研究施設

 その日、キリアは学校の社会見学で、生体学の研究をしている施設に来ていた。そこでは、様々な生物の遺伝子をはじめとした能力や機能といったものを研究し、人間にとって有益なものを見つけ出すというのが目的の場所だった。

 故に、清潔で整理された施設でありながら中には犬や猫に似た誰もが可愛らしいと思うであろう動物だけでなく、ヘビやトカゲやカエルやナメクジや昆虫といった、人によっては強い拒否反応を示す場合もあるものも、研究用のサンプルとして飼育されていた。

 キリアは、普通では嫌われがちな生物が好きな少女だった。だから他の生徒達が気持ち悪がって視線を逸らす生物にこそ熱い視線を注いでいた。特にヘビやトカゲは自分も飼っていることから、今まで知らなかったことも分かって静かに興奮してさえいただろう。

 やがて、キリアのいるクラスは、ブロブを研究している区画へと足を踏み入れていた。そこにはいくつもの透明なカプセルが並び、それぞれにブロブが封入されていた。

 殆ど身動きもとれなさそうなカプセルに閉じ込められたブロブを見たキリアが悲しそうな顔をする。自分も拾ってきた水槽や容器にヘビやトカゲを入れて飼っているがここまで窮屈そうな飼い方はしていない。だからブロブが可哀想に思えてしまったのだ。

 とは言え、実はキリアの認識は正しくなかった。ブロブが動き回るのは基本的にあくまで捕食の為であって、実際にはブロブ自身には運動などは必要なく、栄養さえ与えておけば一つ所にとどまって動くことすらないというのがこれまでの研究で分かってきていた。

 しかも、休む時には狭いところに入り込むという習性もある。なので、カプセルの中で絶えず栄養を与えてもらえているこの環境は、ブロブにとってはむしろ理想的なのだった。

 ここのブロブ達は皆、ブロブそのものの研究と言うよりは、良質な遺伝子の貯蔵庫でもあるブロブの特性を利用して、取り込ませた遺伝子の働きを見るというのが目的の場所だった。

 新薬の開発に必要な、遺伝子への影響などもこれによって確認できる。実質的な動物実験なのだが、ブロブは、家族を殺され憎んでいる遺族以外の人間にとってもやはり奇怪な生物ということで、怖いもの見たさの好奇心を駆り立てられたりする者も少なくはないものの、殆どの人間にとっては生理的嫌悪の対象でもあり、ブロブを代用した動物実験に対する反対意見は小さいという、研究者側のメリットもあった。

 動物実験はいろいろと叩かれて煩わしいので、そういう反発があまり起こらないブロブを使った実験は非常にありがたかったのである。


 ブロブを使った動物実験が行われている訳なのだが、そもそも動物実験自体、シミュレーションによって安全性が確認されたものを最終的に本当に安全なのかを確かめる為に行うというものだったので、命に係わるようなことはまずなかった。しかもブロブ自体が生物として強靭で、少々のことでは堪えない。

 麻酔などでも、麻痺の反応は出るものの、それが致死量ということになると、ブロブハンターが使うような麻酔弾だと三十発は撃たないといけなかったりもする。

 毒でさえ、一部の神経毒が有効だというのが分かっているだけで、それですら相当な量を注入しないと死ななかった。毒を使った処分が一般的でない理由はそこにもある。とにかく必要な量が半端ではない為に、ブロブが死んだ後で漏れ出す毒の濃度も尋常ではないものになってしまうのだ。これでは周囲の汚染も大変なレベルになってしまい、除染にかかる手間も途方もないものになってしまうので割が合わないという訳である。

 まあその辺りは余談なのでさて置くとして、とにかく生徒達は興味はあるもののやはり多くの場合は嫌悪感の方が強く、ブロブに同情的なのはキリア一人という状態だった。もっとも、当のブロブがこの境遇には苦痛は感じていなかったが。

 ただこの時、キリアは同情だけではない何かをブロブに対して感じていた。表情のないヘビやトカゲの機嫌といったものを察するようにしてきていたからか、何となくブロブが話し掛けてきているような気がしたというか。

 しかしキリアが感じたそれは錯覚ではなかったかもしれない。ここにいるブロブは実は、幼い少女の意識を持ったブロブであり、それが故に本当に話しかけていたのだから。

『こんにちは。あなた達はどこから来たの……?』

 そんなことを問い掛けていたのだ。もちろんそんなものは子供達には届かないし、ブロブの方も応えてもらえることを期待していた訳でもない。ただ何となく、そう、何となく話し掛けてしまっただけだ。微かに残った人間の感覚がそうさせるのだろう。

 そしてこの時の感覚が、キリアのブロブに対する関心をさらに呼び覚ましてしまったらしい。

 社会見学を終えた後の彼女は、ヘビやトカゲだけでなく、ブロブを飼育してみたいという欲求に駆られるようになったのである。

 いつもの廃プレハブでヘビやトカゲの様子を見ながら、キリアはブロブを飼うとすればどうするのかということを夢想していた。

 だがそれをするとどうしても思い出してしまうことがあった。しかもそれを思い出してしまうと、胸が苦しくなる気がしてしまう。

 ブロブに対して恐ろしいほどの敵意を見せる、フィと名乗った女性の姿が、キリアの脳裏に浮かんでいたのだった。


 彼女がどうしてあれほどまでにブロブを憎んでいるのか、キリアには理解できなかった。両親を殺し彼女をあんな姿にしたということでそれが憎んでる理由だというのは推測はできる。

 でも、キリアにとっては自分の両親自体がそこまで大切な存在でもなかったし、フィのような姿になれるならなりたいとさえ思っていた。だから彼女にとってはそれがあそこまでブロブを憎む理由になるという実感がなかったのだ。

 故に、もし自分が彼女と同じ境遇になったとしたらどうなるのかという形でも興味が湧いてきてしまったのである。

 町を取り囲む塀の外に行くこと自体はそれほど難しくない。一応、法律で勝手に立ち入らないようにと禁止はされているが別に見張りが立っている訳でもなく、実は罰則もないのだ。ブロブハンターや駆除業者はその辺りの体裁を整える為に許可を取るようにはしているものの、結局は建前でしかない。塀の外に行ってブロブをはじめとした危険な生物に襲われても<自己責任>と見做されるだけだ。

 ちなみに、ブロブがいる辺りには、有毒の昆虫や爬虫類に似た動物など、恐怖といったものを感じない種類のそれ以外の動物はまず近寄らない。ブロブを恐れて逃げるからだ。特に大型の動物になればなるほどそれに比して知能も高くなる傾向にあることから、危険を察して逃げてしまう。なので、ブロブが近くにいるところではブロブ以外の動物に襲われることはむしろ少ない。ただ、毒を持った動物や植物などは割と多いので、そういう事故は少なくない。

 キリアは、ヘビやトカゲなどを飼っていて、それに与える為に昆虫などについてもそれなりに知識を持っていた。なので、

『私なら大丈夫……』

 と思ってしまったようだ。

 町の出入り口まで行き、行き交う人の目を盗んで塀の外へと足を踏み出した。さすがにお節介な大人などに見付かると注意されたり連れ戻されることもあるからだ。

 とは言え、初期の住人以外ではそこまで神経質なのもそんなにいない。ましてやこの町ではもうずっとブロブの被害は出ていない。自転車の二人乗りが禁止されていてもわざわざそれを注意する人間も少ないように、キリアが塀の外へと走っていくことに気付いた人間もいたもののさほど気に止められることもなかったのだった。

 塀の外には監視カメラも仕掛けられている。しかしそれは、ただ機械的に記録されているだけで、時折、塀の外にゴミを不法投棄する人間を特定する為に記録された映像をチェックする程度にしか使われていなかった。もともとブロブはその特性から肉眼では見えてもカメラに映りにくく、ブロブを監視する為のものでもない。

 林の中へと小走りで入っていくキリアの姿が捉えられていても、それを見ている人間はいなかったのである。


 ブロブを見てみたくて林に足を踏み入れたキリアだったが、ブロブによる被害はずっと出ていないという事実でも分かる通り、この町の周囲には滅多にブロブは現れなかった。以前、フィと出会った時にブロブが現れたのは、その<滅多にないこと>が起こっただけである。

 とは言え、可能性は低くてもゼロではない。だから彼女は、町の塀が見えるギリギリの辺りまで踏み込んでブロブの姿を探してみた。

 が、さすがにそうそう都合の良いことは起こらない。ブロブの気配すらない林の中を歩いていたキリアは、しかし楽しそうだった。ブロブはいないが、ヘビやトカゲの姿を何度も見かけたからだ。しかも、町の中の公園などでは見たことのない種類のものだった。

 町のすぐ近くには強い毒を持ったヘビやトカゲはいない。植物やキノコ類には強い毒を持ったものもいるが、食べたり触れたりしなければそれも大して問題はない。


 こうして林の中で生き物に触れたキリアは、水槽や容器にヘビやトカゲを閉じ込めて飼っていることに罪悪感を感じてしまったのだった。あまり窮屈にならないように気を遣ったつもりだったが、それでも林の中で自由に生きている生き物達を見てしまうと何かが違うとも感じてしまった。人工的に整備された町の中の公園では感じなかったそれが、ここにはあった。

 翌日、キリアは廃プレハブの中で飼っていたヘビやトカゲ達を放してやることにした。こんなところに閉じ込めておかなくても、林の中に入ればもっと活き活きした姿を見ることができる。もうそれで十分だと思った。

 しかし……

「キリア! お前、塀の外に遊びに行ってるそうだな? なんでそんな不潔なことをする!? あんな雑菌だらけのところに行くようなら、もう家には入れられないぞ! 犬小屋を買ってやるからそこで寝ろ!!」

 たまたまキリアが塀の外へ遊びに行くのを見かけた人間が彼女の父親にそれを告げて、バレてしまったのである。

 父親はなおも言った。

「そんな醜い姿だから、不潔なことも平気でできるんだな。中等部を卒業次第、手術を受けろ! その頃には成長も止まっているだろう」

 体の成長が止まって安定したら美容整形を受けろと言っているのだ。父親の隣では、母親も『至極当然』と言いたげに何度も頷いていた。

 そして父親は本当に、子供なら十分に中で寝られそうな大きさの犬小屋を買って庭に設置してしまったのだった。

「もしこれからも林に遊びに行くのなら、今日からそこがお前の部屋だ!」

 父親にそう言われた時、キリアの中で何かがカチリと切り替わる感じがした。

 これまでずっと横暴な父親の理不尽に耐えてきて大人しく振る舞っていた結果がこれか?

 具体的にそう考えていた訳ではないが、この時のキリアの心情を表すならこういうことだっただろう。

「分かりました……」

 父親とは目を合わさずそう応えたキリアは、自分の部屋から勉強道具や服や大好きな図鑑などを運び出し、庭に設置された犬小屋に運び込んだ。ここを自分の部屋にすることで林に行くことを許してもらえるなら安いものだとさえ思ったのかもしれない。

 そこは、元の部屋と比べればはるかに狭かったが、必要最小限のものを置くだけならなんとかなった。むしろすべてが手の届く範囲に置けるだけ便利になったかもしれない。流しやトイレや風呂は家のものを使うしかないのでいちいち出入りするのは面倒だったが、それも、こういうものだと思えば後は慣れかもしれない。

 一方、まさか娘が本当に自分から犬小屋に移ると思っていなかった父親は、泣いて詫びてくる姿を期待していただけに当てが外れて不満顔だった。

「ちっ! 見た目どおりの可愛げのないガキだ……」

 窓から見える、娘がいる犬小屋を見ながら父親は吐き捨てるように言った。どうすればあの生意気な娘を泣いて自分の前にひれ伏せさせられるかとそんなことを考えていた。

 父親がそんなことを考えてるとも知らず、キリアは犬小屋に、父親がキャンプ用に買ったものの『林など雑菌だらけだ』と言うくらいなだけにキャンプ用品が一通り揃ってるというポーズをしたかっただけで一度も使ったことのないランタンを持ち込んでそこで宿題をして図鑑を眺めて、やはり新品のままガレージに仕舞い込まれたままだった寝袋にくるまってそこで寝た。食事は、まるで犬の餌のようにワンプレートに乱雑に盛り付けられたものをキッチンから持ってきて食べた。

 普通なら近所の人間に知られて通報されるところだったが、犬小屋を設置したのが母屋とガレージと生垣でちょうど周囲から死角になる位置だった為に、近所の人間は誰もキリアが犬小屋に住んでいることに気付かなかった。

 キリアも、誰にもそのことを話さなかった。どうせ話しても無駄だと諦めていたし、犬小屋に住むことで林に行くのを許してもらっているという交換条件と認識していたからだろう。

 そしてそんな状態が一週間続き、林の中で生き物を観察していたキリアの前に、それは現れたのだった。


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