。
「鼻に、水が入っただろう」
鼻の中が、ツーンと痛い。太田は、ニヤニヤと笑っていた。
「なに、真面目に泳いでるんや。遊ぼうぜ」
「何して?」
「小川が、ビーチボールを持ってきていたやろ」
太田は、それだけを言うと、他の奴にも声を掛けていった。女子にも声を掛けている。皆が自然と輪になり、ビーチボールを中心に集まった。プールの真ん中で、水に浸かったまま、太田がビーチボールを高く掲げる。大きな声を張りあげた。
「落としたらあかんぞー。いくぞー!」
太田が、ビーチボールを下から叩き上げた。空高く飛び上がり、ボールが丸い弧を描く。着地地点で、二宮が待ち構えていた。
「おれが取る!」
自分のボールだと主張する。二宮が、力強くトスを上げた。
「いーち」
誰かが、数え始めた。そのボールを、加藤裕子が追いかける。笑顔を振りまきながら、両手を伸ばす。
「それー!」
加藤が繋いだ。また、ビーチボールが、高く飛んでいく。
「にー」
皆が夢中になって、ビーチボールに手を伸ばした。青い空に舞い上がり、ボールが繋がれていく。僕の目の前にも、ボールが飛んできた。でも、軌道が大きい。ボールが僕を飛び越えていく。僕は足元を蹴り、手を伸ばした。何とかボールに手が届く。トスをした。ボールは、あらぬ方向に飛んでいき、水面に落ちた。皆が、落胆の声をあげる。
「あーあ」
小川が、剽軽に叫んだ。
「ただいまの記録、十二」
太田が、ビーチボールを掴む。皆を見回した。
「次は、もっと繋げるぞー」
太田が生き生きとしている。太田は、僕と違って周りを巻き込むのが上手だ。ほとほと感心をしてしまう。ビーチバレー以外でも、鬼ごっこもした。ボールを当てられると、鬼になる。逃げるために水に潜った。プルーサイドにも上がる。走っていると、先生に怒られたりもした。
「ピ――――!」
笛が鳴る。本荘先生が叫んだ。
「十分間の休憩を取ります」
僕は、プールから上がり、三角座りをする。結構、疲れた。ゼーゼーと肩で息をする。そんな僕の横に太田がやって来た。小川も横に座る。太田が、僕を肘で小突く。小さな声で囁いた。
「おい、小林。あれを見ろよ」
太田の視線の先に、女の子たちのグループが座っていた。楽しそうに話し込んでいる。
「今度は、なに?」
僕は怪訝な表情で、太田を見た。太田が、ニヤニヤと笑う。
「加藤は小ぶりだが、坂口……デカいよな」
僕は、太田の言葉に釣られて、坂口直美を見てしまう。確かに、デカい。丸い輪郭が、立体的に飛び出していた。というか、今日の太田は、とてもエッチだ。何だか、太田に釣られて、僕もいけない想像をしてしまう。胸が高鳴った。ちょっと刺激が強すぎる。意識をしてしまうと、なんだか女子を見ることが出来なくなってしまった。
その後も、元気一杯プールで遊んだ。クタクタになる。本荘先生から、終わりを告げられた。二時間程しか遊んでいないのに、日に焼けて、肩がヒリヒリと痛い。着替えるために、僕たちは教室に向かった。渡り廊下を歩き、校舎に入る。階段を上るとき、事件が起きた。
僕たちの前を、加藤祐子と坂口直美達のグループが歩いていた。お喋りをしながら、階段を上っている。そのつもりは、なかったけれど女子の歩く姿が目に入る。スクール水着に包まれたお尻が、左右に揺れていた。特に、坂口直美のボリュームが凄い。彼女は、決して太っているわけではない。ただ、胸とお尻が、人よりも成長していた。太田が、また僕を突っつく。
――分かってる。
僕も、罪悪感に駆られながらも、見ないわけにはいかなかった。つい、目で追いかけてしまう。その所為で、何だか元気になってきた。仕方がないので、バスタオルで前を隠す。
目の前の女の子たちは、お喋りに夢中。その時、坂口が、階段を踏み外した。よろめいてしまう。坂口の後ろにいた僕は、咄嗟に手を伸ばす。坂口の、腰と肩を支えた。坂口の脇腹周辺に、僕の指が食い込む。とても柔らかかった。坂口の濡れた髪の毛が、僕の鼻をくすぐる。カルキの匂いがした。坂口は、全身の体重を僕に預けたまま、固まってしまった。僕も、坂口を支えたまま固まってしまう。そんな、僕のことを、加藤裕子が睨みつけた。
「ちょっと、小林。早く、離しなさいよ!」
加藤が坂口の手首を掴み、引っ張った。坂口を、守るようにして抱きしめる。俯いていた坂口が、顔を上げた。顔を赤くして、僕を見る。小さな声で呟いた。
「あ、ありがとう」
僕は、目を大きく広げたまま、何も言えなかった。加藤が、僕のことを尚も睨みつける。その視線が、僕の下腹部に移った。目を開く。顔を赤く染めた。視線を逸らしてしまう。
「馬鹿!」
加藤の一言が、僕の心に突き刺さる。加藤は、坂口を引っ張って、その場から逃げて行った。立ち尽くしていると、太田が僕の足元から、バスタオルを拾い上げる。
「隠しておけ」
僕は、太田からバスタオルを受け取る。顔を真っ赤にして、前を隠した。太田は、僕を肘で小突く。
「ひとりだけ、羨ましいの」
更に、頭に血が上るのを感じた。坂口さんを受け止めた感触を、ぼんやりと思い出してしまう。とても柔らかかった。
教室で、着替えが終わった僕たちは、教室を出る。坂口さんに会ってしまわないか、少し心配だった。あんなことがあった後で、どんな顔を見せればいいのだろう。逃げるようにして、僕は階段を降りた。なんだかドキドキする。そんな僕のことを、太田と小川が追いかけてきた。
「おい、小林。急ぐなって」
僕は、足を緩める。太田が、僕に追いついた。
「今から秘密基地に行こうぜ」
僕は、頷く。
「ああ、そうしようか……」
下足室で靴に履き替る。校門を出た。目の前に、廃墟の工場がある。有刺鉄線の破れ目から、敷地内に忍び込んだ。不気味な団地を迂回する。裏庭を見て、驚いた。昨日の夕立で、一面が黒く泥濘んでいた。
「ドロドロやな……」
小川が呟いた。
「ここら辺、歩けそうやで」
僕は、足を踏み出す。端っこの乾きかけた所を歩いていき、秘密基地のバスに向かった。ところが、バスの手前で、僕は足を止めてしまう。異変を感じたからだ。
「どうしたんや?」
太田が、僕の後ろから問いかけた。僕は、バスのステップを指さす。小川が、ゆっくりと近づき、腰を落とした。
「これ、足跡や。誰かが、中に入ったみたいやな」
「えっ!」
太田が、驚いた声をあげる。僕は、心配になる。急に、動悸が始まった。慌てて、バスに乗り込もうとすると、小川が僕の肩を掴んだ。
「慌てるな。冷静になれ」
小川は、バスのステップにある足跡を踏まないように気を付けながら、バスに乗り込んだ。僕も、後に続く。小川は、バスの中を観察し始めた。現状に変化がないか、首を回して確かめる。後部座席を見たとき、動きが止まった。僕も、後部座席を見る。ワナワナと足が震えた。
「ない!」
小川が、僕の叫びに大きく頷いた。僕は、目を見開く。後部座席に凭せ掛けていた、貴子お姉さんの肖像画が、無くなっていた。
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