06:今に殿御が揉んで恰好ようしてくれるがな――『潮騒』より

 俺は、是非もなしと思いつつ、素朴な疑問を投げ掛けてみた。


「ていうか、なんで男子のネクタイの締め方を知ってるんだよおまえは」


「小学生の頃、パパが仕事に行く前に結んであげてた時期があったのよ」


 思い掛けない回答が返ってきた。朱里は、ますます恥ずかしそうにしている。

 俺とこいつは中高共に同じ学校で、いずれも女子制服は(高校がブレザーで中学はセーラー服という差異はあるものの)襟にリボンを結ぶデザインだ。

 それで妙だと思ったのだが、なんだその微笑ましいエピソードは。

 いささか虚をかれていると、にわかに朱里はけんのある口調で指弾してきた。


「それより今朝はなぜバスに乗り遅れそうになったの?」


「なぜって寝坊したからだな」


「昨日、夜更かししないようにって言ったわよね」


「残念ながらご希望には沿えなかったな」


「むしろ最初から言うこと聞く気なかったでしょ君……」


 率直に返事したのだが、朱里は露骨に批難するような目つきになった。

 その眼差しは「君がだらしない恰好でバスに乗り込んでこなければ、私が人前で男子のネクタイを結ばなくても済んだのに」とでも言いたげだ。


 とはいえ、いくら憤慨されても、俺は漫画家だし、漫画に〆切は付きものだし、期日の許す限り作品の質を上げたいのが人情で、だから夜更かしも避けられない。

 でもって深夜まで絵を描いて疲労する以上、目覚まし時計のアラームをセットし忘れるのも往々にしてあり得るミスで、そうした問題における健全な対処法というのは、ミスを許さない状況ではなく、ミスしても常にフォローし得る準備が成されている環境である。

 そう、とすれば、目覚まし時計しか寝坊を防ぐものがないのが悪い。


「……だったらおまえが毎朝、俺を部屋まで起こしにきてみるか?」


「幼なじみだからって、いったい何を要求してるのよ!? それこそラブコメの王道になるじゃない……。本当にその、漫画で汚染された頭の中をどうにかして」


 朱里は、うーっ……とうなって、こちらから顔を背ける。

 座席から車窓側を向き、バスの外を流れる景色へ視線を注いだ。

 まだかすかに頬は上気していて、不平そうに口元がゆがんでいる。


 ――どうやらまた、いらんことを言ってしまったようだ。


 これ以上やぶをつついて蛇を出す気になれず、俺はしばらく口をつぐむことにした。




 やがてバスは、鐘羽四条の停留所に到着した。

 ここから道なりに二〇〇メートルほど進めば、鐘羽東高校の正門前だ。

 他の乗客に交ざって下車し、歩道を新委住あらいずみ方面へ向かって歩き出す。


 朱里も少し遅れてバスから降りてきたが、いちいち待ったりしない。

 ここから先は俺が同行していると、あいつの邪魔になるからだ。


「――紘瀬さん、おはよう!」


 背後で誰かが、幼なじみに明るく挨拶する声が聞こえた。

 朱里も、おはようキドくん、などと返事している。

 キドというのはたしか、隣のクラスの男子生徒だっただろうか。

 漢字で書くと木戸、それとも岐土だったか? 


「オハヨーあかりーん!」


 また別の誰かが挨拶している。お次は女子生徒だ。

 これにも朱里は、おはようミーコ、とか何とか返していた。


 俺は、そのあいだにも一人でさっさと通学路を先へ行く。

 自分みたいな社会不適合者の存在が、幼なじみに声を掛けようとする連中のさまたげになってはいけない。


 何しろ、紘瀬朱里は才色兼備のリア充なのだ。

 明朗快活で可愛らしく、誰からも好かれ、友達が多い。元来世話好きな性分は、他者の好感を呼び、返報性の心理を抱かせ、それが広い交友関係に結び付いている。

 そうした立ち居振る舞いによって、スクールカーストで最上位に属していた。

 まあ俺の目には、面倒臭い人付き合いにかまけているようにしか見えないが。


 ――学校じゃ、朱里には近付かんようにしなきゃな。


 そそくさと鐘羽東高校の正門を潜り、正面玄関前へ進む。

 昇降口で上履うわばきにき替えたら、校舎北棟の階段を上った。

 俺が在籍する二年一組には、教室後方の引き戸を開けて入る。

 窓際の列で後ろから三番目の位置が、俺の机だ。


 先に登校していたクラスメイトのあいだをすり抜け、自分の座席に着いた。

 かたわらの窓から、何気なく屋外を見下ろす。ここからは学校敷地内の池や林、花壇などが視野に入った。空はよく晴れ、朝から景色を明るく照らしている……。



 ほどなく、朱里も教室へ入ってきた。

 窓の外を眺めていても気が付いたのは、ここでも他の級友が次々と幼なじみに声を掛けはじめたからだ。人気者は登場しただけで、場が華やぐ。


 そこへまた、誰にも増して元気な声が朱里の名前を呼んだ。


「ちぃーっすアカリさん、おはようございまーっす!!」


「……きゃああぁ!! ちょっとゆい、苦しいんだけど!」


 にわかに悲鳴が耳に届いて、反射的に振り返ってしまった。

 人気者の幼なじみは、見れば背後から女子生徒の一人に抱き付かれている。

 相手は両手を朱里の首に巻き付け、へらへら笑いながら身体を密着させていた。


 この女子生徒は、クラスメイトの春海はるみ唯だ。

 朱里と同じリア充グループに属し、教室内で周囲に強い影響力を持つ人間の一人。

 栗色の髪をセミロングの長さに切りそろえ、幾分制服を着崩した恰好かっこうが印象的だ。平時からざっくばらんな物腰と相まって、親しみやすさのかたまりみたいなやつである。


「はあはあアカリィ……! 今朝も甘くていい匂いするね……だ、大好きだよぉ……」


「いきなり初手からがないでよ!? ていうか離れてったら!」


「はあはあこんなに可愛いのに成績も良くてズルい……あたしに勉強教えてよぉ……」


「だから苦しいって唯……。ていうか何、勉強?」


「まずは現代文から三島みしま由紀夫ゆきお潮騒しおさい』の問題なんだけどね、作中に女の子のおっぱいはまれて大きくなるって書いてあるのはマル×バツか……」


「い、いやあ!? いったい何を――っあ、あ、ああん……っ!!」


 あらがう声に湿っぽい吐息が混ざる。

 春海の手のひらは、ブレザージャケットの上から朱里の胸部をまさぐっていた。

 嫌がる相手の身体を一〇秒余りもてあそんだのち、春海は感心したような面持ちで解放する。

 それから朱里に触れていた手を見詰め、何かをたしかめるように五本の指をうごめかした。


「むふーん、やっぱおっきいなあアカリのおっぱい。腰の辺りはメチャ細いのに」


「……朝から体力使わせないで。しかも本気で恥ずかしいから」


「ねぇアカリ。あたし、自分が女に生まれてきてこんなに幸せだと思ったことなんか他にないよ……。だってアカリのふわふわおっぱい揉んでも逮捕されずに済むんだもん」


「今の時代なら同性同士でも訴える余地あるからね普通に! セクハラ自覚して!」


 春海がいい笑顔で微笑むと、朱里は猛烈に抗議する。

 まあこれは批難したくなる気持ちもわからんではない。



 ただし朱里と春海を遠巻きに眺めていた男子数名は、今繰り広げられたスキンシップに特殊な関心を示していた。


「すげぇな……これがてえてえってやつか……!」

「おい、いくら払えばあの二人に交ざれるんだ?」

「ボクも読もうかな、三島由紀夫の『潮騒』……」


 …………。


 なんかCGアバターの動画配信者を見る目で眺めていたやつとか、ガチめな百合好きの怒りを買いそうな課金兵とか、変な動機で文学作品に目覚めたバカがいるな……。


 色々と問題アリアリな気がするが、今朝もみんな元気だけはあるみたいだ。

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