05:夜が更け、朝が来たら走る。

 朱里の作る夕飯が完成したのは、午後六時半頃だった。


 幼なじみが二階の部屋まで呼びに来たので、作業中の原稿ファイルを保存する。

 作業机の前から離れ、自室を出て階段を下りた。廊下の先でドアを開け、居室へ入る。

 鵜多川家は、リビングとダイニングキッチンが隣接した間取りなのだ。


 テーブルの上を見ると、出来立ての料理が皿に盛られて並んでいた。

 とりむね肉の照り焼きを中心とした、一汁いちじゅう三菜さんさい献立こんだてだ。


 尚、湯気を上げている料理は、二人前である。

 朱里がここで一緒に夕飯を食べていくのも、毎度のことだった。

 これに関しては一応、俺から要求して、こいつに付き合わせている。

 料理を作らせただけで追い返すのは、義理を欠いているような気がするからだ。

 もちろん余分に食材を消費するが、その点はうちの親も理解を示していた。


「さあ、冷めないうちに召し上がれ」


 二人でテーブルに着席すると、朱里は得意気に料理を勧めてきた。


「幼なじみ女子高生の手料理が食べられるという幸運にちゃんと感謝してね」


「いや何だよその、幼なじみだの女子高生だのってブランドアピールは……」


 俺は、自分のはしを手に取りつつ、ちょっと呆れてツッコミを入れた。

 あくまで幼なじみという立場に付加価値を主張する辺り、こいつも大概しつこい。

 かてて加えて、今回は女子高生の肩書きまで持ち出してきた。



 いったい何を考えているんだ……

 と思いつつ、一応「頂きます」と言ってから、夕飯に取り掛かる。


「権威に対する先入観ってバカにならないと思うのよ」


 朱里は、不出来な生徒を指導する教師みたいな口調で言った。


「三ツ星レストランのシェフが作る料理ですって聞くだけで、他の飲食店で提供しているものより美味しそうだと感じない?」


「幼なじみと女子高生のどこに三ツ星シェフ要素あるんだよ。料理関係ねーだろ」


「でも希少価値ありそうでしょ。女子高生って、女の子の一生で三年間しかないんだよ。異性で仲がいい幼なじみだってだけでも、けっこう珍しいと思うし」


「だからありがたがっておけって話か? ……まるで期間限定発売のスイーツに釣られろっていう話みたいなもんだなそりゃ」


 俺は、とりむね肉の照り焼きを口の中で咀嚼そしゃくしてから言った。


「あと権威に対する先入観ってのも、要するに漫画を選ぶときに『○○万部突破、空前の大ヒット作品!』みたいな文句に釣られて読むようなもんだろ? 正直くだらねー」


「どうして? それだけ売れてるなら、面白いって保証されてるようなもんでしょ」


「面白さなんて相対的なもんだ。誰かにとっての面白さは自分の感じる面白さじゃない」


「じゃあ孔市は、世間で売れてる漫画だからって理由じゃ読まないの?」


「……俺は仕事で漫画を描いてるから、自分の好みに関係なく、売れてる娯楽作品は極力内容をチェックするし、分析する。だが単なる趣味で漫画を読むだけなら、他人の評価を当てにするような姿勢は必ずしも健全だと思えない」


 味噌汁のわんを口元でかたむけ、ひと口のどへ流し込む。


「誰が何をどう言おうが、自分が面白そうと思ったものを手に取るべきだし、自分が好きなものを好きだと言うべきだ。いちいち他人に振り回されてどうする」


「えーっ……。けどそれじゃ、折角読んだ漫画の感想でみんなと盛り上がったりできないじゃない。それってさびしくない?」


「なんで他人と盛り上がること前提で漫画を読むんだ、そっちの方がおかしいだろ」


 例えば、さっき水着写真の話になった際、俺は「赤の他人のアイドル(Eカップ)より幼なじみ(Gカップ)の方が生っぽいエロさがある」と主張した。

 しかし客観的に考えれば、たとえGよりEがちいさかろうと、アイドルの方が世間的な知名度は高く、俺にとっての幼なじみである朱里よりファンの人数も多い。

「朱里に手料理を作ってもらう漫画家」より「アイドルと結婚した漫画家」をねたむ人間の方が多いであろう話も、同じことだ。


 だから見方を変えれば、俺は自分が好きなものに対して、仮に世界中で他の人間が一切興味を持たなかったとしても、俺さえ好きであればかまわないわけで――……

 ……いや、なんかこれは今言葉に出して説明すると、妙な誤解をまねきそうな話だな。

 このへんで深く考えるのは止めて、余計なことは黙っておこう。


 朱里は、茄子なすびたしを食べつつ、かぶりを振って嘆息した。


「孔市に友達できない理由が、何となく理解できたわ。本物のプロぼっちね君」


 俺は「……ほっとけ」と言って、白米を口の中へかき込む。



 その後はしばらく、二人共無駄口など叩かずに夕飯を食べた。


「ところで君、今描いてる原稿は予定通り〆切に間に合いそうなの?」


 やがて食事を済ませると、朱里は食器を片付けながら問い掛けてきた。


「まあ進捗はぼちぼちかな……。少し修正箇所もあるんで楽観はできないが」


 俺は、テーブル上に左手で頬杖を突きつつ、右手に持った湯飲みのお茶をすする。

 頭の中では、微妙にサイズ調整したおっぱいの輪郭を、ぼんやり思い描いていた。

 朱里は、眉をひそめて訓戒してくる。


「また原稿作業に入れ込んで、あまり夜更かししないようにしなさいよ。明日だって学校あるんだから」


 なんでうちの母ちゃんより母親みたいなこと言ってんだよおまえは。

 もしかしてバブみ属性アピールしてんの? 




     ○  ○  ○




 ……で、幼なじみに夜更かしを注意された翌朝。


 ベッドの上で寝転がったまま、首だけひねって棚に置かれた目覚まし時計を見る。

 長短二本の針は文字盤で、現在時刻が午前七時三六分であることを示していた。

 次の瞬間、さながら体操選手のごとき身のこなしで、寝床から跳ね起きる。


 ――おっと、どうやら今朝もやらかしたようだな。


 俺は、寝間着代わりのTシャツやショートパンツを脱ぎ捨てた。クローゼットを開け、学校の制服に素早く着替える。


 どうやら目覚まし時計は、アラームをセットし忘れていたようだ。

 就寝前に疲れて意識朦朧もうろうとしていると、よくある失敗だった。


 さて、俺が通う鐘羽東高等学校では、朝の始業時刻が午前八時三五分だ。

 最寄りの停留所から、高校の正門付近までは片道およそ三〇分の道のり。

 そうして普段登校時に利用しているバスの発車時刻は、午前七時四八分。


 ――大丈夫だ行ける、問題ない。


 机のひきだしから、適当に教科書とノートを取り出す。どうせ授業でまともに使う気はないから、どの教科のものかは大してこだわらない。

 そもそも本日の時間割で必要な教科書が、今この部屋のどこにあるかを探し出すだけの余裕はなかった。床の上には例によって、昨夜のうちに諸々の物品が散乱している。


 何冊か通学鞄の中に突っ込みながら、もういっぺん時計を見た。午前七時四〇分。

 部屋を出て一階に下りると、両親の姿は見当たらなかった。すでに二人共、出勤してしまったのだろう。

 洗面所へ駆け込み、速攻で洗顔と歯磨きを済ませる。

 それから玄関で靴をき、家から出て鍵を掛けた。


 スマートフォンを見て、三度時刻を確認した。午前七時四六分。

 通学鞄を脇に抱え、停留所を目指して猛然とダッシュする。

 紘瀬家の門前を通過し、あたう限り全速力で街路を駆けた。


 と、陽乃丘ひのおか二条一丁目の停留所が前方に見えてくる。

 バス停標識の前には、すでに胴長の車体が停車していた――

 午前七時四八分のバスだ。乗車口から、利用客が次々と乗り込んでいた。

 どうにか際どいタイミングで、俺も車内へ飛び込む。間に合った。



「……今日も朝から全力疾走なのね孔市」


 聞き慣れた声が俺の名前を、呆れたような口調で呼ぶ。


 車内を見回すと、朱里が一人掛けの座席に腰を下ろしていた。

 こいつもやっぱり、バスの同じ便を利用していたみたいだ。

 家が隣同士で同じ高校に通っているから、これも毎度恒例の状況だった。


 他の乗客のあいだをすり抜け、朱里が座る席のそばまで移動する。

 すぐ座席の横に立つと、朱里は俺の首元を見て眉根を寄せた。


「ネクタイめてないけど、どうしたの」


「締めてる余裕がなかっただけだ。持ってきている」


 ブレザージャケットのポケットへ手を突っ込み、学校指定のネクタイを取り出す。

 片手でワイシャツのえりへ通し、結ぼうとするが上手くいかない。もう片方の手は揺れる車内で手すりを握り、鞄を脇に挟んでいて使えないせいだ。


「ああもう、ちょっとこっちに身をかがめなさい」


 見るに見かねてか、朱里が俺の首回りへ手を伸ばしてきた。

 言われた通りに上体を屈めたら、幼なじみがネクタイをつかむ。

 座席に腰掛けたまま手を動かして、器用に結わえてしまった。


 俺は「おう、悪いな……」と礼を言いつつ、急にむずがゆい感覚に襲われた。

 よく考えてみると、女子が男子のネクタイを結ぶ、という行為が酷く限定的な関係性の二人にしかあり得ないことに思われたからだ。


 しかもここは通勤通学時のバス車内。思いっきり公の場である。

 周囲の様子をうかがうと、一部の乗客がこちらへ冷たい視線を向けていた。おそらく皆、ネクタイを締めるところを目撃していたに違いない。


 俺は、取りつくろうように咳払せきばらいしてみせた。


「……しかしラブコメでもあまりないぞ、人前でネクタイ締めるって。大丈夫かよ」


「止めて言わないで。今自分でも気が付いて、かなり後悔しているところだから」


 朱里はわずかにうつむき、耳まで真っ赤になっている。

 周囲の反応を見て、今更うかつさを呪っているらしい。

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