決別

 キリアの服が乾くまで、フィは、自分のことを語って聞かせた。

「私はね、両親の仇を探して世界中を旅してるの…」

「かたき…?」

「そう。仇よ。私をこんな姿にしたのもそいつ。まだ十二歳だった私をね……」

 そこまで言ったところで、フィはキリアの目を覗き込むようにしながら手袋を外した。

「…あ……!」

 キリアが声を漏らす。手袋を外したそこには、手がなかった。いや、あるにはあるのだが、キリアが想像していたものと違っていたのだ。てっきり顔と同じように筋肉や血管が透けて見えるだけかと思っていたら、何もない。手の形に僅かに青味がかった、ガラスか氷で作った彫刻のような透明なそれがあっただけだった。

「あなたなら、私の体を見ても驚かなさそうだから見せたげる。これが私よ」

 自分の手を見たキリアの反応に何かの確信を得たのかフィがそう言いながら服を脱ぎ始めた。そして真っ黒な長袖のシャツを脱いだ時。その体の異様さがさらに明らかになった。右腕の肩から先、左腕の肘から先が完全に透明になっているが、そこまでは顔と同じく筋肉と血管が透けて見える状態だった。

 それだけではない。ブラジャーと一体になったタイプの黒いタンクトップを捲り上げると、体の右側はやはり筋肉と血管が浮き出た状態で、左側は乳房の辺りから下が完全に体の向こうが透けて見えるほどに透明であり、そこから右半分の体の中に収まっている内臓の一部も透けて見えていた。ドクンドクンと脈打つ心臓の動きまでがはっきりと見える。不思議なことに、血管は透明な部分の途中までしかなかった。そこで折り返し、戻っていっているらしい。

 いったい、どういう仕組みでこうなっているのかまるで分らない。生物学的な常識では有り得ない構造だった。

「私は、両親を殺し、私の体をこんなにした仇を追っているのよ……」

 険しい顔をしてそう呟くフィに、悲しそうな目をしたキリアが問い掛ける。

「…痛かった……?」

 普通の人間ならとても直視していられないであろう不気味な体を見てもなお、少女はフィを気遣う様子を見せたのだ。フィは、キリアがそういう反応をしてくれると見込んだ上で見せたのだった。

 それがおそらく、フィの本心だったのだろう。醜いこの姿を人に見せたくないと思いつつも、それでも誰かに見てほしかったのだ。この体を見た上で受け入れてほしかったのに違いない。そして今日、ようやくその願いが叶ったのである。一人の少女によって。

 フィの目に涙が浮かんでいるのが分かる。瞼が透明だから眼球は見えたままでも、彼女は目を瞑り懸命に涙を堪えていたのだった。

『痛かった?』という少女の問いに、彼女は何度も頷いた。

 そう。痛かった。苦しかった。皮膚が溶けて筋肉が溶けて骨が溶けて内臓が溶けて、体の四十パーセントを失っても彼女は死ねなかった。透けていない部分が本来の彼女の体だった。それ以外の透明な部分は、他のものに置き換わってしまっているのだ。それでも、自分の体と何ら変わりなく動く。触覚も痛覚もある。温度も感じる。だから、そっと透明な乳房に触れたキリアの手の感触もぬくもりも分かる。

 キリアになら、触れられるのも嫌じゃなかった。これまでに何度か自分の体に触れた人間はあくまで、物珍しいものを見たと、奇異なものを見たという、怖れ半分、嘲り半分というそれだった。一度など、偏執的な性癖を持った男に乱暴されそうになったことさえある。

『そんな体でもちゃんとできるのかよ?』

 と、下卑た声を掛けながらその男は彼女の乳房を無遠慮に揉みしだいたりもした。なのに、今、自分の乳房に触れているそれは、あの時の男の手とは、当然のことではあるがまるで違うものだった。

「あったかい……柔らかい……おっぱいがある……」

 そんな風に呟きながら、キリアはフィの胸に顔をうずめた。それは、幼い子供が母親に甘える仕草そのものだった。

 それは、キリアの願望だったのだろう。本当は自分の母親にそうやって甘えたかったのだ。けれど彼女の母親は父親の言いなりになるだけのロボットのような人間で、キリアのことにはさほど興味も無かったようにも見えた。それどころか、素朴で地味な顔立ちをした娘の顔を見る度に不快そうな表情さえ見せた。昔の自分の姿を思い出すからだった。子供の頃は、キリアにそっくりだったからだ。

 故に、母親は娘であるキリアのことを疎んでさえいた。キリア自身も察してしまうほどに。

 本当は甘えっ子でいつだって母親に甘えたかったキリアにとっても、フィの存在は求めても得られなかったものだったのである。


 そういう二人が、今日、こうして出会ったということだ。それがどれほどの幸運か、この二人以外の人間には分からないに違いない。

 自らの胸に顔をうずめて甘える少女を、フィは抱き締めた。そして自分のもの以外の鼓動を、本当に久しぶりに感じていた。それがこんなにも自分を癒してくれるということを、彼女は長らく忘れていた。それをキリアが思い出させてくれた。

 二人はいつまでもいつまでもそうして抱き合っていたかった。

 けれど、日が沈む寸前になり夕闇が迫り始めたことに気付いて、フィはハッとなった。

「いけない。もうこんな時間? 遅くなったらご両親が心配するわ」

 フィの言葉に、『心配なんかしない』と言いかけたキリアは、しかしその言葉を呑み込んだ。心配はしなくとも自分の都合に合わせないとあの両親は途端に不機嫌になる。夕食の時間に間に合わなかったりすれば、嘲るような口ぶりで小言を並べるに違いない。フィはそれを心配してくれてるのだとキリアも感じた。

 だから名残惜しいけれども、今日は帰ることにした。

「良かった。殆ど乾いてる」

 干していたキリアの服を手にして、フィが言った。受け取ったキリアも「うん、大丈夫」と応えた。完全とは言えなくても、このくらいならそれほど気にならないだろう。

 スカートと下着と靴下を身に付けて、靴も履いて、羽織っていたコートをフィに返す時、キリアは縋るような目でフィを見詰めた。

「また会える…?」

 ついそう問い掛けてしまったけれども、彼女も分かっていた。それが叶わぬ願いであることは。けれど、僅かな可能性であってももしそれがあるのならと思ってしまったのである。

 そんなキリアの気持ちは、フィ自身の気持ちでもあった。だから応えた。

「可能性は、あるかもしれない……私が目的を果たせたら、またここに来る。いつになるかは分からないけど、いつかは……」

 目は合わせられなかったものの、はっきりとした口調でフィは言った。叶えられる保証はなくても、彼女自身がまたここに来たいと思っていた。思っていたからこそそう応えた。

 だがその時―――――

「!?」

 フィの体にビリッと緊張が奔り抜けた。その瞬間、初めて見かけた時の姿に戻るのをキリアは見た。刺すような視線の危険な獣のごときそれに。それから静かにキリアに話し掛ける。

「ごめん。私の方も急用ができたみたい。あなたはこのまま真っ直ぐ家に帰りなさい。決して振り返ったりしないで、今すぐ…!」

 ただならぬその気配に、キリアは怯えたような表情をした。しかしもう、フィはそんな彼女を見ようともしなかった。だからキリアは、

「…気を付けてね……」

 と声を掛けるのが精一杯だった。

「…ありがとう……」

 フィが最後にそう言ったのも、彼女なりの精一杯だったのだろう。


 フードを目深に被りゴーグルを着けて廃プレハブを飛び出し、裏手に停めてあった軍用車のような大きな四輪駆動車のリアゲートを開けて中から機関銃のようなものを取り出す。キリアもそれが何か知っていた。ブロブを駆除する為の武器だ。たしか、グレネードマシンガンとかいう。

 それを両手に構えてフィが走り出した。塀に向かって。

 何をするのかとつい眺めてしまっていたキリアの前で、フィが深く屈んだと思うとバネで弾かれるようにその体が宙に浮かび上がり、塀の向こうへと姿が見えなくなってしまったのだった。

「……!?」

 いくら今年十歳になるところのキリアでも、グレネードマシンガン二丁を構えた上に高さ五メートルの塀を飛び越えるなどという芸当が普通の人間にできるものではないことくらい知っていた。だから呆然と、フィの姿が見えなくなった塀を見詰めてしまっていたのであった。


 高さ五メートルの塀を軽々と飛び越えたフィは、目の前に広がる林へと躊躇うことなく走り込んだ。林の中は既に闇に包まれていたが、彼女はそれをまったく意に介することもなく凄まじい速さで駆け抜けた。複雑に伸びた木の枝を難なく躱す。それは明らかにしっかりと見えている動きだった。

 三十秒ほど走ったところでグレネードマシンガンを構え、躊躇なく撃つ。ガーン!と爆発音が空気を叩いて木々が揺れる。しかし手応えはなかった。躱されたのだ。

 彼女が狙っているもの。それは当然、ブロブである。風に乗って流れてきた臭いに気付き、迎え撃つ為に出てきたのだ。

 その彼女に向かい、闇に沈んだ林の中から何かが奔った。それを寸前で躱し、再びグレネードを放つ。だがそれも手応えがなかった。

『…手強い……』

 この僅か数秒の応酬で彼女が感じた正直な感想だった。

『あいつらも知恵をつけてきてるのか……!』

 その通りだった。ブロブは情報を蓄える生き物である。変幻自在で、柔らかく頼りなさそうな見た目に反し強靭で、高い反応速度とスピードを兼ね備えたブロブの能力は、この惑星の生態ピラミッドの頂点に相応しい破格のものだった。そこに情報を蓄えて学習し自らを高めていけるのだから、生身の人間に勝ち目などないのである。本来は。

 それでも、フィはブロブと互角以上にわたり合った。だが、この事態は彼女にとって非常に好ましくないものだった。ブロブ一匹一匹に手間取っていては話にならない。彼女の目的は、ブロブの根絶なのだから。


 数日前にも、手強いブロブとやり合った。その戦いは四十時間に及び、その所為で疲れ果てて、水を得て体を休めようと廃プレハブに入り込んだところで意識を失ってしまったのだ。

「くそっ!」

 先日のものと続いて思うに任せない状況に苛立ちを隠せず、つい吐き捨てる。しかし苛立っていては的確な判断ができない。

 彼女は激しく戦いながらも頭を透き通らせ、ただただ集中した。他のことは何も考えない。キリアのことさえ、もう頭にはなかった。

 だが、彼女の猛攻に分が悪いと感じたのか、ブロブの動きが反撃ではなく逃走に切り替わるのをフィは感じた。

『逃がすか!!』

 フィの目的は、ブロブの殲滅である。戦意を失ったからと言って見逃すことはない。どこまでも追って追って、そして殺す。最後の一匹までとにかく殺す。何年かかろうとも、何十年かかろうとも、例え自分の寿命が尽きる方が早いとしても、決して諦めるつもりはなかった。彼女にはそれしかないからだ。ひたすらブロブを殺し尽くす。それさえ果たせれば命などいつ終わっても構わない。むしろこの醜い姿と別れられるなら、それこそ本望だ。

 だから彼女は諦めない。ブロブが逃げてもひたすら追う。

 この時も、逃げるブロブを追って彼女は走った。その視線の先に、町を取り囲む塀があった。

『あいつ、町に逃げ込むつもりか!?』

 その事態にはさすがのフィもギリッと奥歯を噛んだ。これまでは森林に逃げ込もうとするだけだった。にも拘らず、今回のやつは逆に町に向かって逃げているのだ。


 この町の塀には、ブロブを撃退する為の爆砕槽が設置されている。しかし、フィはそれがもう殆ど意味の無いものになりつつあるのを知っていた。ブロブはそれが危険だと既に理解しているのだ。だから爆砕槽が作動しないように作動させないように塀を乗り越えるくらいはする。効果を発揮するのは、大量発生したブロブが正気を失ってただ突進する時だけだ。たまにそうやって大量のブロブを撃退することもあるのでまったく意味がないとも言い切れないが、そのことが逆に、爆砕槽への信頼感となって間違った安心感を与えてしまうことにもなる。

 そしてこの時のブロブも、体を細く伸ばし、爆砕槽をものともせず町へと浸入を果たした。

 それを追って、フィも塀を飛び越える。

 が、塀を飛び越えてブロブの姿を視界に捉えた彼女の目に、別のものも飛び込んでいた。

「!?」

 キリアだった。キリアがまだ廃プレハブの傍に居たのだ。

 フィがブロブを追って塀を飛び越えてからまだ五分と経っていない。フィに言われた通り帰ろうとしたキリアの耳に爆発音が届いたことで、心配になり少しの間だけ帰るのを躊躇っていたのだ。それでももう帰ろうとしていたところに、ブロブとフィが現れたということである。

 地面に着地しようとしたブロブを、フィは狙い撃った。両手に持ったグレネードマシンガンで時間差をつけて、ブロブの回避運動を予測して。キリアに危険が迫っていることで、いつも以上に集中できた。それを外せば、グレネードの爆発にキリアが巻き込まれる危険性があり攻撃できなくなる可能性があったからだ。

 一発目は回避されたが、二発目が見事に命中。ブロブの体は爆発四散した。

 突然のことに呆然としていたキリアだったが、少女が恐ろしいと感じたのは、ブロブではなかった。ブロブが死んだことを確認しているフィだ。彼女のことこそが少女の心を締め付けたのだ。

 ブロブの死骸を見下ろすフィの目は、ゾッとするほど冷たかった。皮膚も瞼も透明で表情とかは殆ど分からない筈にも拘らず、恐ろしく冷酷で憎悪に満ちた目で見下ろしているのが分かった。キリアの前で優しく微笑んだ彼女の姿はどこにもなかった。

 そんな自分を、キリアが怯えた目で見ていることに気付いたフィも、もう何も言わなかった。『これでいい』『これが本来の姿だ』と言わんばかりに顔を背け、そして二度とキリアのことを見ることなく四輪駆動車に乗り、そのまま走り去ってしまったのだった。


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