第33話 尾行

 目を覚ました僕は、ベッドに寝ころびながら唇を嚙みしめていた。貴子が、僕を睨みつける姿が、思い出される。僕に、「帰れ!」と訴えかけていた。写真のモデルは引き受けてくれないのに、どうして寺沢先輩のモデルは引き受けたのだろう。貴子の考えが分からない。僕は、いつだって貴子の事を大切に考えている。それなのに、出会ったばかりの寺沢先輩になびくなんて、信じられない。尻軽な態度の、そんな貴子の事が心配だ。どうすれば良いだろう……。


「マサル~」


 階下から、母親が僕を呼んでいる。返事をせずに寝ころんでいると、母親が更に叫んだ。


「朝食は用意しているから、ちゃんと食べてね。私は、今日も帰るのが遅いから、後は宜しくね」


 バタン!


 玄関の扉が閉まる音が聞こえた。父親と一緒に会社に出かけたようだ。僕は、起き上がると、階段を下りた。洗面所で顔を洗う。服を着替えた僕は、テーブルに用意された朝食を見る。おにぎりが用意されていた。でも食欲が湧かない。カバンに詰めて、お昼ごはんにしようと思う。


 部屋に戻ると、カバンに入っているカメラを取り出した。長い付き合いの相棒だ。このカメラで、ずっと貴子を追いかけてきた。カメラの底部に擦り傷がある。摂津峡で貴子を受け止めた時に出来た傷だ。とても懐かしい。転倒したとき、カメラ本体はこの傷だけで済んだが、セットしていた望遠レンズは壊れてしまった。もう使い物にはならないが、大事に仕舞っている。壊れた望遠レンズは、思い出の象徴だ。触れるだけで、あの時の貴子の様子を思い出すことが出来る。貴子に関連する物は、全て大切に仕舞っておきたい。


 カバンの中に、カメラ本体と望遠レンズを収める。フィルムもたくさん用意しておいた。そのカバンを肩から下げると、黒いキャップを手に取る。深く被った。階段を降りて、玄関で靴を履く。戸締まりを確認して、表に出た。


 少し歩いたところに、駐車場がある。そこに、僕が通学に使っている車を駐車していた。ホンダシビック1500RSL。赤い塗装に、お尻が切れた丸い外観。初代に比べて排気量を増やしたコイツのことが大好きだ。運転席に滑り込むと、カバンを助手席に置く。ダッシュボードにあるサングラスを手にした。キーを差し込み、エンジンをかける。アクセルを踏んで、軽くふかした。


 ブルルン……!


 低い唸り声が腹に響く。今日も機嫌が良いようだ。シフトを二速に入れる。ハンドルを切りながら、駐車場から車を出した。これから、貴子の実家に向かう。昨日の事があるので、貴子の行動を見守る必要があるのだ。もし、間違いが起こるようであれば、たとえ先輩であっても、体を張って止めなければいけない。それが、兄の務めというものだ。


 西村家から少し離れた所に、月極の駐車場がある。その一区画を、友達の親が契約をしていた。僕が西村家に遊びに行く時、空いていれば使って良いことになっている。いつものように、そこに車を停めた。エンジンを止めて、西村家を見る。少し角度が急だが、ギリギリ西村家の玄関の様子を伺うことができた。カメラの望遠レンズを使えば、貴子の部屋の窓を確認することもできる。ここで、貴子が出かけるのを待つことにした。


 西村家を見ながら、僕は嫌なことを思い出す。ひと月ほど前のことだった。貴子が家の前でテニスラケットを振っていると、自転車に乗った男がやって来る。事もあろうに、貴子の胸を触ったのだ。憤慨した僕は、奴を懲らしめてやろうと思ったが、誰だか分からない。流石に、車で自転車を追いかけるのは無理があった。ところが、その後、貴子のテニス大会に、奴がノコノコと現れる。なんと、僕が見ている前で、貴子の女友達を殴り始めたのだ。本当に驚いた。もし、貴子が被害者になっていたらと思うと、気が違いそうになる。貴子が可愛いから、変な虫を寄せ付けてしまうんだ。だから、僕が守ってやらないといけない。


 あの場に、小林君が居たことにも驚いた。貴子と一緒にサンドウィッチを食べていたっけ。小学生だし頼りないが、彼は貴子のことを守ろうとしている。貴子が、あの子に優しく接するのは癪だが、あの子は、僕の知らない貴子の事を知っている。寺沢先輩の情報は、小林君が教えてくれた。それに、あの子のお陰で、貴子の熊のヌイグルミに出会うことができた。あの子とは、仲良くしておいて損はない。


 その時、西村家の玄関が開いた。僕は、ガバっと飛び起きる。サングラス越しに、目を細めた。貴子が、玄関から出てくる。麦わら帽子に、ワンピースを着ていた。肖像画のモデルになるために出かけるつもりなのだろう。貴子が、小林君の家の呼び鈴を押した。暫くして、小林君が出て来る。二人で仲良く、歩き出した。行先は分かっている。分かっているが、見ているだけの自分に腹が立つ。ハンドルを強く握ってしまった。


 暫く待ってから、駐車場から車を出す。ノロノロと運転をしながら、廃墟の工場にやってきた。前方に、二人が歩く姿を確認した。ハンドルを切り、工場の裏手に車を止める。カバンを掴み、外に出た。車に鍵をかける。黒いキャップを深く被り直して、歩き始めた。


 梅雨と違って、空気は乾いていたが、相変わらず暑い。工場の敷地に蔓延る雑草も、心なし元気がないように見えた。有刺鉄線が破れた箇所に到着する。身体を滑り込ませると、真っすぐに団地に向かった。階段を使い二階に上がる。玄関のノブに手をかけて、回した。開かない。対面にある、もう一つの玄関に移動した。同じように、ドアのノブに手をかける。回した……開いた。


 素早く体を滑り込ませて、中に入る。部屋の中は、夏の暑さで、サウナのようだった。外に用心しながら、全ての窓をゆっくりと開けていく。部屋の中に、空気が流れ始めた。裏庭に面した部屋に陣取って、外の様子を伺う。貴子が木の下に設置してある椅子に座っていた。大きな木のお陰で、日陰になっている。小林君は、貴子のボディーガードの様に、貴子の後ろに立っていた。もし、先輩が暴れたとしたら、あの子では守り切れないだろう。でも、居ないよりはマシだ。寺沢先輩は、キャンパスに向かって、筆を滑らせている。貴子に向かって、何か話しかけていた。貴子は、返事を返しているようだが、その表情が良く見えない。僕は、カバンからカメラを取り出した。カメラ本体に、望遠レンズをセットする。窓の桟にレンズを固定して、覗いてみた。


 貴子の表情が、拡大されて見える。相変わらず美しかった。先輩に、その笑顔を見せていることは、許せないが、今は仕方がない。そのまま、僕はシャッターを押した。貴子の笑顔が切り取られる。貴子の事をずっと見てきたから感じるのだが、目の前の貴子がとても大人びて見えた。なんだか余裕があるし、とても色っぽく感じる。最近まで見せていた、機嫌が悪い表情とは全然違うのだ。


――寺沢先輩に、恋をしているから?


 僕は、大きく首を振った。そんなことは考えたくない。いま、僕がここに居るのは、騙されている貴子を、先輩から守るためだ。ちょっとでも変な行動を起こそうとしたら、ここを飛び出して、駆け付けなければいけない。


 貴子が立ち上がった。先輩に近づいて話しかける。内容は分からないが、二人は肖像画について意見を交換しているようだった。二人の距離が、ちょっと近すぎるんじゃないのか。その様子を見ながら、なんだか落ち着かなくなる。


――小林君、ボサッと突っ立っていないで、二人の間に割り込めよ。


 僕の願いが通じたのか、小林君が二人に近寄る。でも、今度は三人で仲良く話し込んでいるように見えた。イライラする。そんな様子を、ただ見ているだけの自分に、悲しくなってしまう。気持ちを切り替えることにした。


 僕は、ピントを合わせて、丁寧に構図を選ぶ。シャッターを押した。先輩に意見をしている真剣な表情の貴子を、カメラに収める。僕の楽しみは、貴子の様々な表情を集めることだ。もちろん、笑っている貴子が一番可愛いのは間違いない。でも、それだけでは満足ができないのだ。コンプリートすることは無理にしても、色んな貴子が欲しい。今は、貴子の写真を撮っているけれど、貴子に関係するものならば、実は何でも欲しい。


 これまでに僕は、貴子が使わなくなったものを集めていた。部屋にある貴子の衣服にしたって、盗んできたわけではない。叔母さんが、貴子の服を処分するって言うから、理由を付けて分けてもらったのだ。熊のヌイグルミだって、必ず返す。ただ、返すタイミングを図っているだけだ。


 でも、熊のキーホルダーだけは、本当に盗んでしまった。その事は、言い訳のしようもない。あのキーホルダーには、貴子の血が付いている。その所為だろうか、あの時のことが思い出されてしまうのだ。手にするだけで、どうしようもなく興奮してしまう。あのキーホルダーは、貴子の分身だ……だから、特別なんだ。


 昼前になると、貴子は持ってきたバスケットを裏庭に広げはじめる。貴子の横に先輩が腰を下ろした。小林君も横に座る。望遠レンズで、中身を確認した。サンドウィッチだ。楽しそうに、三人が食事を始める。僕は、大きく息を吐いた。僕がこんなにも心配しているのに、貴子の奴、暢気なもんだ。僕も、母親が用意してくれたおにぎりを取り出す。食べながら、三人の様子を追いかけた。


 食事が終わると、肖像画の作成が再開されたが、小一時間で終わった。僕は、カメラを覗く。先輩が描く肖像画は、完成したように見えた。キャンパスに描かれた自分の絵を見て、貴子が喜んでいる。悔しい気持ちに苛まれながらも、シャッターを押した。次々と押した。花のように美しい貴子の笑顔が、辺りに零れまくっていた。


 画材道具を片づけると、先輩を先頭に三人が歩き出した。何処に行くのだろう。僕は、小学校が見える表通りに面した窓に移動する。二階の窓から、先輩達の様子を伺った。三人は、楽しそうに歩いていく。


――家に帰るのだろうか? 


 それにしては、先輩が一緒に歩いているというのが解せない。十分に距離が離れたことを確認して、一階に降りた。僕も、歩き始める。工場の裏手に停めてあった車に乗り込むと、ゆっくりと車を走らせた。スーパーダイエーの付近で、先輩が貴子と別れた。真っすぐにダイエーに向かう。どうも、買い物をするつもりのようだ。貴子は小林君と一緒に自宅に向かって歩き出す。ゆっくりと、僕も付いて行く。貴子が、帰宅したことを確認した。僕は、ホッと胸を撫でおろす。さて、僕も家に帰ろう。貴子には、いつもハラハラさせられる。でも、頑張らなくてはいけない。これも、貴子の幸せのためだ。

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