第35話 犯行

 夕立がやんだ。上体を起こして、シートを戻す。車の鍵を抜き、表に出た。纏わりつくような湿り気が、身体を包み込む。蒸し暑い。車のドアを閉めて、歩き出した。まだ、日没には早いのに、辺りが薄暗い。視線の先に川添商店街が見える。気の早いお店では、ネオン管に火が点っていた。赤い提灯も見える。足元の水溜まりを避けながら、僕はその商店街に向かった。


――今日は、どの店にしようか?


 両親の仕事が忙しい所為で、幼い頃から外で食事を取ることが多い。この商店街の飲食店は、僕にとっておふくろの味だ。幾つかの選択肢の中から、今日は中華に決める。赤い暖簾を潜った。


「らっしゃい!」


 白いコック服に身を包んだ店主が、僕に笑顔を見せた。僕はいつものようにカウンターに座る。店主の奥さんが、傍にやって来た。人懐っこい笑顔を見せて、お手拭きと水を提供してくれる。


「マサルちゃん、凄い夕立だったでしょう」


 僕は、奥さんに無理に笑顔を見せた。


「凄い夕立だった。車を運転していたんだけど、前が見えなかった」


「そうでしょう。バタバタ、バタバタ、テントを叩く雨の音が凄かったのよ」


「雷もなりましたね」


「こんなにも酷い夕立なんて、久しぶりよね~。ところで、今日は、何にする? いつもの餃子かな?」


「ええ、それでお願いします」


 奥さんが、僕の顔を覗き込んだ。


「どうしたの、マサル君。何か嫌なことがあったの?」


 僕は、驚いて奥さんを見た。


「えっ! そ、そんなことないですけど……」


 カウンターの向こうから、店主が僕に声を掛ける。


「さては、女の子にでもふられたか?」


 僕は、その言葉に動揺する。奥さんが、店主をたしなめた。


「あんたは、余計なことは言わないの」


 奥さんが、僕の肩に手をかける。


「元気がない時は、ウチに来て、お腹いっぱい食べて、ぐっすり寝る。そしたら元気になるから。それに、愚痴を言いたかったら、ジャンジャン言いなさいよ。お姉さんが、聞いてあげるから」


 店主が、笑いながら、奥さんにつっこむ。


「お姉さんて、ガラかよ!」


 奥さんが、店主を睨む。


「デリカシーの無い親父は、黙っててくれる!」


 僕は、二人のやり取りに、つい微笑んでしまう。いつものことだ。奥さんに笑顔を向けた。


「ありがとうございます」


 程なくして、餃子定食が提供された。頼んでもいないのに唐揚げがサービスされている。ちょっとした心遣いに嬉しくなった。小さな頃は、両親と一緒に食べに来ていたが、最近は一緒に来たことがない。ほとんど、僕一人だ。頻繁に店に足を運ぶので、店主も奥さんも、僕の事をいつも気にかけてくれる。箸を取り、静かに食事をした。店内にはテレビが設置されている。漫才師がネタを披露していた。店主が、腕を組みその漫才を見ている。面白そうに大声で笑っていた。食事が終わり、僕は席を立つ。会計を済ませた。奥さんが、僕に微笑みかける。


「私で出来ることなら、力になるからね」


 僕は頭を下げた。 


「ありがとうございます」


 店を出る。太陽が沈み、夜の帳が降りていた。原色のネオン管が光っている。商店街が、賑やかに輝いていた。雨に濡れた黒いアスファルトに、赤や青の光が反射して滲んでいる。忙しそうに行き交う人々が、足元のその光を踏みつけた。僕は自宅に帰らずに、また、駐車場に向かう。逃げるようにして、喧騒から離れた。ドアを開けて、愛車に乗り込む。鍵を回して、エンジンを掛けた。


 ブルン!


 唸り声を上げたと思ったら、エンジンが止まった。夕立の湿気の所為だろうか。もう一度、鍵を回す。アクセルを踏んだ。


 ブルルン……!


 二回目で、エンジンが掛かった。シフトを二速に入れて、アクセルを踏む。


 プスン!


 また、エンジンが止まった。今度は、エンストだ。僕は、大きく溜息をつく。


――もう、帰ろうか?


 僕の中に迷いが生じる。生じつつも、鍵を回した。エンジンが掛かる。ハンドルを切りながら、駐車場を出た。商店街から離れると、辺りは住宅地になる。更に走り続けると、住宅地が減り空き地が見え始める。その先に廃墟になった工場があった。街灯はなく、辺りは真っ暗だ。普段なら、小学校に明かりが点いていてもおかしくないのに、夏休みだから小学校も真っ暗だ。


 工場の端にある有刺鉄線の破れ目にやって来た。直接、車を横付けする。辺りを伺ってみたが、誰もいない。僕は、帽子を深く被る。工場の中に忍び込んだ。手に、懐中電灯を持っているけれど、まだ点けない。暗闇の中、裏庭に向かって歩みを進める。足元のコンクリートの感触が、急になくなった。足が、泥濘にはまる。


「クソッ!」


 靴が濡れた。水が浸入してきて靴下が濡れる。気持ちが悪い。足を上げて、一歩後退した。懐中電灯を点ける。コンクリートで整地されていない裏庭が、一面、池のようになっていた。このまま進むかどうか、躊躇してしまう。


――どうする?


 やると決めたはずなのに、迷ってしまった。これから行う行為に、正当性はない。むしろ、貴子は悲しむだろう。わざわざ、貴子を悲しませる行為をする自分に呆れた。それでも、貴子が寺沢先輩と繋がっていることは、もっと許せない。懐中電灯を動かして、歩けそうな場所を探した。水浸しの裏庭に、足を踏み入れる。


 靴が濡れないように道を選んだつもりだったけれど、バスに辿り着いた頃には、両方の靴がずぶずぶに濡れてしまった。そのまま、バスのステップに足をかける。


 グニュリ!


 靴底の泥の所為で、足が滑った。バスのドアを掴み体を支える。懐中電灯を照らしながら、中に入った。椅子が整然と並んでいる。古いタイプのバスだった。


 ミシッ!


 床は木の板を張っているようだ。歩くと、音が鳴る箇所がある。バスの中は、湿り気を伴なった埃臭い匂いが充満していた。座席の上には、様々なものが放置されている。週刊ジャンプが、捨てられることもなく沢山積み上げられていた。トランプやサッカーボールなんかも転がっている。驚いたことに、ナイフもあった。折り畳み式で、肥後守と呼ばれている物だ。手に取ってみる。刃を出してみた。


 カチン!


 刃は錆びている。切れ味は悪そうだ。でも、都合が良い。そのナイフを持ったまま、懐中電灯を動かした。


――肝心の肖像画はどこだ?


 後部座席を照らした。ちょうど真ん中に、肖像画が凭せ掛けてある。絵に懐中電灯の光を当てて、ゆっくりと近づいた。肖像画の全容が見えてくる。桜の木の下で椅子に座っている貴子が描かれていた。なんてことはない構図だ。奇をてらった様子もない。ただ、描かれている貴子の表情は、子供が見せる笑顔ではなかった。全てのしがらみに解放されたような、淀みのない笑顔を浮かべている。観る者に、優しく微笑みかけていた。また、キャンパスが四角いからか、まるで窓を覗いているみたいだ。暗い部屋の中から、外にいる貴子を見つめているような感覚に襲われる。明るい窓の外にいる貴子に、思わず手を指し伸ばした。その指先に、ナイフが握られていた。


 僕は、ナイフの刃を出した。ナイフの刃先を、ジッと見つめる。視線を、肖像画に移した。一歩前に進む。手を伸ばせば、その絵を触ることが出来る。僕は、手を上げてナイフを構える。


 スゥ――!


 大きく息を吸った。振り下ろせば、作品を切りつけることが出来る。そうすれば、貴子と先輩の絆が断ち切れる。全てが解決だ。貴子は悲しむに違いない。でも、そうするしかないんだ。


 フゥ――!


 大きく息を吐いた。絵の中の貴子が、僕を見つめている。僕が、ナイフを振り翳しているのに、微笑みをやめようとはしない。固唾を飲む。僕のことが、怖くないのか?


「切るぞ!」


 僕は、絵の中の貴子に向かって威嚇する。まるで生きている貴子に接しているようだ。額から汗が流れる。緊張から、心臓がバクバクと暴れていた。現実と妄想の境目が曖昧になる。ただの絵だと分かっているのに、まるで本物の貴子に切り掛かっているような感覚に、僕は恐れをなした。


 ガクッ!


 手を下した。倒れ込むようにして膝を崩す。絵の中の貴子と、目線の高さが合わさった。膝立ちのまま、貴子を見つめる。時間も忘れて、貴子の事を、ジッと見つめ続けた。貴子が僕に微笑んでくれる。愛おしくて愛おしくて、胸が苦しい。僕は、自分の胸を掻きむしった。これまでに、こんなにも真っすぐに、貴子を見つめたことがあっただろうか。いや、無い。僕は、カメラ越しでしか、貴子を見ていなかったから。


「どうしたの、マサル君。何か嫌なことがあったの?」


 何故だか、奥さんの優しい声を思い出した。


――嫌なこと?


 嫌なのは、全部自分。先輩じゃない。そんなことは、ずっと前から分かっている。ただ、どんなに頑張っても、貴子に僕の心が届かない。それが辛いだけなんだ。


 グスッ。


 涙が出てきた。鼻水を啜り上げる。一体、僕は何をやっているんだろう。一人で相撲を取っている愚かしさに、自身を笑いたくなる。この絵は、切りつけることが出来ない。この絵には、命が吹き込まれている。手に持っていたナイフを、僕は捨てた。立ち上がる。手を伸ばして、その絵を掴んだ。大切に抱えて、バスを出る。暗闇の中、懐中電灯を照らしながら、水浸しの裏庭を突っ切った。また、靴が濡れる。でも、気にしなかった。それよりも、この貴子の肖像画の方が重要だった。汚れないように気を付けながら、車まで戻ってくる。その絵を、車の後部座席に立てかけた。泥で汚れた靴のまま、車に乗り込む。エンジンを掛けた。シフトを入れて、アクセルを踏み込む。僕は、振り返らなかった。貴子を手に入れた様な、異常な興奮を胸に抱きながら、僕は車を走らせて行った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る