11:お互い様の肌色イベント

 かくいう日々を過ごすうち、いよいよ五月も半ばに差し掛かった。


 商業連載の漫画原稿も、〆切日まではわずかな時間を残すばかり……。

 次の週明けには、編集部へ原稿データのファイルを送らねばならない。


 ゆえに今週末は原稿作業も佳境だった(※修羅場ともいう)。

 金曜日は学校から帰宅後、徹夜でトーン貼りなどの仕上げ作業が続く。

 翌日の土曜日もそのまま不眠で、日曜日の明け方まで机の前にかじり付いていた。


 どうにかこうにか最後のページまで描き上げ、あとは一両日中に細部を点検するだけ、というところまで来て――

 俺は、疲労と達成感とで脱力し、自室のベッドへ身体を投げ出した。


 そのあとは睡魔の来襲になすすべなく、あっという間に眠りに落ちた。




 ……やがて意識を取り戻す。


 頭の中に尚も居座る眠気を退け、重いまぶたをこじ開けた。

 窓辺にカーテンの隙間から射し込む、細い陽の光が見えた。


 ベッドに横たえていた上体を、ゆっくりと起こす。

 例によって棚の上を見て、目覚まし時計を確認した。

 現在時刻は午前一一時五七分。ほぼ正午である。


 ――結局、あれから昼まで爆睡していたのか。


 俺は、ベッドの上から下りると、カーテンを開けた。

 クローゼットへ歩み寄り、新しい部屋着を取り出す。

 それを小脇に抱えたまま、自室から出て階段を下りた。


 ひとまず浴室で、シャワーを浴びようと考えたのだ。

 身体を温水で洗えば、頭の中もすっきりするだろう。

 思い返せば金曜日から、原稿を描くのに必死だったせいで入浴していない。


 廊下を歩きながら、不意に「そう言えば今日の昼、たしか父親と母親は留守にするって言ってたな……」などと思い出した。

 藍ヶ崎市郊外にあるレストランで、ランチの予約を取っているのだとか。

 それで漫画を描き続ける息子は放置し、二人で出掛けているはずだった。

 まあ夫婦の仲が良好なのは悪いことじゃないし、〆切直前に同行しないかと誘われても困るから、不満などない。



 俺は、キッチンの脇をすり抜け、その先にあるドアを開けた。

 踏み込んだのは、洗面所を兼ねた脱衣所。ここの隣が浴室だ。

 まだ眠気で多少ぼんやりしたまま、脱衣所の中を眺めた。


 と、普段あるはずのないものが、目の前にあることに気付く。

 起き抜けのかすんだ視覚で認識したのは、透き通るような肌色だ。


 目を凝らすと、それがどうやら裸体の人物らしいとわかった。

 ほのかな湯気をまとった姿で、鳶色がかった長い髪もれている。

 視線を上から下へ移動させたところ、全身の起伏に富んだ輪郭シルエットが見て取れた。

 豊かに盛り上がった胸部、あべこべにくびれた腰部、柔らかそうな臀部でんぶ……。


 ――とんでもなく綺麗で、均整の取れた女の子の裸だ。


 そう思って顔を上げたら、まさに素肌をさらしている相手と、目が合った。


 見紛みまがうことなきその顔は、幼なじみの朱里である。

 隣家の住人たるはずの女の子が、なぜか目の前に全裸でたたずんでいる。

 俺は、すっかり呆気に取られてしまった。喉が詰まって、声が出ない。


 さながら数秒余り、世界のすべてが静止したかと思われた。



 だがそうして、身動みじろぎすることさえ忘れていると――

 朱里の若干かすれた声が、再び時間の流れを取り戻させた。


「……孔市、出て行って」


「お、おう。すまん……」


 俺は、退出をうながされ、やっと我に返った。

 あわてて脱衣所から出て、後ろ手にドアを閉める。


 今更のように左胸が早鐘を打ちはじめ、全身からは汗が噴き出してきた。

 頭の中は眠気が覚めたが、代わりに急な発熱を感じ、くらくらしている。


 ――あ、朱里のやつ、マジですげぇことになってたんだが!? 


 俺は、片手で自分の口をおおい、息を呑んでうつむいた。


 ――あれが噂の「G」なのか。


 子供の頃から一緒にいるけど、初めて生で見たな。

 くそっ、恐るべし二次性徴……! 



 ふらふらした足取りで通路を引き返すと、いったんキッチンへ戻る。

 冷蔵庫からペットボトル入りの飲料水を出し、コップに一杯注いだ。


 それを一気に飲み干してから、リビングまで移動する。

 ソファの上に腰を下ろし、天井を見上げた。


 しばらく待つと、朱里もリビングに姿を現した。

 今はスウェットの上下を着用に及んでいる。見覚えのある服だが、たぶん俺が部屋着に使っているものだ。何着かあるうちのひとつだろう。

 長い髪はストレートに下ろしていて、普段のハーフアップとやや雰囲気が異なる。一応ドライヤーは掛けたようだが、まだ水気を含んでほのかに濡れていた。


 朱里は、こちらへ静かに歩いてきて、ソファに差し向かいで腰掛ける。



 …………。


 ……気まずい……。


 俺も朱里も何も言わず、互いに相手から顔を背けている。


 とりあえず脳内では、いくつかの疑問が浮かんでいた。

 朱里はなぜ、こんな昼間に脱衣所で全裸だったのか。

 それにどうして、俺の部屋着を着ているのだろうか……? 


 いましがた裸を見た直後には、ついつい謝罪してしまったものの、冷静に考えてみると幾分怪しい状況だった。

 いや無論、朱里は鵜多川家の合鍵を所持している。だから勝手に家の中へ上がり込んでいること自体には、特に不思議はないのだが。



 あれこれ思案したあと、しかし俺は結局もう一度びておくことにした。

 事情はどうあれ、朱里が裸を見られて傷付いたんじゃないかと考えたからだ。


「えーっとだな……。いきなり脱衣所に踏み込んで、悪かった」


 ひとつ咳払せきばらいしてから、改めて頭を下げる。


「寝ぼけていて、ドア越しにおまえがいるってわからなかったんだよ」


「……はあ。別に謝らなくたっていいわよ、もう済んだことですもの」


 朱里は、深く溜め息を吐き、伏し目がちに返事した。

 謝罪は案外、あっさり受け入れられたみたいだった。

 ちょっと意外に感じていると、先を続ける。


「こんな時間から君の家で、勝手にシャワーを借りていた私も悪いし」


「ああ……。そのことなんだが、どうしてまた浴室を使ってたんだ?」


 まさしく不可解な部分だったので、詳しく訊かずにいられなかった。

 朱里は、目を横へ逸らしながら、恥ずかしそうに答える。


「お風呂掃除の最中、うっかり足を滑らせたのよ」


「……あん? 風呂掃除?」


 鸚鵡おうむ返しに重ねて訊いたら、朱里は目を合わせないまま首肯した。


「漫画原稿がもうすぐ〆切で、かれこれ二、三日入浴していないんでしょう。だから作業がひと区切りしたら、きっとお風呂に入りたくなるんじゃないかと思って――」


「それで、今日は昼間から風呂掃除していてくれたのか」


 あとを引き取って、事情を確認する。



 さらに話を詳しく聞いてみたところ――

 どうやら浴室を清掃していた際、朱里は不注意から転倒したらしい。

 幸い怪我はなかったが、尻餅付いたせいでスカートが水を吸ったという。


 しかも手に持っていたシャワーで、トップスの袖や腹部も濡れてしまったそうだ。

 それで掃除を済ませたあと、着ていた衣服は洗濯することにし、自分が真っ先に浴室を使わねばならなかったわけだな。

 でもってシャワーを浴び、脱衣所へ出たのだが……。


「そこで偶然、俺と鉢合わせたってことか」


「……着替えは君の服を借りたわ。乾燥機の近くに畳んで置いてあったから」


 朱里は、ちょっと不貞腐ふてくされたような口調で言った。


「ちなみにトップスとスカートは濡れたけど、下着は無事だったから。それで今も同じインナーを身に着けているからね私、念のため」


「いや別にそこまで報告してもらわなくてもいいんだが」


「言わなきゃ君、私の着ているスウェットの下がノーパンノーブラなんじゃないかって、絶対疑うでしょう」


 真摯しんしに返事したつもりだが、朱里は取り合わずに即答した。

 俺の変態性に対する、小ゆるぎもしない圧倒的信頼を感じる。

 まあぶっちゃけノーパンノーブラ期待してました。残念です。

 だがそれはそれとして、経緯を知ると居心地悪くなってきた。


「とにかくそうすると、やっぱ悪いことしたな」


 俺は、人差し指で頬をかきながら、三度みたび謝罪した。


「俺に気をつかって、風呂の用意をしていてくれたわけだろ? なのに恩をあだで返すようなことになっちまったというか……。いやマジですまんかった」


「う……。だから止めてよ、何度も殊勝に謝るの。お風呂掃除したことは孔市のおばさんにも話すし、そのときにまたお駄賃もらうつもりなんだから」


 朱里は、ちょっと照れ臭そうに言った。


「それと付け加えるなら、こないだ私も君の裸を見ちゃったし。おあいこってことで」


 なるほど。たしかについ先日は、逆の立場で事故があったな。

 あのとき俺は上半身だけで、朱里はさっき全裸だったから、その点は不公平(?)な気もしないではないが……。


 でも朱里は、そもそも自分の失敗で水に濡れて、勝手にうちの風呂場を使った結果だという見方もある。トータルで勘案したら、失点は五分五分だろうか。

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