33:いつか、二人で願ったこと。

「最後の三番目は、古い思い出をたしかめたかったからだ」


 俺は、自分の頬を軽く指先でかきながら言った。

 何だか気取った言い草で、照れ臭かったせいだ。


「この神社って、子供の頃に二人で『願掛け』した場所だろ。ここでおまえが見付かれば、少なくとも俺の記憶は間違ってなかったことになる……」


 そんなふうに答えてから、心の中では密かに付け足す。


 ――それに朱里が最近気落ちしていた原因も、おおむね見当が付くと思ったんだ。


 ちらりと横目で、隣に座る幼なじみの様子をうかがった。

 朱里は、尚も遠方の景観を見晴らしている。心情のとらえがたい面差しではあるが、瞳の中に濃い陰がのぞいている気がした。

 前方から吹き付ける高地特有の風が、鳶色がかった長い髪を揺らす。



 たっぷり一分近い沈黙のあと、朱里は再び口を開いた。


「年始の初詣はつもうで以外にも、この場所へ来たことがあるのは覚えてる?」


「……いつのことかは忘れたが、ここの展望は漠然と見覚えがある」


 正面に向き直り、眼下に広がる風景を見て答えた。

 ここからは陽乃丘の一帯が見渡せる。近くは田園地帯から、徐々に離れていくにつれ、遠くでにぎわう街並みまで……。


 さわやかな空の下に抱かれているのは、複雑に起伏した地形、そこを通る河川や道路、繁茂はんもする樹林や草花、色とりどりの建物の屋根などだ。

 清澄な鮮やかさが感じられ、まさしく「自然が芸術を模倣した」ような景観だった。


「陽乃丘小学校五年生の頃、年一回の写生会で来た場所よここは」


 朱里は、静かな口調で問題の解答を明かした。


「大柿谷動物園の写生会は小学二年の頃。私がキリンを題材に絵を描き、君がシロクマを描いて失敗した三年後、この神社にも校外授業で訪れているの」



 ――そうか、あのときの場所だったか。


 俺は、やっと当時の出来事を思い出し、得心した。


 小学五年の写生会。この小岩に腰掛けて、俺は水彩画を描いたのだ。

 高所から見下ろす陽乃丘の景色を、一心不乱に写生したように思う。


 小学二年の頃とは異なり、もうあの頃はゲームやアニメにハマった影響で、平時からイラストや漫画を描くようになっていた。だから技術的にも多少は成長し、シロクマを描いたときみたいな失敗は繰り返さずに済んだんだよな……。


「あの日の写生会、私はみんなと一緒に雨柳神社の参道脇で、拝殿の絵を描いていた。それが一番無難そうで、見栄えもいい題材に思えたから」


 朱里の声音には、かすかに笑いが混ざっている。

 それはなぜだか、少し寂しげなものに聞こえた。


「でも君一人だけは、他のクラスメイトと別行動して、ここから見える遠景を画用紙に描いていたのよね。神社の建物なんかおかまいなしで」


「……他の場所を描くやつらは沢山いただろ。差別化できなきゃ、面白味がない」


 俺は、動物園に行ったときと似たようなことを言っているな、と思った。

 それを聞いて、また朱里が弱々しく笑う。


「そうね、孔市はいつもそう。他の人がどうかは気にしない。だからみんなが同じものを一緒に見ているはずでも、君だけには違うものが見えていたりする。そんな君のことを、きっとバカにする人も多いでしょうけど――」


 そこでいったん、幼なじみの言葉が途切れた。

 傍らを振り返ると、朱里が俺の顔を見据えている。

 真剣な眼差しを向けられ、やや気後れを覚えた。


「あの写生会の日から、ずっと私はそれが君だけの特別な才能だと思っていたわ」


 朱里は、胸の奥の秘密を、そっと打ち明けるように続けた。



「だって君は、私の憧れで――私に私を失望させた張本人だもの」




     〇  〇  〇



 幼なじみの紘瀬朱里は、子供の頃から才色兼備の優等生だった。

 何かと要領が良くて、協調性も高く、明朗快活だ。俺より誕生日が三ヶ月半ほど早く、世話好きな性分も手伝って、小学校時代には少し姉ぶるようなこともあった。


 基本的には今も昔も、およそ鵜多川孔市と対照的な女の子だと言っていい。

 友達に恵まれ、勉強が得意で、容姿も可愛らしく、大抵のことは器用にこなす……。

 そう、ある時期までは絵を描くことでさえ、俺よりはるかに達者だった。


 そんな朱里にとって、かつて将来の夢は「漫画家」になることだった。

 きっかけは、アニメで出会った『ダブルでハピシェア』だ。原作漫画が連載されていた少女漫画雑誌を読み、幼少期の朱里は顔を輝かせた。


 ――いつか私も『ハピシェア』みたいな漫画を描くの! 


 当時、無地の自由帳に描いたイラストを、朱里は得意気に見せてくれたものだ。


 ただし小学二年の半ばを過ぎると、そうした絵を人前で見せることはなくなった。

 なぜなら、朱里は協調性が高く、空気が読める子だったからだ。

「いつまでも『ハピシェア』の絵を描いて喜んでいるなんて、子供っぽい」

 という言外の反応を、幼なじみは敏感に周囲から感じ取っていたのだろう。

 子供の頃の友達には、鐘羽東高校のリア充グループみたいな、他者のパーソナリティを尊重する気遣いがあるやつなんていなかった。



 だが俺は、あべこべに小学三、四年の頃から、本格的にオタクになっていった。

 人目なんて気にもせず、バカにされようと漫画やイラストを描きまくり続けた。


 この時期の俺を、どんな気持ちで朱里が見ていたかは判然としない。

 でも「互いに絵を描くことが好きで、似た夢を持つ者同士」だと認識してくれていたんじゃないかとは思う。


 何しろ、小学四年で迎えた元旦のこと。

 初詣に訪れた雨柳神社で、俺と朱里は密かに(友達はもちろんのこと、互いの両親にも内緒で!)二人で申し合わせ、願掛けしたのである――


【いつか二人で、漫画家になれますように】と。



 あの時点ではまだ、朱里も夢をあきらめていなかった。

 たとえ人前で『ハピシェア』の絵を見せるのが気恥ずかしくても、秘めたる熱意を抱き続けていたはずなのだ。少なくとも、俺と約束を交わすぐらいには。


 ……にもかかわらず、朱里は小学五年の写生会が終了したあと、ぱたりと絵を描くことを止めてしまう。


 もっとも代わりにいっそう、才色兼備にはみがきが掛かり、交友関係も広くなった。

 ますます俺が孤独になる一方、漫画家への道を突き進みはじめたのと裏腹に……。



     〇  〇  〇




「あのとき君が描いた水彩画は、県内移動展覧会で星藍ほしあい日報社賞を受賞した」


 朱里は、薄い笑みを浮かべて言った。

 穏やかだが、自嘲的な口調だった。


「たしかにそれに相応しい作品だと、私もあれを見たときに思ったわ。それに引き換え、私の絵は出品こそされたものの選外。小学校の先生からは褒めてもらえたけどね」


 星藍日報社賞は、県内の児童絵画コンクールを主催するローカル新聞社の賞だ。

 俺の絵は「神社を題材としながら、それを軽視した作品なのはいかがなものか」という批判があり、大賞や文部科学大臣賞は逃したと聞いている。

 その一方「純粋に完成度は評価すべき」「校内の写生会と移動展での審査基準は別物」などと推す声のおかげで、一定の結果を出すことができた。


「――そうして、私は漫画家になる夢をあきらめた。だってこんな身近にいて、私より絵を描きはじめたのが遅い男の子とさえ、ちっとも勝負にもならないんだもの。それに私は優等生にはなれても、君みたいな無二の何かにはなれないって気付いたから」


 伏し目がちな面持ちになって、朱里は続ける。


「けどね。こんな私でも、君の傍ではみじめな女の子ではいたくなかったの。だから自分にできることを頑張って、きらきらした何かであり続けたかった……」



 そのとき、周囲の景色がわずかにかげった。風に押されて、近くの空を厚い雲が横切ったせいだ。ひととき陽の光がさえぎられ、付近に淡い影を落とす。


「それも最近じゃ藤花さんを見てると、上手くいっていたと思えなくなったんだけどね。いっそ私なんかより、ずっとあの子の方がきらきらしていると感じるもの」


 朱里がつむぐ言葉はもはや、半ば独白めいていた。

 しゃべりながら、細い肩がかすかに震えている。


「でも私だって、知ってるわ。藤花さんから言われなくたって、孔市は努力家で凄い男の子なんだって。子供の頃から、私が一番近くで見てきたんだもん……!」


 朱里は、駄々っ子みたいに言ってから、にわかにうつむく。

 ちいさくはなをすすり、手の甲で目元をこしこしとこすった。

 ひと呼吸挟み、うんざりしたようになげく。


「……はあ、もうやだ。自分がキモい。こういうみっともないところ見せたくないから、しばらく君とは距離を置こうと思っていたのに……」



 俺は、少しのあいだ沈思して、朱里の様子を眺めていた。


 二人の画力に関して、ある時期から差が生じはじめたのには、いくつか原因がある。

 例えば、朱里が「友達も多く、空気の読める子」だったことも、そのひとつだろう。

 人付き合いが多くなれば、そのぶん絵を描くのに専念できる時間は減少する。周囲の空気を意識すれば、他人の価値観に迎合せざるを得なくなる。

 朱里は、子供の頃の目標を、いつの間にか協調性の生贄いけにえに捧げていたのだ。


 ……ただそうした幼なじみの性分を、才能の欠如と言えるかはわからない。

「漫画」という表現媒体は、簡単に創作者としての適性を断定できるほど単純なものではないからだ。朝から晩まで絵を描き続けている人間より、社交性の高い人間の方が面白いストーリーやキャラクターを生み出すことは充分にあり得る。


 むしろ俺自身にだって、プロになった今でさえ、自分に朱里が言うほど都合のいい才能があるのかは疑わしい。

 だから過去に夢をあきらめた件に関して、語れることはひとつしかなかった。


「たぶん朱里は――何のためらいもなく漫画家を目指そうとするには、生き方が器用で、少し頭も良すぎたんだろうな……」


 物思いから立ち返ると、俺は自分なりの考えを述べた。

 朱里は顔を上げ、少し虚をかれたような表情を浮かべる。


 俺は、ゆっくり呼気を吐きながら続けた。


「実は漫画やイラストを描くことってのは、案外上達しても見返りが少ない技術なんだ。きっと将来に対するコスパだけで考えたら、学校の勉強を頑張って、いい会社に就職した方が楽に金を稼げるようになれる」


 そう。漫画やイラストを描く行為は、割に合わない。

 器用で察しがいい人間なら、そこに直感的に気付くはずだ。

 そうして、費用対効果に見合わない努力は「損切り」し、もっと実のある目標を設定し直すだろう。リア充な優等生を目指すことは、合理的で間違っちゃいない。


「それでも俺が漫画を描き続けているのは、単に『好きだから』なんだ」


 俺は緩い所作で、かぶりを振ってみせた。


「たとえ非合理でも、周囲と迎合せずにぼっちのままで漫画を描くことが、俺にとっての自分らしさなんだと思う。他人には絶対勧めたりしないが」


 何が正しいと、言い切ることはできない。

 どうありたいかを決めるのは、結局自分自身なのだ。


 しかし同調圧力から逃れ、己の意思を貫くことは、現代じゃ社会関係資本のような便益を享受することとトレードオフの関係にある。無論可能なら、誰もが好きなことを好きにして生き、かつ支え合えるような世界が望ましいのだろうが。

 たぶん俺たちは残念ながら、まだそれができるほど豊かな時代に生きていない。

 いずれそうした世の到来を願いながら、手が届かずにいるんじゃないかと思う……。



 そんなふうに思うところを伝えると、朱里は少し不平そうに問い掛けてきた。


「それって、私は私なりに恵まれているから、ないものねだりするなってこと?」


「そうは言わない。優等生としての現状が気に食わないなら、別の自分を模索するのはおまえの自由だし。でも何かを手に入れようとしたら、何かを手放さなきゃいけないかもしれない」


 俺は、努めて淡々と答える。


「欲しいものをすべて手に入れるには、きっと青春は短すぎる」

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