10:私物設置作戦を展開中であります
やがて商業原稿のベタ塗りが全体の半分近く完了すると、室内で低くうなり続けていた掃除機も静かになった。床上の清掃が済んだらしい。
次いで背後からまた、朱里がばたばたと動き回っている気配を感じた。
相変わらず、ゴミの詰まった袋や掃除用具を持ち出したり、コーヒーを
と、せわしなく部屋を出入りしているみたいだった。
そうして、ほどなく朱里がこちらに声を掛けてきた。
「ねぇ孔市。折角だし君もこれ食べてみなさいよ」
コーヒーの注がれたカップと共に、机の上の空いた場所へ小皿が置かれる。
ほどよく表面に焼き色の付いたクッキーが、そこに一〇枚ほど乗せられていた。
形状の素朴な雰囲気で、明らかに手作りだとわかる。
「……これって、おまえが焼いたやつなのか?」
「いいえ、学校で知り合いの子からもらったものよ」
問い質すと、朱里はかぶりを振って答えた。
「今日の昼休みに私、学食で唯たちとご飯を食べてたでしょう? あのとき一緒に居た女の子の一人が、校内の課外活動で『お菓子研究会』に所属しているの」
お、お菓子研究会……?
調理部とは別物の組織なのだろうか。初めて聞いた部活動だ。
何だかうちの学校の中にも、よくわからん団体があるな。
とりあえず、俺もクッキーを一枚
甘さ控え目で、けっこう好みの味だった。
――そういや昨日食べたケーキも、もらいものだって言ってたっけ。
人脈豊富なリア充は、ケーキと言わずクッキーと言わず、頻繁に他者からの引き立てにあずかるのだなと感心する。
たしかそういう利得に恵まれた状態を、小難しい言葉で「社会関係資本が高い」なんて表現するんだよな。
幅広い人間関係も、世の中じゃ資産の一種ってわけだ。
……と、クッキーを
「おい朱里。おまえが使っているマグカップ、いったいどうしたんだ?」
幼なじみがコーヒーをすするところを見て、問い掛けずにいられなかった。
朱里が手にしているのは、淡いピンク色のマグカップだ。
初めて見る品……ではない、か?
今更ながら思い返してみると、最近ちらちら何度か見掛けた覚えはある。
だが元々我が家のキッチンにあったものとは思えない。
「ああ、これ? 私が自分の家から持ってきたものだけど」
朱里は、マグカップを口元で傾けながら、平時と変わらない口調で答えた。
「孔市の部屋に来ると、いつもコーヒー淹れるでしょう。そのたびに私のぶんも用意するとき、来客用のカップを借りるのは前々から気が引けていたの。だから普段使いしている自分のものを、この家のキッチンにも置かせてもらってるわけね」
「……へぇ。それはいつから?」
「えっと、先月末ぐらいからかしら」
ふ、ふーん。半月近くも前から持ち込んでいたのか……。
マジで今までそんなこと、まるで気付いちゃいなかった。
こいつが部屋にいるときも、漫画を描いている最中はずっと背を向けているからな。
ましてや作画中は原稿に集中しているし、ほとんど他の事物は視界に入っていない。
こりゃうっかりしとったわー、なんて考えていたら。
朱里は、そのあいだに部屋にある収納の脇から、クッションを引っ張り出してきた。
水色と白のドット柄で、真新しいクッションだ。これまた可愛らしいデザインの品。
しかし明らかに俺の所有物じゃない。
「……ひょっとして、それもおまえがここへ持ち込んだものなのか?」
「ん? そうだけど。鐘羽中央のホームセンターで先週買ってきたの」
あっけらかんと朱里は返事する。
ふ、ふーん。ホームセンターで先週ね……。
「それにしてもまた、なんでわざわざ買ってきたんだ? クッションだったら、この部屋にだってちゃんとあるだろ」
俺は、再び疑問を抱いてたずねてみた。
コーヒーカップは普段キッチンにあって、特別な客に茶を出す場合も使うが――
クッションなら常時この部屋にあるものだし、この子が頻繁に使用していても、大した気にする必要はないと思う。
それに対する回答は、幾分予想の斜め上を行くものだった。
「たしかにここにもクッションはあるわ、だから最初は買う気なかったんだけど――」
朱里は、不平そうに言いながら、クローゼット付近の床をすっと指差す。
そこには透明な袋で包装されている、薄紫色のクッションが置いてあった。
「あのパープルカラーの可愛いやつ。私が袋から出して使おうとしたら、君が物凄い剣幕で制止して、二度と触ろうとするなって言ったんじゃない」
「は? そんなの当然だろあれって『ホシガク』公式通販サイトで限定販売だった『近未久遠ちゃんおやすみクッション』なんだぞ予約者対象の完全受注生産グッズで二度と入手不可能な逸品だし保存用にもう一個確保しているとはいえ無駄に普段使いできるか」
早口で使用を禁じた理由を説明すると、朱里はこちらを半眼で
……なるほどクッションの新規購入に至った経緯は、明確になったようだな。
ていうか考えてみたら、この部屋にある他のクッションも何かの限定アニメグッズ的なやつのような気がするわ。普段使いするのは自分で買ったことなかった。
「まったく君って人は、どうしていつもそんな調子なんだか……」
朱里は、呆れたように溜め息吐いた。
自分で持ち込んだというクッションを足元に置き、ローテーブルの前に座る。
慣れた手つきでベッドサイドのひきだしを開けると、コースターを取り出した。
それをローテーブルに敷いてから、マグカップを上に乗せる。
細かい雑貨だけど、そのコースターも初めて見るな。
次いで、朱里は
朱里が手に取ったのは、ティーンズ女子向けのファッション誌みたいだった。
しかし間違いなく初めて見る表紙で、俺が購入した覚えはない。
ということは、これも朱里がこの部屋に持ち込んだやつか……?
…………。
「なあ朱里。ふと気になったんだが」
「んー、なあに孔市。どうしたの」
微妙な間を挟んでから名前を呼ぶと、朱里は気のない返事を寄越す。
ぽりぽりとクッキーをかじりながら、ファッション誌をめくっていた。
今日の掃除を済ませたこともあり、くつろぎモードに入っている。
俺は、気掛かりな発見について、思い切って訊いてみた。
「この部屋にあるもの、最近おまえの私物がけっこう増えてね……?」
朱里の耳が、ぴくりと動く。
雑誌のページから視線を外すと、ゆっくり顔を上げた。
まず俺の顔を見てから、室内を右、左と、順に見回す。
「い、いやいや……それほどでもないわよ……? たぶん、これぐらいなら」
朱里は、引き
どう好意的に聞いたところで、弁明じみた印象がぬぐえない言葉だった。
幼なじみとはいえ、異性の部屋にこれほど慣れ親しんでいるのはいかがなものか。
「まさかおまえ、そのうちこの部屋に住む気か……?」
思い浮かんだままの言葉を、つい発してしまった。そこに深い含意はない。
しかし朱里は、険しい表情で立ち上がり、憤然と抗議の声を上げる。
「――はああぁっ!? わっ私がここに!? 何言ってるの君!?」
「いやだって、これすでにけっこう実効支配はじまってるだろおまえの物で!!」
「そ、そんなわけないじゃない。こんな少し目を離しただけで汚れる部屋になんか、自分の私物をいくつも無闇に置いておけないわ!」
「いや少なくともそのクッションは、おまえが持ち込んだものなんだろ。たった今自分でそう言っていただろうが!」
「このクッションを置いていた場所は収納の物陰になっているおかげで、あまり汚れたりすることがないの! 私がいつも掃除機を掛けているから、
相手の反論に反論を重ね、いっそうやり取りが白熱する。
ほどなく朱里の私物に関する指摘は、現在ここにあるものに限らなくなり――
同時にまた、互いの黒歴史を掘り返すという、大きな危機を招くに至った。
「そう言えば思い出したけど、たしか洗面所には歯ブラシあったからなおまえの! あれ第三者が見たら絶対に誤解するやつだぞ何とかしろや!!」
「ああああれは幼稚園のときのじゃない!! お泊り会のあとも私がすぐには家に帰らないで、君と一緒に遊んでいたら眠くなっちゃって――それで、結局ここでお泊り会の延長戦みたいになって、そのとき歯磨きで使ったやつ――……」
…………。
……突然の沈黙が生じた。
室内には、魔界の
朱里の顔は、いまや熱で赤く染まり、汗の滴が頬を伝って流れていた。
一方で俺も、激しく
そこでさらに数秒の間を空けてから、仕方なく講和を申し入れた。
「も、もう止めておこうこの話は。なんかお互いにダメージがデカい……」
「き、君が先に変な話切り出してきたせいじゃない。一緒に住むとか……」
朱里は、尚も不満そうだったが、強いて口論を続けようとはしなかった。
仮に全面戦争へ突入すれば、どちらも勝敗にかかわらず、失うものが大きいと判断したからであろう。争いは醜く、悲しみしか生まない。
……この日はそれから、俺も朱里も言葉少なに過ごさざるを得なかった。
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