イチャつきたい欲――2

「疲れた……」


 図書室のカウンターで、いつぞや流行はやったパンダのキャラクターみたいに、俺は垂れていた。


 クラスメイトに尋問されそうになりながらもなんとか逃走し、階段の裏で早食いチャレンジが如きスピードで弁当をかき込んで証拠隠滅しょうこいんめつしてきたんだ。ちょっとくらいだらしなくてもいいだろ? それくらいの優しさ、求めたってバチは当たらないだろ?


 ぐでー、としたまま、俺はひとりごちる。


「今日ほど図書委員であることを感謝した日はないな」


 逃走の一助いちじょになったのが、『俺が図書委員だったこと』と『俺が今日の当番だったこと』だ。


 図書委員会の仕事のひとつに、『本の貸出かしだし・返却の受付うけつけ』がある。その日が当番の図書委員は、休み時間に図書室のカウンターで仕事しなければいけないんだ。


 そのため、


「いっけね! 今日、俺、当番の日だったわ!」


 の一言でクラスメイトの足を止め、一瞬のすきを突いての全力ダッシュで逃走に成功した。


 委員会決めの際にジャンケンに負けてよかったと、心から思う。


 俺が遠い目をしていると、隣の椅子が静かに引かれた。


 俺と同じ、今日が当番の図書委員が来たのかと顔を上げ――俺はポカンとしてしまう。


 アルカイックスマイルを浮かべた玲那が、隣にいたからだ。


「は、はあっ!?」


 驚きのあまり立ち上がってしまった。俺が座っていた椅子いすが倒れ、ガタンッ! と派手な音を立てる。


「な、なんで玲那が……!?」

「兄さん、図書室では静かにしないといけませんよ?」


 目を細めた玲那が、唇に人差し指を当てる。


 図書室にいる生徒たちが一様いちようにこちらを見ていた。怪訝けげんそうな視線、とがめるような視線、興味深そうな視線。


 俺はばつの悪さを感じながら椅子を戻す。「すんません」と頭を下げ、しずしずと席に座った。


 集まっていた視線が散っていく。それを確認してから、ピシッと背筋を伸ばしている玲那に、俺は小声で尋ねた。


(で? なんでここにいるんだ?)

(わたしは兄さんと同じ図書委員じゃないですか。おかしくもなんともありません)

(たしかにそうだけど、今日は当番じゃないはずだぞ?)

(今日が当番のかたにお願いして、代わっていただいたのですよ)


 行儀ぎょうぎのいい姿勢のまま、玲那が微笑みを濃くした。


 受付の仕事は退屈だ。おまけに休み時間の大半が削れる。このんでやる者は多くない。「代わってください」と頼まれたら、ほとんどが喜んで譲るだろう。


 頼んだひとが玲那であるのならなおさらだ。学校一の有名人『深窓の令嬢』からの頼み事とあれば、『断る』という選択肢はまずない。


 玲那がここにいる理由はわかった。だが、ひとつわからないことがある。


(学校ではなるべく関わらないようにするルールだろ? 今日は俺が当番の日ってわかってただろ? なんでわざわざ代わってもらったんだよ?)


 当番を代われば、玲那は必然的に、俺と一緒に受付をすることになる。これはルールに反する行為だ。ルールを決めた玲那が、なぜ自分からルールを破る真似をしたのか?


 俺がいぶかしんでいると、玲那が頬をかすかに赤らめ、少し恥ずかしそうに告げた。


(その……お兄ちゃんのそばにいたかったので……)


『深窓の令嬢』の仮面はがれていた。の玲那の、それもとんでもなくいじらしい表情に、俺の胸がキューッと締め付けられる。


 俺の妻が健気けなげ可愛い……!!


 玲那につられるように顔が熱くなり、両手で覆った。


 誰も見てないだろうな? 誰も聞いてないだろうな? いま俺たち、完全にイチャついてたぞ。


(い、家に帰れば、いくらでもそばにいられるだろ)

(学校にいるあいだは別々じゃないですか。それも、他人みたいに、よそよそしくしないといけませんし……)

(けど、俺たちの関係がバレる危険がだな……)

(わたしもわかっています。でも、しょうがないじゃないですか。寂しかったんですから)


 玲那がうるんだ瞳で俺を見つめた。


 おいおいおい。玲那、お前、俺を殺すつもりか? りにきてるのか? もだにしそうだぞ、俺。


 しおらしすぎる玲那の発言に、俺の体温は上昇の一途いっとをたどっている。心臓に至っては爆発しそうなくらい荒れ狂っていた。


 いままでこんなことはなかった。学校で、玲那が必要以上に俺と関わることはなかった。


 玲那が俺のそばにいたがるようになった原因は、おそらく――


 ――結婚してたがが外れたんだろうなあ。


 プロポーズの日、玲那はこう言った。




 ――いままで我慢してきた分もふくめて、いっぱいいっぱいい~~~~っぱいイチャイチャしましょうね、お兄ちゃん!




 とてもそうには思えないが、結婚前、玲那は俺とのスキンシップをセーブしていたらしい。とてもそうには思えないが。


 今日、当番を代わってもらってまで俺のそばに来たのは、スキンシップをセーブしていた反動なのだろう。


 玲那の『イチャつきたい欲』が絶賛大増加中ぜっさんだいぞうかちゅうなんだ。


(だったら、弁当にハートマークを描いた理由は――)

(お兄ちゃんはわたしのものですと主張したかったので)

(やっぱりか……)


 はぁ……と深い溜息をつく俺に、不安そうに指をモジモジさせながら、玲那が上目づかいを向けてくる。


(ダメ、でしたか?)


 そんな可愛い顔されたら怒れるわけないでしょうよぉおおおおおおおおおおおお!!


 俺の妻は魔性ましょうらしい。


 愛しさのあまりプルプル震えながら、俺は天をあおいだ。


「あ、あの! この本を借りたいのですが……!」


 身悶みもだえていると、不意に声をかけられて俺はビクッとした。どうやら誰かが本を借りにきたようだ。


「はい、構いませんよ。こちらの用紙に必要事項を記入していただけますか?」


 またたに玲那が仮面を被り、対応をはじめる。


 本を借りにきた一年の(南陵高校のネクタイは学年で色が違うため、そこで判断)女子生徒は、カチコチに緊張していた。


『深窓の令嬢』を前にしているんだから仕方ない。入学から間もないことだ。こんな美人がいるなんて想像もしなかっただろうしな。


「――――いってぇっ!?」


 微笑ましい気持ちで女子生徒を眺めていると、突如とつじょとして左腿ひだりももに痛みが走り、俺は跳ね上がった。


 用紙に必要事項を記入していた女子生徒も目を丸くしている。


「どうしたんですか!?」

「な、なんでもないなんでもない!」


 慌てて手を横に振ると、「はあ」と、いまいち納得していないような表情で、女子生徒が再び用紙に目を落とした。


 俺は胸を撫で下ろし、隣の玲那を半眼でにらむ。先ほど腿に走った痛みが、玲那がつねったせいだったからだ。


 玲那はわずかに頬を膨らませていた。推測だが、俺が女子生徒を眺めていることにヤキモチを焼いたのだろう。


 ビックリするからやめろよな。俺は玲那しか見てないんだから心配いらないって――恥ずかしいから言わないけどさ。


 はあ、と溜息をつくと、先ほどつねっていた場所を玲那が指でつついてきた。


 ススス、と走る指。腿に描かれるハートマーク。俺の頬が熱を帯びる。


 だからやめろって! くすぐったいだろ! 恥ずかしいだろ! ニヤけちゃうだろ!


 イタズラを止めるために俺は玲那の右手を左手でつかもうとして――ヒョイ、と避けられてしまった。


 追いかけようとした俺の手が、逆に捕まえられる。あれよあれよという間に指を絡められ、見事に恋人繋ぎが完成。


 俺の顔がますます熱くなる。


「か、書き終わりました!」

「ありがとうございます。返却期限を過ぎないように気をつけてくださいね?」


 一方の玲那は涼しげな顔で女子生徒に対応していた。仮面を被り慣れているからだろう。俺はこんなに照れまくっているのに卑怯ひきょうだ。


 ペコリと会釈えしゃくする女子生徒を見送ったあと、俺はがっくりと首を垂らす。


 俺、挙動不審きょどうふしんだったよな……絶対に変なひとだと思われただろうなあ。


 うなだれる俺の耳に、玲那が唇を寄せてきた。


「秘密の関係ってドキドキしますね」

「~~~~~~~~っ!!」


 完全にノックアウト。羞恥しゅうちと興奮と歓喜かんきのカクテルが、俺の脳をシュワシュワさせる。


 おそらく、多分、いや、きっと。これから玲那は学校でもグイグイくるだろう。


 おそらく、多分、いや、きっと。玲那にベタ惚れな俺はグイグイこられても拒めないだろう。


 ああ……これから大変そうだなあ……。


 今後の苦労を考え、俺は溜息とともに肩を落とした。

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