1-6 足跡を残さず逃走せよ

「ああ、そうでした。問題点をようやく理解しました」

「のんきなことを言ってくれる。改めて聞きますけどね、検験に誤りはなかったと言えるのかどうか、はっきりしてもらいましょうか」

 セキ・ジョンリの怒気を含んだ詰問に、ホァユウは両手を肩の高さに上げた。

「私は、絶対に間違いを犯さないと言うほど、傲慢でも愚かでもありません。私の知らない要素が働いているかもしれないからです。ただし、今回の火災現場で見付かったお二人の死の時刻については、大きくずれることはないと断言しましょう」

「大きくずれることはない、とは、どう受け取ればいい? 小さくならずれて、雨の降っている間に二人が殺された可能性はあるのか」

「残念ながらありません」

「くそっ、やっぱりそうか」

 吐き捨ててから、セキ・ジョンリはホァユウの視線に気が付いたようだ。目を合わせ、「な、何だよ」と怪訝がる。

「今、『やっぱりそうか』と聞こえたような?」

 ホァユウの指摘に、この厳つい顔をした捕吏はばつが悪そうに頭を掻いた。

「そうだよ。自分はあんた、いや先生の腕前を認めている。そして、滅多なことでは失敗しないと知っている。だけど、殺しの行われた家の周りに足跡がなかったなんて、そんな馬鹿なことはあり得ない。だからつい、検験の結果を疑ったんだ。悪かった」

 そして頭を深く垂れる。

「いえいえ、全然気にしていませんから、そちらも気になさらずに。それよりも足跡問題を考えていたのですが、たとえば火消しの最中に、水をどんどん掛けていったせいで、元々あった足跡が消えてしまった、なんてことは考えられないでしょうか」

「なさそうなんだ、それは」

 ト小理官が答える。

「足跡がなかったと証言した者達は皆、消火の作業にも参加していたんだが、いずれもちゃんとその目で確かめたと言っている」

「はあ、だめですか。いや、まだ捨てるには早い。犯人が殺しのあと、家から逃走する際に、水を撒いて足跡を分からなくし、泥の地面を均したというのはどうでしょう?」

「それは一つの妙案だ……と言いたいところだが、それくらいなら我らも考え済みだ。水を使うほかに、木の板や箒を用いる場合も検討してみたが、いずれにせよ雨上がりの自然な具合に仕上げるのは、なかなか至難の業であるというのが結論だな。しかも、月明かりすらない夜に」

「そうか、近所の目を気にしながらになるから、下手に明かりを灯す訳にもいかないと」

「他に何か浮かばないか」

「いやあ、難しいですね。すぐには答が見付かりそうにない」

 首をゆるゆると左右に振ったところへ、マー・ズールイが書庫から戻ってきた。扉を開けるなり、「あれれ、小理官と捕吏のお二人がお揃いって、何事かあったんですか」と好奇心と緊張を溶け合わせた風な表情をなしている。

「ああ、ご苦労さん。資料は適当に置いていいから、話を聞いてみるといい。そして若い君の考えを披露してもらうとしましょう」

 ホァユウのにっこりとした笑顔とは対照的に、役人二人はやや渋い顔になった。

「こんな子供に意見を聞くのはどうかと」

「まあまあ。思いも寄らない案を出してくるかもしれないですよ」

 そうしてしばらくの間、新たに分かったことの説明が再び行われた。聞き終えたズールイは、足跡がなかった件について案出したことがあるらしく、「思い付くまま言っても?」と師匠に許可を求めた。

「かまわない。検屍とは全然畑違いのことなんだから、自由奔放、間違おうがどうなろうが気兼ねなく言いなさい」

「では……。犯人は大変跳躍に長けており、事件のあった家の敷地を飛び越えて道まで辿り着いた」

「無茶苦茶だ。あの現場に出向いたおまえなら知っておるだろう。とてもじゃないが、鳥人でもない限り、道までは届かん」

 ト・チョウジュは呆れつつも、なるべく穏やかに否定した。

「ですが、屋根に上がって、そこから跳んだとしたら、もしかすると届くかも。火を放つ前なら、屋根はありますからね」

「……いや、やっぱり無理だな。あそこは平屋だった。三階建てくらいだったとしても、屋根から跳躍して道まで届くかどうか。仮に高所から跳んで届いたとしたって、今度は足腰が立たなくなっているだろうさ」

「うーん、そうかぁ……じゃ、こんなのはどう?」

 言いながら、両手で大きな四角を宙に描くズールイ。

「運び込まれた氷って、このくらいはあるでしょ? 上に乗って、雪車そり代わりにして、道まですーっと滑っていく。こうしたら跡は残らないかもしれない」

「面白い。さすが若いだけあって、頭が柔らかいな」

 ト・チョウジュが本当に感心した様子で、首をしきりに縦に振った。

「だけど、氷で滑ると言っても、限度があるわな。あの家から道へは平らか、わずかではあるが上りになっていたと記憶している」

「だめですか……だったら」

「まだあるのか」

「はい、また氷を使います。氷塊を何枚かの板の形にして切り出して、家から道まで並べる。ちょうど踏み石みたいに。その上を歩いて行けば足跡は残らないし、氷が溶けてしまえば証拠は消える」

「さらに面白いな。だがなあ、人ひとりが乗って割れない程度の氷って、厚さはいかほどだ?」

 この疑問にはホァユウが感覚で答える。

「体格にもよりけりなのは言うまでもありませんが、親指の長さくらいの厚みは欲しいでしょうね」

「八貫目の氷をその厚さで切り出せば、何枚取れるのか計算をしてみなくちゃ何とも言えん」

「いや、計算しなくても、あまり現実的でないとする理由は言えますよ」


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