ただいま

「…あの、こんにちは……」

「あ、こんにちは……」

 ベリザルトン夫妻の下に引き取られたイリオは、そこで、マリーベルと同じくらいの年齢と思しき少女と顔を合わせ、ぎこちないながらも挨拶を交わしていた。両親から犬小屋に住まわされ、美容整形を受けることを強要されていたことで被虐待児童と見做されて保護され、マリアンを通じて夫妻に保護されたキリアだった。

 二人は、お互いに、一目見て自分と似た感じの子供だと察していた。とは言え、両親からの虐待の影響もあってか、人と話すのはどちらも得意ではなかった。

 そんな二人の間に入って、ベリザルトン夫妻は優しく間を取り持ってくれた。

「まだ会ったばかりだからね。そうやって挨拶を交わせるだけでも立派だよ。お互いに無理をせず、ゆっくりと慣れていけばいい」

 そう言ってもらえると少し気が楽になった。

 暖かい部屋の中で、テーブルに美味しそうな料理が並ぶのを見て、イリオはごくりと喉を鳴らした。マリーベルが作ってくれる素朴で豪快な料理も美味しかったが、それとはまた違うものがそこからは感じられた。<余裕のある温かさ>とでも言えばいいのだろうか。

 マリーベルの作るそれは、確かに火を通し手が加えられていて、最低限は料理のていをとってはいるものの、やはりあくまでの命を永らえる為のものであって、それはそれで美味いものの、どうしてもゆっくりと味わう部類のものではなかっただろう、シルフィを救った時も、それまでシルフィが食べていたものがまったく料理と呼べないものだったから心に沁みただけというのも確かにある。

「どうぞ、好きなだけ食べていいのよ」

 優しい笑顔でそう勧めてくれる夫人に遠慮しながらも、イリオは目の前の美味しそうな料理に我慢ができず、むしゃぶりつくように食べ始めた。普段は大人しい彼だけれど、その辺りはやはり男の子ということだろうか。

 その隣で、先に夫妻に引き取られて既にここでの生活に慣れ始めていたキリアは、落ち着いて食事ができていた。

 その光景は、知らない人間が見れば普通に家族の団欒に見えただろう。

 するとそこに、電話の着信音が響く。ベリザルトンがそれを取ると、相手はベルカであった。

「お父さん、ごめん。急な話だけど、また会わせたい人がいるんだ」

 そう切り出したベルカにも、彼は優しかった。彼女の口ぶりに何か重要なものを感じ取ったのだろう。

「分かった。大事なことなんだね。いつでも来てくれていいよ」

 と、快く承諾してくれた彼に、電話の向こうのベルカがホッとする気配が伝わってきた。


 ベルカの運転するワゴンで、一時間ほどでベリザルトン夫妻の家に戻ったマリアンは、「何度もすいません」と深々と頭を下げながらも、改めて夫妻の目を真っ直ぐに見詰めながら言った。

「実は、お二人に、ブロブに会っていただきたいのです」

 単刀直入なその言葉に、さすがに夫妻の顔にもギョッとした驚きがよぎった。灯りを背にしているからはっきりとは分からないが、顔色は青褪めているだろうと簡単に推測できる表情だった。

 その時、マリアンの言葉を耳にしたキリアが、夫妻の後ろから歩み出てきた。

「ブロブ…!?」

 と声を上げた彼女の表情は、夫妻とは正反対に明らかに気持ちが昂っているそれだった。以前からブロブに興味を持っていたキリアは、『ブロブに会える』と思うと興奮が抑えられなかったのである。

 逆にイリオは、ずっとブロブと一緒に暮らしてきたから、平然と家の中で待っていた。

 時間にすれば二十秒と経っていなかっただろうが、唇を固く結んだカール・ベリザルトンは、自分を何とも言えない表情で見詰める妻に向かって、黙って頷いていた。静かではあったが、二人の中で様々な感情や思考が渦巻いていたのが伺える姿だった。

 そして、何かを決心したように強い意志を感じさせる表情を見せたカール・ベリザルトンが、ゆっくりと口を開いた。

「分かりました。会いましょう……」

 そう決断するまでにどれほどの葛藤があったのかは、二人にしか分からないだろう。しかし夫妻が出した結論は、『ブロブに会う』だった。その決断に、ベルカも心の中で驚嘆していた。

『この二人は、本当に強い人だ……二人に比べれば、私なんてまだまだ赤ん坊みたいなものって気がする……』

 それは、マリアンにとっても同じだった。

『この二人に引き合わせてくれたベルカには、感謝するしかないわね』

 そんなことを考えながらも、マリアンはワゴンのリアハッチを開き、「おいで」と中に声を掛けた。それに従って荷台から降りてきたそれを見た時の夫妻の驚きを、どう表現すればいいのか。

 二人の視線の先に現れたのは、少し大きすぎる服を纏って、帽子を被ってはいるが、まぎれもなく最愛の娘、イレーナだった。何故か透明だった筈の顔には肌の色が付き、ちゃんと人間に見える姿だった。

「イレーナ……イレーナなのか……?」

 うわごとのようにカールの口から漏れるそれに、イレーナははっきりと頷いた。

「ただいま、お父さん、お母さん……」

 その声も言葉のイントネーションも話し方も、間違いなくイレーナだった。それを耳にした瞬間、夫妻の目からは涙が溢れ、あまりのことに震える足で娘に近付き、そして二人で抱き締めたのであった。

「ああ……イレーナ、イレーナぁ……!」


「イレーナ、イレーナ、イレーナ……!」

 何度も娘の名を呼び抱き締めて頬を寄せるベリザルトン夫妻とは対照的に、知った名前を耳にしたイリオが家の中から出てきて、

「あ、イレーナ」

 と、まるで友達でも見かけたかのように何気ない感じでその名を口にした。

「知ってるの…?」

 横に並んだキリアが思わずそう問い掛けると、

「うん、おねえちゃんのともだち。あのこ、ブロブなんだよ」

 と平然と答えた。

「ブロブ…!? あの子が!?」

 普段はあまり他人に関心を持たない筈のキリアの口からそんな言葉が漏れる。キリアもブロブに対しては興味を抱いていたから。

 その時、カール・ベリザルトンがハッとした表情を見せた。イレーナの背後に現れたものに気付いたからだ。

「ブロブ…」

 夫の声に気付いて夫人もブロブに気付く。その顔には怯えの表情も浮かんだが、そんな母にイレーナが静かに語った。

「お母さん、大丈夫だよ。私、お父さんのこともお母さんのことも大好き。もう、お父さんやお母さんを悲しませることしない」

 それは、ブロブと融合し、ブロブの感覚も身に付けたイレーナとしての言葉だった。そんなイレーナの言葉を補足するように、マリアンが語り掛ける。

「ブロブは、他の生物と融合することができるんです。これまで捕食だと思われていた行為は、単なる栄養補給ではありませんでした。他の生物の遺伝子をはじめとしたすべての情報を取り込むことこそがブロブの生態だったんです。イレーナは<食べられた>のではなく、ブロブと<一つになった>だけなのです」

 マリアンの言葉に、カールは戸惑う表情を見せながらも冷静だった。

「何と言うか、すぐには信じられないというのが正直なところだけれど、この子は確かに私達の娘だと感じます。そして、今、この子がブロブと繋がっていることも事実のようだ。もっと詳しい話を聞かせてほしい。とにかく家に入ろう」

 そして皆で、リビングに集まり、改めて状況を整理することになった。

 マリアンがイレーナに声を掛ける。

「イレーナ、服を少しまくって、あなたの体を見せてあげて」

 そう言われてもイレーナは躊躇うことなく、彼女には少し大きかった服の裾をまくってみせた。そこにあったのは、まるで透明な氷の彫刻のように透き通った体だった。それを目の当たりにし、夫妻が改めて息を呑む。

「御覧の通りです。顔については私のファンデーションで肌の色を再現してますが、体の方は私の服を着てもらっているだけです。今のイレーナは間違いなくブロブでもあります。でも同時に、お二人の娘さんのイレーナでもあるのです」

「これは驚きだ……」

 イレーナを前にしたカール・ベリザルトンが呟く。


 皆でリビングに集まり、明るいところでよく見ると、『顔については私のファンデーションで肌の色を再現してます』とのマリアンの言葉通り、ファンデーションを使えない目については、確かに透明だった。

 けれど、

「心配させてごめんなさい」

 と話し掛ける彼女の声も話し方もイントネーションも、まぎれもなく娘のイレーナのものだった。ブロブが娘の真似をしているとか、そんなレベルではない。体が透明なことを除けば完全にイレーナなのだ。

 それは夫人のレベカ・ベリザルトンの実感でもあった。彼女を抱き締めたその感触も、忘れもしない愛しい娘のそれだった。

「イレーナ……ああ、イレーナ……!」

 改めてレベカは感極まって何度も娘の名を呼びながら泣いた。するとイレーナも、

「お母さん、お母さん…!」

 と、母に縋りついて泣いた。ブロブと融合したことで薄れかけていた人間としての感情が、母に抱き締められたことで蘇ってきたようだった。

 そんな様子を、マリアンとベルカ、そしてキリアとイリオが見詰めていた。

 マリアンは、予想以上の素晴らしい結果に静かに興奮していた。まさかここまでベリザルトン夫妻の器が大きいとは。自らの見る目がまだまだ甘いと痛感もさせられた。

 ベルカは、自分の不安が杞憂に終わったことを素直に喜んでいた。この素晴らしい人達が救われたことで胸がいっぱいになって、涙が抑えられなかった。

 キリアは、ブロブという生き物が、自分が聞かされていたものとはまったく違っていたことに改めて強い関心を寄せずにはいられなかった。しかもこんな身近で見られるなんて。

 イリオは、さすがにまだ幼いだけあってこの状況をあまりよく理解していなかった。ブロブが人間にとって優しい生き物だというのも彼にとっては当たり前すぎて、何をそんなに驚いてるのかがピンとこないというのもあるだろう。

 とは言え、ベリザルトン夫妻はこうしてブロブと和解できたかもしれないが、人間のブロブへの恐怖感や嫌悪感や憎悪はそれほど簡単なものではない。目の前の光景にむせび泣きながらも、ベルカの胸の中には次の心配が頭をもたげてきていた。

『村の人達が全員、ブロブを受け入れられるんだろうか』という不安だ。

 だがそれは、さほど心配要らないだろう。何故なら、ブロブが大量発生した際には、ベルカと、皮肉なことにエクスキューショナーの活躍によって危機を脱したことで、フォーレナの住人にはベリザルトン夫妻以外にブロブによって家族を喪った者はおらず、また、ブロブを含めたファバロフの環境そのものを受け入れようというベリザルトン夫妻の理念に賛同して開拓に参加した者達ばかりだからだ。

 当然、一部には恐れる者もいるだろうが、しかしそれはあくまで危険な猛獣を恐れるそれであり、決してブロブへの憎しみではないのである。


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