第34話 肖像画

 次の日、貴子の事が心配だったけれど、僕は大学に行かなければならなかった。夏休みだけど、ゆっくりとさせてくれない。


――よりによって、このタイミングで……。


 後ろ髪をひかれながらも、アクセルを踏み込んだ。南に向かって、車を走らせていく。寺沢先輩が、貴子に手を出さないことを願うばかりだ。大阪の南地域、河内にある芸術大学に到着する。自然に囲まれた片田舎で、非常にアクセスが悪い。電車で通学するとなると、片道で二時間は必要になる。でも、車なら一時間程だ。それに、僕は知らない他人と一緒に、電車に詰め込まれるのが嫌いだ。一人になれる車が良い。


 渋々やって来た大学だったけれど、結果的には来てよかった。悔しいけれど、気付いたことがあったのだ。人物写真は、大きくスナップ写真とポートレイトに分けることが出来る。普段、カメラを持って何気なく撮っている写真は、スナップ写真に分類される。被写体の自然な仕草の一瞬を切り取ることを目的にしている。僕はこれまでに貴子をモデルにして写真を撮ってきた。それらの写真は、どちらかというとスナップ写真に分類される。


 スナップ写真は、モデルの意思はあまり関係がない。大切なのは、カメラマンのセンスだ。どのような絵を切り取るのかは、全てカメラマンに任される。僕は、貴子の自然な姿を、まるで宝物を発見するようにして追い求めてきた。見せたことのない貴子の表情や仕草を見つけると、僕の中から言い知れぬ歓喜が湧き上がる。その一瞬一瞬を切り取ってきた。僕は、そんな自分のスタイルが好きだったし、狩猟に近いものだと受け止めていた。


 ポートレイトは同じ人物写真でも、全く違う。どちらかというと演劇に近い。監督と俳優の関係と置き換えると分かりやすい。一枚の人物写真を作り込む為に、カメラマンとモデルが共同で作り上げるところが、スナップ写真と大きく違う。カメラマンは、レフ版を用意したり、太陽の位置を計算に入れたり、構図を考えたりしてカメラを握る。同じように、モデルも、手の角度や、体の位置、表情の見せ方など、最高の一枚を作り上げるためにポーズを決める。ポートレイトは、二人の意思の交じり合う先に、作品が生み出されるのだ。


 ということは、貴子をモデルにした寺沢先輩の肖像画は、写真でいうところのポートレイトに近いのだ。それに引き換え、僕は、スナップ写真ばっかり。貴子のポートレイトは、撮ったことがないような気がする。僕は貴子にモデルのお願いをしたし、貴子はそれに応じてくれた。いつも貴子を自由にさせていたし、そんな貴子を僕は追いかけていた。僕は自然な貴子を撮りたかったので、それで良かった。でも、僕の写真は、いつも一方通行だった。


 ところが、先輩の肖像画は違う。その絵には、明らかに貴子の意思がある。ファインダー越しに、僕は貴子を覗いた。貴子は、自身の肖像画について、先輩と意見を交わしている様だった。肖像画を完成させるために、積極的に貴子が関わっている姿が見て取れた。その肖像画は、二人の精神的な交わりを結晶化したものなのだ。その思いに至った時、僕は、唇を噛んだ。激しい嫉妬に駆られた。


 周りが暢気に実習に取り組んでいる中、僕はこれまでにないくらいに集中していた。昼食を挟んで、午後の課題を済ませると、僕は慌てて教室を飛び出す。時間が惜しかった。真っすぐに駐車場に向かう。停めてあるホンダシビック1500RSLに乗り込んだ。直ぐにでも二人の現場に駆け込んで、引き裂かなければいけない。関係を終わらせないといけない。一刻の猶予もならない。でないと、取り返しのつかないことになる……。


 いつもなら下道を走って帰宅しているけれど、高速道路を使った。僕は、アクセルを踏み込む。車が、時速百キロを超えた。キコンキコンと速度警告音が鳴り響く。でも、更にアクセルを踏み込んだ。車が更に加速する。目に見える景色が、次々と後方に過ぎ去っていった。


 地元に戻ってきた僕は、自宅に帰らずに廃墟の工場に向かった。昨日と同じように、工場の裏手に車を止める。黒いキャップを被り、カバンを掴んだ。車に鍵をかけると、工場の中の団地に向かって歩き出す。幼いころに通った小学校を横目に見ながら、荒い息を吐いていた。高速道路を飛ばしてきたせいで、歩くのがまどろっこしい。腋から汗が噴き出していた。暑いだけではない。これから、僕がしようとしていることを考えて、汗が噴き出すのだ。手を、ギュッと握り締める。先輩と対峙したら、初めてケンカをするかもしれない。そんな決意に駆られていた。すると前方の有刺鉄線の裂け目から、小林君が自転車に乗って飛び出してくる。友達も一緒だ。


――えっ!


 ちょっと慌てた。寺沢先輩ならともかく、子供たちが急に出てくるとは。僕は、隠れようとした。でも、どこにも隠れるところがない。帽子で顔を隠して、このままやり過ごそうかとも思ったが、やめた。寺沢先輩について、状況を聞き出してみよう。僕は、手をあげた。


「やあ、小林君」


 小林君が、自転車を止めた。友達も、自転車を止める。背の大きい子は、小林君に万引きを強要した子だ。確か、貴子のテニス大会でも見かけたと思う。小林君は、まだこんな不良と付き合っているんだ。小林君が、悪に染まらないかと心配になる。もう一人の男の子も、顔は憶えている。小林君が、僕を見て申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「高井田さん、この間は、ごめんなさい。あんなことになってしまって……」


 僕は、首を振る。


「良いんだよ。結果的には、僕が帰る羽目になってしまったけれど、貴子さえ無事なら、それで良いんだよ」


 小林君が、無理に笑顔を作った。


「お姉さんなら、大丈夫です。僕も心配だったけれど、無事に終わりました」


「終わったってことは、肖像画は完成したのかな?」


「はい」


 やっぱり完成していたんだ。それは兎も角、二人は、今、一緒なのだろうか?


「そのー、貴子は、寺沢先輩と一緒に居るのかな?」


 はやる気持ちを押さえながら、尋ねた。小林君が、頭を振る。


「今日は、お姉さんはいません。それに、ジョージも、もう居ませんよ」


「えっ! 居ないってどういうこと?」


「僕達もジョージに会えるかなって思って、来たんですけど、やっぱり居ませんでした。ジョージさん、ヤクザと決着をつける為に帰るって、言っていました」


「へー、そうなんだー」


 気負っていた気持ちが、霧散した。先輩にとどめを刺して、自分も死ぬくらいの気持ちでやって来たのに、先輩はもう居ない。呆然として宙を見つめていると、背が大きい男の子が、小林君の背中を突いた。


「なあ、小林。この人、誰なん?」


 小林君が、その大きい男の子に僕を紹介する。


「この人は、貴子お姉さんの、従弟のお兄さん」


 大きい男の子が、慌てたように僕にお辞儀をした。


「ぼ、僕、太田といいます。貴子さんには、お世話になっています」


 もう一人の男の子も、僕に挨拶をする。


「僕、小川です……確か、お兄さんは、貴子さんのテニス大会に来られていましたよね?」


 僕は、笑顔を作った。


「ああ、そうだね。貴子が心配で、見に行っていたんだ。今日も、貴子の様子を見に来たんだ。寺沢先輩に何かされないか心配でね。でも、取り越し苦労だったみたいだね」


 太田と名乗った男の子が、笑い出す。


「心配って、大丈夫だよ。ジョージは、そんな悪さをするような奴じゃない。それどころか、ジョージが居なくて、なんだか寂しいよ」


 太田君の言葉に、小林君も小川君も頷いていた。僕は、息を吐く。空を見上げた。先輩はもう居ない。問題は解決していたんだ。ホッと胸を撫でおろす。子供たちに挨拶をして、帰ろうと思ったとき、太田君が嬉しそうに語り出した。


「しかし、凄かったよな~、ジョージの絵。まるで貴子さんが、もう一人いるみたいだったもんな」


 小川君が、同意する。


「近くで見ると、ペタッって色を置いているだけなのに、なんで本物みたいに見えるんだろう。不思議だよな~」


 僕は、子供たちの会話が気になった。口を挟む。


「その肖像画は、貴子が持って帰ったのかな?」


 小林君が、僕を見上げる。


「大きかったから、まだバスに残したまま。どうするのか、お姉さんに聞いてみないと……。色々あったけど、お姉さん、その絵のこと、とても喜んでいたんだよ」


 貴子が喜んだ……小林君の言葉に動揺した。先輩は居なくなったのに、まだ先輩と貴子を結ぶ絆が存在している。そのことに我慢がならなかった。僕が撮った貴子の写真に対して、貴子が喜んだことがあっただろうか? 出来た写真を見せても「もっと綺麗に撮ってよ」と文句しか聞いたことがない。それなのに、先輩の絵には喜んだんだ。僕は、唇を嚙みしめる。その絵の存在が、許せない。


「どうしたの、お兄さん」


 小林君が、僕を見上げていた。僕は、頭を振る。


「いや、何もないよ」


 僕は、小林君たちに手を振った。


「じゃ、僕は帰るよ。さようなら」


 小林君たちが、僕に手を振ってくれる。


「さようなら」


 挨拶を交わした後、僕は来た道を戻り車に向かった。小林君たちは、自転車に乗って僕を追い越していく。歩きながら、どうしたら良いのか考えた。先輩って人は、居なくなっても僕の心をかき乱す。その肖像画の存在を、何とかしなければいけない。貴子が、そんなものに惑わされていることが、問題だ。


 塞ぎこんだ気持ちを抱えたまま、車に乗り込む。車内が暑かった。ハンドルを回して、ウィンドウをさげる。走り出すと、車内に湿った空気が入り込んできた。見上げると、青かった空に、黒い入道雲が膨れ上がっている。直ぐにでも、夕立が降ってきそうだ。


 ピカッ!


 ゴロゴロゴロ~!


 閃光が瞬いたかと思うと、雷が轟いた。一つの雨粒が、フロントガラスにぶつかり、弾け散った。続けて、いくつもの雨粒が、フロントガラスを叩き始める。見る見るうちに、大雨に変わっていった。開けていたウィンドウを、慌てて閉める。シートが濡れた。フロントガラスに滝が流れているようで、前が見えない。ワイパーを動かしても、視界は不良だった。雷が鳴り響く中、ゆっくりと車を走らせて駐車場に帰ってくる。エンジンを止めた。シートを倒す。両手を頭の後ろに回し、寝転んだ。太鼓の乱れうちのように、雨粒が屋根を叩く。その音を聞いていると、不思議と心が落ち着いた。雨が止むまで、このまま寝転んで待つことにする。どうすべきかを考えた。今夜、決行しよう。

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