ライシャの逃亡と、謎の氷の魔法い
ライシャの恐怖が絞り出した心の悲鳴を聞いた者は誰もいない。
人よりも聴覚に優れているはずの猫耳の獣人、ルルーシェは同じくロディマスの威圧に萎縮してしまい、他の事に気を回す余裕はなかった。
ロディマスは武装警察を威嚇し、いざとなれば一触即発に持って行こうという腹だった。
なるべく威圧に晒す範囲を狭めたつもりだったが、ライシャには届いていた。
「はあ……とんでもない場に遭遇しちゃった……」
とばっちりと食わされたルルーシェが客間へと続く扉を開けたみたら、中はもぬけの殻だった。
「え? ライシャ様!」
しぼんでいた猫耳メイドのしっぽが再び膨れ上がる。
寝ているはずのライシャがいない。
ルルーシェの猫耳は微かな風音を聞きつける。
ベッドの向こうにある小さなテラスの入り口が開かれ、カーテンが春の風に揺れていた。
「何? どういうこと?」
「どうした、ルルーシェ?」
「ロディマス様! ライシャ様が!」
心を病んだ少女が卒倒しそうな殺意の込められた波動を受け止めたら、記憶のなかに刻まれて新しい恐怖から逃れようとするのは無理からぬことだった。
ルルーシェの叫びを聞いてロディマスがのっそりと室内に入ってくる。
二人してテラスから身を乗り出して周囲を探す。
ルルーシェの鼻はライシャの匂いを下に嗅ぎつけていた。
「あっ、あれ!」
「非常階段を伸ばして逃げたのか」
ロディマスの足元にある小さな昇降口を引き上げると、その下には階下のテラスに続く階段が降りていた。
「どうするんですか! ライシャ様、いなくなってしまいましたよ!」
「あー……まじかよ」
「どうするんですかー! あんな威圧なんて放つからっ……ライシャ様が可哀想じゃないですか!」
自分も同様にひどい目に遭ったことを思い出し、メイドはふーっと牙をむいてロディマスを責め立てた。
「いや、しかし。あの時は俺も危ない……」
「いいからさっさと探してください!」
「あ、ああ……」
彼女の剣幕に押されて炎術師はしどろもどろになる。
早く探しに行けとはいうが……階段は二階まで続いていてそこにはリジオの居るバーがあるわけで。
そんなに必死にならなくても、あいつは俺の殺気から多くを感じ取って動いているさ。
と、ロディマスは考えていた。
「じゃあ、行くか」
まあまあとルルーシェを落ち着かせながら、彼は巨体に似合わない俊敏さでテラスから階下へと身を投じる。
「ロディマス様……! こんな高さから降りられるなんて……凄いっ」
ためらいなく柵を越えた炎術師の姿を追ってルルーシェはテラスの柵に駆け寄った。
炎術師はひらりひらりと巨木の上から地面に落ちる枯れ葉のような軽やかさであっという間に二階へと到達する。
「いいなあ……私、できないもの。猫なのに……」
外見からは想像もつかないくらい、ルルーシェは獣人にしては不器用で身重だった。
高いところが苦手ということもあり、ここから飛び降りろと言われたらぞっとしない。
彼は行ってしまわれた。
残された自分に与えられた役割はきちんと戻るべき場所を守っておくこと。
ライシャが戻ったら温かいお茶でも淹れてあげようと考えて、ルルーシェはテラスから室内に戻り窓を閉じると、台所に向かった。
「なにっ! 保護してないだと?」
バーのある二階の階層に雄たけびに似た声が響き渡った。
もちろん、ロディマスの声だ。
びりびりと鼓膜を揺るがすその音量に、リジオは思わず手のひらで両耳を塞いでいた。
「あのなあ……僕をなんだと思っているんだ。ただでさえ手間な店内のあれこれを業者と打ち合わせしながらしているのに。やってきたのは不躾な武警の連中だ。あんたを出せと横暴ぶりには閉口したぞ」
「すまん。上にもやつらがきていてな。追い払うのについ、闘気を解放してしまった」
「知ってるよ。ここまで届いていた。近場のビルの住人たちはさぞ、驚いたことだろうな」
「ああ……それでライシャが逃げてしまった」
「逃げたんじゃない。避難したんだ。君があまりにも怖いから。可哀想に」
「……」
閉口したロディマスを目の前に、リジオははあ……、と大きなため息をつく。
「少女一人が上から下に移動したとして。普段なら気づくだろうけれど、あの連中の相手をしながらは難しいな。地上に落ちてはいないのかい?」
「いや、それは見当たらなかった」
一応、確認はしてみた。
四階から落下したとしたら大怪我では済まないだろう。
即時の緊急治療が必要となる。
そのときに役立つのはもちろん、この元神官の相棒の治癒魔法だ。
しかし、幸か不幸か。ライシャの姿かたちは上から見渡せる限りでは目につかない。
リジオは十二歳の少女が非常階段を降りたとして、どれくらいの時間、彼女から目を離していたのかが気になって問いかける。
「どれくらい目を離していたんだ」
「十数分……といったところか」
「あの殺気が襲ってきてからか?」
「それなら数分……十分は経ったかもしれん。逃げるには十分な時間だ」
「僕らのような経験者なら、だろ? まだ子供だぞ。探せば近場にいる可能性もある。ここにいていいのかい?」
君ならなにか手を打っているだろうけれど。
リジオはロディマスの返事を待った。
「炎と光の精霊を辺りに放っている。武警に見張られている可能性も大いにあるからな」
「もう少しそれ早くするべきだったね。そうしたらこんなことにもならなかったのに。それで成果は?」
「あーいや……」
「まあ、見つけているならこんな話にはならないか。足跡くらいは分かるだろ?」
ロディマスは微妙に言葉尻を濁した。
本当ならわかるはずのものが見つからず釈然としないそんな感じだった。
「なんだ? 魔法阻害する要素でもあるって言うのかい」
「彼女の行動の足跡が途中から掻き消えているんだ。まるで何か別のものに乗って移動した、そんな感じに見える」
見えるというのは精霊が感知したものをそのまま彼の視界に投影したそれを見たままに告げているのだろう。
可能性としてあるのは馬車か、この炎術師の目を欺けるような魔法の腕を持つ誰かが故意に阻害しているのか。
「さらわれた、と考えるのが一番正しいのかな」
「たぶんそうなるな。ルルーシェにしかられる……」
「ルルーシェ? あのメイドがどうかしたのかい」
ロディマスの脳裏には腰に手を当てて仁王立ちになりながら牙をむいてしかりつける、猫耳メイドの姿が浮かんだ。
いや、なんでもないと誤魔化すと二人は犯人は一体誰だ、と思案する。
「可能性としてあるのはやっぱり……武警か?」
「どうだろうな。出来る限りの痕跡を辿るように精霊たちには告げているが」
「彼らが戻ってきてからの話、か。無事でいてくれるといいんだが」
「ああ」
それから十数分後。
ロディマスの放った光と炎の精霊達が彼の元へと様々な情報を持ち帰ってきた。
残念なことに武装警察の馬車はあれからさっさと立ち去っていて、少女をさらう暇はなかったようだ。
周囲に不穏な魔法の動きはなかったかと観測もしてみたが、特にこれといったものは確認できなかった。
ただ一つ。
元氷の神官がそれなの情報を吟味してふと、呟いた言葉にロディマスの意識が向く。
「妙だな。この近辺で氷の精霊を率いている存在は僕くらいなもんなんだけど」
「どういうことだ?」
「強い反応が出ているのさ。上位の存在。僕が契約している氷の精霊と同等か……いや。それ以上の使い手がこの近くにいたのかもしれない」
「氷の精霊? バーレーンの民が多く参加している盗賊ギルドの中にならあり得る話じゃないのか」
それはないな、とリジオは首を振る。
彼以上の氷魔法の遣い手は確かにこのホテルの所属する、盗賊ギルドに在籍している。
しかし、そんなに都合よく彼らがこの場所に居るとは考えにくい。
それに残っている反応は盗賊ギルドに所属する冒険者が契約するにしては随分と綺麗なものだった。
より、聖なる属性があるといってもいい。
そんなものだ。
「これは……うーん。とりあえず追いかけてみようか」
「行こう」
心のどこかに思うものはあったが、それは今すぐに確認するのはちょっと難しい。
二人の冒険者は頷くと、リジオが起動した転移魔法でその場から姿を消した。
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