04:ラブコメと現実の区別は付けろ?
読者サービスページのペン入れが終わりに近付いた頃。
部屋の窓から射し込む陽の光も弱まり、そろそろ日没の時刻が迫りつつあった。
漫画制作アプリで画像の表示倍率を縮小し、いったん原稿の全体像を確認する。
液晶タブレット上に映し出されたページの出来栄えは、まずまず悪くない。
そこに描写されているのは、「ヒロインがベッドで寝返りを打つ」という場面だ。
薄手のパジャマが乱れ、襟ぐりからのぞく胸の谷間も、はだけて露わになった白い腹部も、我ながらよく描けている。素肌を伝う寝汗の表現なども、いいアクセントだ。
俺は、作業机の前で悦に入り、椅子に座った姿勢のままで腕組みした。
――うむ、やはりラブコメはいい……。
しみじみとそう思う。
可愛いヒロインキャラは、荒んだ心を潤わせてくれる。
そうしてお色気シーンでは、現実じゃ容易に巡り会うことのできない光景を、理想的なかたちで読み手の視覚へ届けるのだ。
誰もにひとときの夢を提供すること――
これぞラブコメの圧倒的ベネフィット(※消費者が商品から獲得する恩恵)!
――やはりラブコメはいい(二回目)。
でもこの漫画のヒロイン、身近にGのおっぱいがあると知っていたら、写真集で見たEじゃなく、最初からそっちを参考にして描きたかった。
今からでも描き直して、ちょっぴりおっぱい盛っておこうか。
商業連載の漫画だが、過去の原稿より多少変化してたって誰も気付かないだろう。万一怒られたりしたら、ヒロインが成長したということで……。
とか何とか、液タブの画面を眺めつつ考えていたら。
「――いつもこんなの描いてて、ホント孔市やらしーわね」
いつの間にか背後から、朱里が漫画原稿をのぞき込んでいた。
ぎょっとして振り返ろうとすると、俺の肩のすぐ隣に幼なじみの顔がある。
液タブの画面をつぶさに見るため、少しだけ身を屈めて立っているせいだ。
かすかに甘酸っぱい、
「ていうか寝返り打っただけで、こんなにパジャマの胸元はだけるのおかしくない?」
「……漫画の劇中では夏場だから、暑くてボタンをきちんと留めてなかったんだろ。それでちょっと乱れやすくなっていたとか……」
ほんの一瞬ほうけていたら、いきなり朱里が作中の描写に突っ掛かってきた。
適当な説明であしらおうとしたものの、他の箇所にも指摘を入れようとする。
「あとこの子、ロングヘアなのに寝るときケアしてないの? 緩めの三つ編みにするとか二つくくりのお下げにするとかした方が、髪が痛まないと思うんだけど」
「え、髪の長い女子って寝るときにそんなことするもんなの? ――いやでも、ロングの髪はシーツの上で広がる方が、絵に色気が出て構図も華やかになるんだよな……」
「そもそもパジャマの下からお腹が出てるのって、普通にだらしなくない? 見た目清楚キャラっぽいヒロインが寝相悪いのってどうなの」
「おい待て何言ってんだよ。サービスシーンなのにそこがめくれて見えてなきゃ、おへそも
無駄に現実的なツッコミが繰り出され続け、その都度反論せねばならなかった。
何しろラブコメ漫画は娯楽作品で、フィクションである。
内容にもよるが、事実に即して正しいかより、基本的には読者に喜ばれるかが重要だろう。
つまり、リアルでも夢がないヒロインより、世界に求められているのは確実にえっちで可愛いヒロインである!
少なくとも俺は「清楚で真面目でちょっぴり恥ずかしがりだけど実は案外えっちなことが嫌いじゃなくてむしろ大好きな相手とならちゅっちゅするのに夢中になっちゃうような性欲も
などと若干早口で力説したところ、朱里は冷ややかな半眼でこちらを見た。
「……ホントに君、キモさ突き抜けていて逆に感心するわね」
「い、いやこれはラブコメにおけるベネフィットの一例だろ? つまりコンシューマーのニーズにコミットしたソリューションというかだな……」
横文字を並べて言い訳してみたが、見事にガン無視された。
ひと昔前の意識高い系みたいな弁明は、お気に召さなかったみたいだ。
とはいえ幼なじみが直後に発した言葉は、意外に肯定的なものだった。
「でも君の絵が上手いことに関しては、素直に認めてあげる」
俺の座っている椅子の背もたれが、ぎしりとちいさな音を立てた。
朱里が作業机の側へと、殊更に身を乗り出したせいだ。小作りな顔を液タブに近付け、いっそう漫画の原稿をまじまじと見詰める。
そのぶん、また朱里と俺の顔も微妙に接近し、柑橘系の香りが強まった。
「そうそう普通はこんなふうに描けないって、前々から思ってるし」
「お、おう。まあ一応、これでも商業漫画家だからな……」
変なタイミングで持ち上げられ、俺は居心地悪さを覚えながら言った。
椅子の背もたれ越しでも、後方から柔らかくて弾力のあるもの――
要するにおっぱい(G)が、押し付けられているような気配を感じたせいだ。
いや無論、直接背中に当たっているわけじゃない。
当たっていないのだが、しかし朱里の姿勢からすると、椅子の背もたれ一枚挟んだ場所にGカップが存在しているのは自明の理でもある。
その事実を認識するだけでも、健全な思春期男子としては戸惑わざるを得ない。
だが朱里は、こっちの密かな
俺が描いている漫画の原稿を、尚もじっと眺めている。ひょっとしたら、ペン入れした線のタッチとか、細部の描き込みに至るまで。
焦げ茶色の瞳は、瞬きすらせず、複雑な感情の光をはらんでいるかに感じられた。
そうして二人のあいだにひととき、不思議な沈黙が生まれる。
思いのほか真剣に原稿を見ている朱里と、幼なじみの距離感にたじろぐ俺。
そのままおそらく、一分近い時間が経過しただろうか……
先に口を開いたのは、いつになく俺を当惑させていた幼なじみの方だ。
朱里は、不意に椅子から上体を離し、スマートフォンを取り出した。
「孔市のおばさんから、連絡が着てる」
手元のスマホへ視線を落とし、液晶をタップしながら言った。
どうやら、メッセージアプリに着信があったようだ。
「――<今夜も仕事が遅くなります。晩ご飯は自分で何とかするように、朱里ちゃんから孔市に言っておいてください>だって」
「またいつものパターンか……」
俺は、軽い脱力感を覚え、深く溜め息を吐いた。
うちの母親は「二つの条件」を満たす場合、しばしば朱里のスマホに連絡を入れる。
条件その一は、母親が仕事から帰るのが遅くなる日であること。
条件その二は、この部屋へ朱里が来ている日であること。
でもって「夕飯は自力で勝手に食べておけ」と(たった今こいつが読み上げた通り)、息子への伝言を隣家の一人娘に託すわけだ。
ちなみになぜそんな回りくどい方法を取っているかと言えば、俺はちょくちょく自分のスマホの着信に気付かないせいである。
いや、漫画を描くのに集中していると、原稿以外のことに意識が向かなくなっちゃうんだよな……。
朱里が今日ここへ来ていることは、おそらく母親は事前に知っていたのだろう。
なんかこいつ、うちの母ちゃんと謎のネットワークを共有していて怖いんだよな。
部屋の掃除を請け負って、駄賃までもらってるぐらいだし、おかしくはないのだが。
「それで、どうするの孔市?」
朱里は、おもむろに顔を上げると、問い掛けるように提案してきた。
「まだ少し時間もあるし、君さえ良ければ晩ご飯作ってあげよっか? 私が使ってもいい食材が冷蔵庫の中にあれば、だけどね」
これまたいつものパターンだ、と俺は心の中でつぶやく。
学業成績優秀で何事もそつなくこなす朱里だが、家事スキルの習熟は清掃のみならず、調理能力にまで及ぶ。
そんな技能を誇示するかのごとく、鵜多川家で俺の両親が不在の夜には、こいつが夕食調理の代行を持ち掛けてくることは少なくなかった。
もっとも当然、無償の奉仕なんかじゃないらしい。余計に労働した対価は駄賃に上乗せして、うちの母親に請求しているという。
「おー……。それじゃ折角だし頼むわ」
俺は、ちょっと思案したものの、幼なじみの申し出を頼ることにした。
「たぶん冷蔵庫の中身は、好きに使っていいはずだから」
こうなる展開も予見して、うちの母親は朱里にメッセージを送っているんだと思う。
「そこまで隣家の一人娘をあてにするのはどうなんだ」という気もするのだが、朱里当人が迷惑じゃないのなら、俺に断る理由もない。
ただ場合によっては、夜に担当編集氏と
なのでいつでも世話になれるわけじゃないのだが、今日はその予定もなかった。
「おっけー、じゃあ適当に何か作ってみる」
朱里は、手をひらひらと翻し、了承の意思を表して言った。
それから部屋の出入り口へ歩きかけ、いったん足を止める。
「それにしても、君って果報者ね。私みたいに身の回りの世話を焼いてくれる幼なじみがいるだなんて。ラブコメ漫画でよくあるでしょう、こういうの」
こちらをちらりと振り返って、朱里はからかうような笑みを向けてきた。
「ラブコメ漫画家に本物の幼なじみがいるって知れたら、きっと君の命を狙うやつが沢山出てくるわよ。試しにネットで暴露してみようかしら」
「バカ言え、現実にはマジでアイドルと結婚した漫画家だって実在するんだぞ。幼なじみを羨むやつがいそうな点は否定しないが、それを踏まえたら殺されてたまるか。ましてや有料サービスなんだろ、おまえのお節介は」
冗談めかした思い付きを、こちらも鼻で笑ってあしらってやる。
朱里は、つまらなそうに「なんだ、そうなの」と言って、部屋を出ていった。
すぐにそのあと、とんとんとん……という、階段を下る足音が聞こえてくる。
俺は、改めて液晶タブレットに向き合い、いそいそと漫画の原稿制作に戻った。
正直〆切まで余裕はないが、仕上げ作業へ入る前に修正したい箇所がある。
――やっぱこっそり、おっぱいはもう少し盛っておこう。
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