第32話 血の味

 写真を撮られている時、貴子は良く歌を歌っていた。テレビに出ているアイドルに憧れているのだろうか。ザ・ベストテンでよく見かける山口百恵やピンクレディーの歌なんかを口遊んでいたように思う。でも、そんな世界には行って欲しくない。僕だけの貴子でいて欲しい。シャッターを切りながら、僕は貴子を見つめた。可愛く笑っているその姿を、永遠に閉じ込めたい。そんな風に思っていた。


 そんな昔の事を思い出す時、僕の記憶の中の貴子は、いつもサザンオールスターズの「いとしのエリー」を歌っていた。美しいけれど、悲しい歌だ。なんだか、胸の内を搔きむしられるような気持になってしまう。出来ることならば、貴子にその歌を歌って欲しくなかった。でも、この曲を聞くと、あの時の貴子の事を鮮明に思い出すことが出来る。あの日の貴子は、自転車を走らせながら「いとしのエリー」を歌っていた。


 六年生になる貴子と一緒に、僕は市内にある摂津峡に向かっていた。もちろん写真撮影のためだ。摂津峡は、住宅地にほど近い、山間にある景勝地だ。切り立った岩の間を、豪快に川が流れている。周辺は、桜の木が沢山植えられていて、花見のシーズンは、沢山の花見客で賑わう観光地になっていた。ただ、僕たちが自転車を走らせた時期は、五月だったので桜はすでに散っていた。その代わり、枝には深い緑色の葉っぱが鬱蒼と生い茂っていた。


 花見に来たのならまだしも、今日は貴子の撮影会だ。桜の花は必要ない。そもそも、貴子こそ花なのだ。新緑をバックにした貴子は、きっと映えるに違いない。想像するだけで、今日の撮影会が楽しみになる。山裾の摂津峡の入り口にやってきた。貴子が、自転車を止める。


「えー、この坂を上るの……」


 先程まで気分よく歌を歌っていた貴子が、坂を見て肩を落とした。自転車で登るには、少し骨が折れる坂なのは間違いない。僕は、貴子に微笑みかける。


「摂津峡に到着したよ。ここからは、自転車を押して歩こうか」


 坂道は、ゆっくりと弧を描きながら左に曲がっていた。街中とは違い、ここから森が始まる。当たりは清涼な空気に満ちていた。覆いかぶさるようにして突き出した木の枝の隙間から、青い空が見える。白い雲が、ポツンポツンと浮かんでいた。今日は、最高の撮影日和だ。その時、自転車を押しながら、貴子が僕に訴えかけた。


「ねえ、お兄ちゃん。喉が渇いた~」


 家から四十分もかけて自転車を走らせてきた。喉が渇くのは、仕方がない。前方に、お店らしきものが見えた。


「そこのお店で、何か飲もうか?」


「うん」


 疲れた様子を見せていた貴子が、急に元気になった。足早に、自転車を押して行く。そんな貴子を見て、写真を撮りたくなった。背負っていたカバンを肩から下ろす。中からカメラを取り出した。喉が渇いた貴子が、そんな僕を見て唇を尖らせた。


「何しているの、お兄ちゃん。早く、早く!」


 僕は、カメラを構えて、そんな貴子の写真を撮る。


 パシャリ!


「んもー、写真はいいの。早く、こっちに来て!」


 貴子が怒っている。そんな貴子の表情を、更に写真に収めて、僕は自転車を押した。とても楽しい。今日は摂津峡まで足を延ばして、本当に良かった。出発するときは愚図っていた貴子も、今は楽しそうにしている。お店で冷えたラムネを購入して、貴子に手渡した。貴子が、ラムネのビー玉を押し込もうとしている。でも、なかなか押し込めない。僕は、手を差し出す。


「開けてやろうか?」


 貴子が、首を振った。


「自分でやる」


「大丈夫か? 何かに固定した方が、開けやすいよ」


 貴子は、傍にあるベンチに近寄った。ラムネの瓶をベンチに置いて、ビー玉を押し込もうとする。僕は、慌てて、カメラを握った。良い写真が撮れそうな気がしたからだ。貴子が、体重をかけた。ビー玉が押し込まれる。案の定、白い泡が噴き出した。驚いた貴子は、手をラムネで濡らしながら、ラムネの瓶に口付ける。ゆっくりとラムネを飲んだ。カメラを向けられていることを、十分に意識している。貴子は、既に一端のモデルだ。僕は、連続でシャッターを押した。ラムネを飲み切った貴子が、視線を僕に向ける。唇を濡らしながら、上目遣いに微笑んだ。カメラ越しに見える貴子は、もう小学生には見えなかった。媚を含んだその表情に、僕の心が惑わされる。


「ハンカチない? 手を拭きたい」


 僕は、カメラから手を離して、慌ててカバンを探る。中からタオルを取り出した。貴子に駆け寄る。ベンチに座っていた貴子が、僕を見上げながら、僕が差し出すタオルを受け取った。僕は、付き人のように貴子の横で立ち尽くす。貴子の様子を、じっと見つめた。貴子は、ラムネを購入したお店を見つめながら、手を拭いている。何か気になるものがあるのか、視線を変えない。貴子が、お店を見つめたまま、僕に問い掛けた。


「ねえ、お兄ちゃん」


「なに?」


「あのお店で、テディベアのキーホルダーがあったの」


「テディベアって、熊のやつ?」


「そう……欲しいな」


「いいよ。それくらい買ってあげるよ」


「やったー。お兄ちゃん大好き」


 媚を含んだ仕草が消えて、貴子は子供のように立ち上がった。お店に駆け寄っていく。僕は、ベンチに残されたラムネの瓶を拾い上げた。瓶に顔を寄せる。ラムネの甘い匂いがした。タオルも拾い上げて自転車に戻る。カバンの中からビニール袋を取り出した。ラムネの瓶をビニール袋に包む。その袋を、タオルと一緒にカバンの中に仕舞った。カメラを首にぶら下げながら、貴子の所に向かう。お店には、土産物屋によくあるキーホルダーが色々とぶら下げられていた。観光地らしい商売だ。その中に、テディベアのキーホルダーが混じっている。僕は、貴子を見て微笑んだ。


「貴子は、熊が好きだな~」


「熊じゃないよ、テディベア。だって、可愛いじゃない」


 貴子が目を輝かせて、選んでいた。首に巻かれているリボンの色が違うだけで、僕にはどれも同じに見える。


「どれでも一緒だろう?」


「そうなんだけど、違うの。ちょっと待っててね」


 僕は、カメラを手に取り、迷っている貴子の姿をカメラに収めることにする。貴子が僕を見て、少し笑った。恥ずかしがっているようにも見えたが、誘っているようにも見える。夢中になってシャッターを押した。シャッターの音に合わせるように、貴子が表情を変える。気が付くと、三十六枚撮りのフィルムを使い切っていた。そんな僕のことを、貴子が悪戯っぽく見つめる。


「もう、交換なの。まだ、始まったばかりよ」


 僕は、自嘲する。


「貴子が可愛いから、仕方がないんだよ」


 貴子は、悪戯っぽい表情のまま、僕を睨みつけた。テディベアのキーホルダーを差し出す。


「これにする」


「分かった」


 レジに持っていくために、そのキーホルダーを受け取ろうとすると、貴子は手を引っ込めた。


「包まなくていいから。あと、宜しく。私、先に行くからね」


 お店の人が、そんな無邪気な貴子を見て微笑んだ。キーホルダーを持ったまま、お店を出て行く。僕は、走り去ろうとする貴子に、呼びかけた。


「おい、貴子。自転車はどうするんだよ」


 貴子が振り返る。


「置いておく。その先に、川があるみたいよ」


 僕は、慌てて会計を済ませて、表に出た。二台の自転車を道路の隅に寄せて、貴子を追いかける。貴子は、崖の下にある川に向かっていた。摂津峡の景勝地が、崖の下に見える。人が下りれるように、なだらかな下り坂が続いていた。貴子に追いつくと、そこは谷底だった。川の中に大小さまざまな岩が転がっている。その間を、白波を立てながら、縫うようにして川が流れていた。その川底の真ん中に、ひと際大きな岩が鎮座している。その岩を指さして、貴子が呟いた。


「大きいね」


 僕は、貴子に近づきカメラを手にする。


「本当だね」


 貴子が、荒々しい谷底をバックに、両手を大きく広げた。胸が、空に向かって突き出され、身体が弓のように反り返る。太陽の光に照らされて、貴子が妖精のように浮かび上がった。僕は、夢中でシャッターを切る。角度を変え、構図を変え、美しい貴子を切り取っていった。


「気持ちが良い~、空気が美味しい~」


 貴子は、少し身構えると、飛んだ。岸から岩へ、飛び移ったのだ。僕は、カメラから目を離し、手を伸ばす。


「危ない! 川に落ちたら、どうするんだよ」


 川の中にある岩の上に立ちながら、貴子が振り返った。


「大丈夫よ。こう見えて、運動神経は良い方なんだから。こんなの、へっちゃらよ」


「でも、怪我してからでは遅いんだよ」


 また、貴子は飛んだ。谷底の中州に降り立つ。僕も、そんな貴子を追いかけて、岩を蹴っていく。貴子が大きな岩を見上げていた。


「本当に大きいね」


 岩に近づき、僕は手を高く伸ばした。


「本当だ。手を伸ばしても上に届かない」


 貴子が、その岩を回り込む。


「ねえ、ここから登れそうよ」


「ちょっと、危ないんじゃないかな?」


「大丈夫よ」


「でも、貴子、スカートだよ」


「お兄ちゃん、誰か来ないか、見張っていてよ。登ったら、直ぐに降りるから」


「えっ、やめようよ」


「いいの」


 貴子が、岩に足をかけた。岩を掴み、登り始める。僕は、仕方なしにカメラを手にした。真剣な面持ちで岩を登る貴子の表情を写真に収めた。僕の心配を他所に、貴子は器用に岩を登っていく。頂上に到着すると、ゆっくりと立ち上がった。


「高い~」


 貴子が、遠くを見つめた。僕は、レンズを望遠に調整して、貴子の恍惚とした表情をカメラに収める。何を見ているのだろう。穏やかな表情をしていた。その時、一陣の風が吹いた。貴子のスカートが、舞い上がる。


「キャッ!」


 貴子はスカートを押さえようとして、バランスを崩した。しゃがみ込んだ貴子が、滑り台を滑り降りるようにして、岩の上から滑ってくる。僕は、両手を伸ばして、貴子を助けようとした。貴子の身体が、僕に圧し掛かる。支えきることが出来ない。貴子を抱きしめるようにして、僕は中州に転がった。


 仰向けに倒れた僕は、腰を強かに打ち付けた。貴子が僕に覆いかぶさってきたので、後頭部も地面にぶつけた。痛みに堪えながら、目を開ける。貴子の胸が、僕の顔に押し付けられていた。育ち始めている貴子の胸のふくらみを頬に感じる。若くて甘い体臭が、僕の鼻孔を埋め尽くした。抱きしめたい衝動に駆られる。ファインダー越しではない、生身の貴子がそこに居た。


 しかし、貴子の様子がおかしかった。小刻みに、身体を震わせている。僕は、貴子の身体を横にずらして、上体を起こした。四つん這いになっている貴子に呼びかける。


「貴子、大丈夫か?」


 貴子が、四つん這いのまま顔を上げる。青ざめていた。


「膝を打ち付けたみたい」


 貴子がゆっくりと腰を下ろした。三角座りをしてから、足を斜めに崩す。白い足が折りたたまれた。膝を怪我している。僕と一緒に転がった時に、岩にぶつけたようだ。裂傷が出来て、赤い血が流れている。貴子が、顔を歪めた。僕は、貴子の肩に手を置いた。


「痛いか?」


 貴子が頷く。


「強く打ち付けて、足が動かない」


「血が出てる。どうしよう。ここでは手当が出来ないし……」


 流れている血をどうしようか。ここには、綺麗な水がない。傷口を洗うことが出来ない。まさか川の水を使うわけにはいかない。そんなことを考えながら僕は、貴子の顔を見た。


「ごめん」


 僕は、両膝をついて、貴子の膝に顔を寄せる。貴子の膝を手で固定した。白い膝から、貴子の赤い血が流れている。太陽の光に照らされて、まるで宝石のルビーの様に光っていた。口を近づけて、その赤い血を啜る。鉄の味がした。傷口に小さな砂が混じっている。口の中が、ジャリジャリした。


 ペッ!


 砂と一緒に、貴子の血を吐き出す。吐き出してから、もったいないと思った。もう一度、口を寄せる。傷口を舐めた。口の中に、貴子の赤い血が広がる。美味しいと思った。


 ゴクッ。


 貴子の血を飲み込んだ。同時に、僕の中からいきり立つ衝動が込み上げてくる。貴子が欲しい。傷口を綺麗にするために、いや、貴子を自分の中に取り込むために、更に舐めた。興奮のせいか、貴子の足を掴む指先に力が入った。貴子の白い肌に、僕の指がめり込む。そんな舐め続けている僕の頭を、貴子が押した。貴子の膝から、僕の口が離れる。


「もういい。大丈夫」


 貴子が、手をついて立ち上がろうとした。しかし、よろめいてしまう。そんな貴子を、支えようと手を伸ばした。貴子が、僕の手を振り払う。


「いい、大丈夫。もう、帰ろう」


 僕も、立ち上がる。


「大丈夫なのか?」


 貴子に近づくと、貴子は逃げるようにして、岸に向かった。しかし、岸にたどり着くには、岩を飛んで行かないといけない。僕は、恥ずかしがる貴子を支えて、岸に導いてあげた。貴子は、僕に支えられながら、ブルブルと震えている。岩から落ちたことが、よっぽど怖かったんだと、僕は思った。岸に到着してから、再度、貴子の膝を見た。まだ、血が出ている。貴子が、僕を見た。


「さっきのタオルを貸して」


 僕は、カバンからタオルを取り出す。僕が手当てをしようとすると、貴子に止められた。


「自分でするから、いい」


 岩に腰を下ろすと、貴子はタオルで傷口を拭こうとした。その拍子に、ポケットからテディベアのキーホルダーが落ちてしまう。貴子が、そのキーホルダーを拾った時、そのテディベアに貴子の赤い血が付いた。


「ヤダー! 汚れちゃった」


 貴子が、テディベアを持ち上げて、見つめる。


「しょうがないわね」


 テディベアをタオルで拭いた後、そのタオルで傷口を縛り付けた。僕を見る。


「帰ろう」


 貴子が歩き出した。貴子の後を追いかける。


「歩けるのか?」


 貴子は、振り向かない。


「大丈夫」


 貴子の横に並ぶ。


「手を貸そうか?」


 貴子は、前をむいたまま。


「大丈夫」


 足取りはしっかりしていた。大した怪我には、ならなかったようだ。しかし、自転車までの道程も、自転車に乗ってからの帰り道も、貴子はずっと黙っていた。話しかけても、ほとんど無視をされてしまう。貴子が、あの岩を登ると言った時、無理にでもやめさせるべきだった。あの時以来、貴子がモデルを引き受けてくれたことはない。あの事故さえ起きなければ……と後悔をしている。でも、貴子の赤い血の味は、今でも忘れられない。

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