姫巫女はひそやかに潜入する

 ◇


 慣れない場所。

 慣れない街並み。

 慣れない人間関係。


「きついなあ……」


 外国と呼んでもいい環境から新しい新天地へ。

 言葉も文化も同じだけれど、暮らし方も価値観もいくばくかの違いがある。

 生まれ故郷での正義がここでもそうだとは限らない。


「来て早々、そんな言葉を出しては駄目よ」

「……エミーナ。身内の前で言うのもだめなの?」


 アデルが悩まし気にそう言うのも無理からぬことだった。


「だーめ。駄目よ。あなたは姫巫女様になるって決めたんだから。どこにいても神様は見ていらっしゃるわ」

「まるで神官のようなことを言うのね」


 傍らで薄く肌に張り付いた下着姿のエミーナがアデルの豊かな銀髪を湯で流しながら、そう諭してくる。

 いま二人は姫巫女専用の浴場で湯あみをしていた。

 エミーナは黒髪を頭の後ろでひっ詰めてまとめている。

 乳姉妹の彼女も一緒に浴槽に浸かればいいとアデルは誘ったのだが、それはやんわりと否定された。


「神官でなくてもこんな神の住まわれる城……大神殿に私たちは住まわせて頂いているのだもの。選んで頂いた主に失礼よ」

「……爺みたいなこと言うのだから」


 アデルは浴槽のなかに口元まで沈んでしまう。

 洗っていた髪がずるずるとその中に引き込まれていくから、エミーナは「こら」と小さく叱責する。


「まだ洗い終わってないの。お湯が汚れるでしょう? 貴重な水を汚してはだめよ。姫巫女様」

「どうせ、清浄魔法で明日も同じ水を使うわよ。空を往く天空都市バーレーンよりもこの王都の方が水に小うるさいなんて信じられない」

「バーレーンでろくすっぽ城におらず、いつも市中に遊びに出かけていた不良娘には天国のような環境でしょう? 与えられた地位と役割と責任と。あなたはいまこの王国で一番の贅沢を常にしている。そう思うべきじゃない? どんな時も、ね」


 はい、終わり。とエミーナはアデルの髪をタオルで覆い、まとめてやる。

 アデルは十六歳。この二歳年上の姉にはどうにも強気になれない。

 爺よりもある意味、厄介な相手がエミーナだった。


 とは言っても。

 バーレーンで城を抜け出す手助けをしたり、夜を過ごすための宿を提供してくれたのは彼女とその家族たちだった。

 頭が上がらない理由はそこにあった。


「ねえ、姉様」

「あら? そんな呼び方久しぶりね」


 懐かしい呼びかけにエミーナはアデルの肩にそっと手を載せた。

 浴槽は浴場の床よりも一段せりあがった場所にある。


 二人の目線はほぼ同じ場所にあった。


「今度はなにを悪いことを考えているの? またラボス様におしかりを受けるのは嫌よ?」

 そう言うが、アデルが振り返ってみたら姉は悪戯っぽく微笑んでいる。

「何をする気が……聞くの?」

「聞かなーい」

「ええ?」


 エミーナが見ているのはアデルではなく……彼女が浸かっている大浴場だった。

 大理石とレンガ建材により組まれたそこは太陽神のモチーフカラーである赤銅色と朱色に塗り分けれている。

 一部には高温に強いバルク材の合板が使われていて、それも朱色に塗られていた。


「広いわね?」

「そうだけど……」

「一人で入るには贅沢だって思わない?」

「はあ? 入りたいなら……自由に」

「ありがとう」


 一言礼を告げると、エミーナがするりとアデルの隣に腰を下ろした。

 湯舟が少しだけたゆたう。

 ちゃぷんと小波を首筋に受けてアデルは隣を見た。


「湯着くらい脱ぎなさいよ、姉様」

「エミーナ。いつもはそう呼ぶのに。どうしたの? また悪いことを考えているの? それとも昔みたいに甘えたいの?」

「……前の方。後ろは要らない」


 そう、とエミーナは言い久しぶりに全身を伸ばして沐浴するのだろう。のびのびと手足を伸ばしていた。

 まだ成長途中のアデルと違い、エミーナは線の細い身体つきをしている。

 その割に出るところは出ていて、体躯の豊満さはアデルの嫉妬するところだ。


 身長はほぼ同じ。声の質もそんなに高くもなく低くもない。

 本当の姉妹と言っても通じるほどだ。

 外観はエミーナが美しい。盗賊としての腕もそう。

 身のこなしもそう。頭の良さもそう。

 身分が無ければ、実力主義の盗賊の世界になれば、彼女は間違いなく人を惹きつけて導く存在になるだろう。


 アデルはそう思う。


 だがあいにくとどこの世界も男尊女卑だ。

 どこの世界も、どこも、だ。


「姫巫女は飾りだから。私には神の声も聞こえない。秘密だけど」

「知ってるわ。神託を受けた姫巫女がその主神の声も聞こえないなんて、前代未聞だもの。在位することの常識を疑われちゃうわ」

「でも、不思議じゃない? 前任のアイギス様は聞こえていたはずなのに、主の望まない聖戦に参加した」

「……? 望まれたからそうしたんじゃないの?」

「主が望んだなら今私がやってるような奴隷解放とかやらないわよ。戦いは誰も望んでない」

「それ、あなたの私的意見じゃないの、アデル」

「……」

「神の威を借る狐……まだまだ可愛い銀色の子ぎつねはいつか罰せられるかもしれないわよ」


 心配そうな顔で、しかしどこか飄々としてエミーナは忠告する。

 自分たちはバーレーンの民だ。

 いざとなれば、大公公女であるアデルの旗のもとに一丸となって戦うだろう。

 そんな覚悟がまだ十八歳のエミーナの中にも根付いていた。それは他の共にバーレーンからやってきた臣民たちも同じことで。


 強固な結束と指導者である盗賊大公フライへの絶大な信頼感、忠義の心が彼らを動かしている。

 様々な勢力が跳梁跋扈する王宮政治の舞台で、他の勢力からすればそれは巨大な脅威でもあり、ある種の憧れでもあった。


「みんなが困らないように。でも、みんなを傷つけることになるかもしれないけれど。だけど、私は自分の信念を曲げたくない。例え神がそれを拒絶してもこの地位にいる限り、やり遂げたい」

「神の御前で不遜だわ。でも嫌いじゃない。それで、何をしたいの? また抜け出る?」

「なんで?」

「心配なんでしょう? あの女の子。あなたが王都に入って初めてした決断だもの」

「見透かされてる」

「って……ラボス様がぼやいていたわ。もう御歳なんだから、あまり心労をかけてはだめよ」

「はい……」


 それなら手配をしないと。そう言い、エミーナはさっさと浴槽から出てしまった。

 アデルはその後ろ姿を見送ると、再び浴槽に深く浸かりなおす。


「あまり長く浸かっていたらローンみたいなアザラシになるわよ?」

「ええっ! それは嫌……」

「出て下さいな、姫巫女様。まだ御身体を清める作業もありますから」


 と言いながらエミーナは石鹸で泡立てたスポンジを押し付けてくる。 

 自分はあなたのやりたいことを手助けするから、あとは自分でやれ。そんな感じだった。

 アデルが浴槽から片手を出してそれを受け取ると、エミーナは「後はよろしく」と一言告げて浴場から退出する。


「後はよろしく?」

 何か含んだ物言いにアデルは首を傾げた。


「掃除もよろしく!」

「はあっ?」

 扉をうっすらと開けて任せたわよっ、と叫ぶ姉は本当に良い性格をしていた。

 跡に残されたアデルが裸のまま、ぶつくさと言いながらエミーナが伝えた通りの指示に従って床のタイルだの、洗い場の磨き上げだのをする羽目になった。




 必死に清掃をしていたら他の侍女たちがやってきて、悲鳴を上げた。

 アデルはしまったと顔をしかめる。


「姫様! 何をなさっているのですか!」

「はしたない!」


 子供の頃からアデルを知る中年の彼女たちは口々に自分たちの仕事を奪わないでください、と叫び、アデルの裸で清掃をしている無作法ぶりをしかっていた。


「だって、どうせ汗をかくし……」

「そういう問題ではありません!」


 さっと手にしていた床掃除用のブラシを奪われてしまう。

 そのまま、有無を言わさずに二度目の沐浴と丁寧過ぎるくらいに身体を清められ、髪を乾かすために温度を低くした熱魔法をぶっかけられて、どこか湯だったタコのようになったアデルが自室に戻るとエミーナが待っていた。


「あら、大変。顔が真っ赤だわ」

「……散々、怒られたわよ。お姉様たちに」

「それは可哀想。はい、これ」

「……なに?」


 見ると二枚の書類と鍵が一つ。

 どこかの家の玄関の鍵のようだった。


「現地で雇った者たちのために貸し与える寮を手配していたところなの。ちょうど、一室だけいいところがあったから」

 そこにいきなさい、とエミーナが渡したのは王都の一角にある、とあるアパートの鍵だった。


「ラーゲル通り128番地?」

「例の。あなたが託した女の子を預かった炎術師の住まうホテルの近くよ」

「どうしてそれを」

「あら。ラボス様とはいろいろと姫様の問題を相談する仲だったの知らない?」

「知らない……」


 なにもかも見透かされているようでアデルは面白くない。

 結局、自分が好き勝手するにも周りの掌の上で転がされている感じが嫌だった。


 唇を尖らせていつものように男装に近いズボンにシャツ、ジャケットを着込んで目立つ銀髪は黒いショールで巻き上げる。

 ところどころに黒と銀色の二層のコントラストが見え隠れしていて、なかなか素晴らしい容姿だった。


「ここまで用意は致しましたわ。でも、出ている間の代理はどうなさるおつもりですか、姫巫女様?」

「あー……それはほら」


 アデルは意地悪そうな笑みを浮かべ、エミーナがいるじゃないと乳姉妹を指さしたのだった。

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