第33話 身代わり


 二日後、李恵妃を殺害した下手人が見つかった。高淑儀に仕える新米宮女のようで、まだ幼く、子供と言っても過言ではない少女だった。


「李恵妃に罵られる私を思ったようで……。まさかこの子が李恵妃を殺すなんて……!」


 手巾で涙を拭いながら高淑儀は興奮した様子で捲し立てた。

 上座で、彩妍の隣に座った雪玲は冷めた目でその様子を観察し、うんざりだと内心で肩を持ち上げる。


(目、手足の動き。呼吸の仕方……嘘を言っている人間のものです)


 商人は商品を見極める観察眼と共に人間の心理からもとづく行動を理解する必要がある。贋作を掴まされたり、その商品が持つ価値以上の金を払わないようにするためだ。

 ただ、次期当主である紫雲とは違い、雪玲が教え込まれたのは初歩中の初歩。相手が心理学を専攻し、演じるのが得意なら見極めるのは困難だ。

 しかし、雪玲の心配を他所に、高淑儀の振る舞いは典型的な嘘つきのものだった。せわしなく動く視線に、落ち着きのない手足。特に足の動きが目立つ。左右の重心をこまめに変えたり、踵を浮かせたり、と本人が嘘をつくときの癖なのだろうか。


「けれど、言い逃れはできませんわ。この傷が証拠ですもの……」


 ちらりと背後を振り返ると少女の腕を凝視する。

 少女の左右を固めた高淑儀の侍女達が、主人の視線の意味を理解して袖を捲り上げた。日に焼けた腕には真新しい傷が刻まれていた。裂け口から覗くのは石榴ざくろのごとき、真っ赤な血肉。


「君の名前を聞いてもいいかい?」


 椅子に腰掛けた彩妍は落ち着いた、けれど反論を許さない声で命じる。

 少女はより一層と顔を青くさせると俯き、糸より細い声で「婉児えんじです」と答えた。


「婉児、君が李恵妃を殺したのかい?」

「は、はい……。その、高淑儀様が不憫で……」


 少女——婉児が俯くと高淑儀の叱責が飛ぶ。


「私はそんなこと望んでないわ!」


 途端、婉児は可哀想なぐらい震え上がり、涙をこぼし始めた。


「高淑儀、君は少し落ち着くことを覚えた方がいい」

「……申し訳ございません。カッとなってしまいました」

「君はもう下がりなさい。婉児は私が預かろう。……ああ、この事は口外してはいけないよ」

「承知、いたしました」


 帰れ、と命じられた高淑儀は不服な様子ながらも逆らうことはせず、すぐさま侍女を伴って退室した。

 残された彩妍と雪玲の侍女も「出ていきなさい」という彩妍の命で出ていき、残されたのは彩妍と雪玲、それから下手人として連れてこられた婉児の三名だけ。


「春燕はどう思う?」


 まず、彩妍は肘掛けにもたれながら雪玲の意見を仰ぐ。

 雪玲は婉児に近づきながら、


「高淑儀様が嘘をついていることは分かりました。彼女が李恵妃を殺してはいないことも」


 答えると婉児が勢いよく顔をあげ、「違います!」と声を荒らげた。


「私が李恵妃様を殺したんです……! 高淑儀様ではありません!」

「婉児、君にはまだ聞いてない。私は春燕の考えを聞きたいんだ。弁解があるのなら後で聞いてあげるから、君は黙っていなさい」


 冷たい声音に怯んだのか、婉児は顔色をもっと悪くさせて俯いた。

 婉児の前で足を止めた雪玲は一言断りを入れて、細い腕を掴み、袖を捲り上げる。


「腕の傷は恐らく、昨夜か今朝につけられたのでしょう? 血は止まっていますが、傷口はまだ新しい。李恵妃様がお亡くなりになったのは五日も前ですので、滲出液しんしゅつえきが乾いて、瘡蓋かさぶたとなっていているはずです」

「春燕もそう思うか。やけに綺麗な傷だと思ったんだ。それに本当に李恵妃が抵抗した跡ならその腕はもっと酷いありさまだろうに」

「ええ、傷のえぐり方も綺麗すぎますね。この腕の傷は強く引っ掻いただけのように見えます」

「自分を殺そうとする相手の腕を引っ掻くか? 私なら爪を食い込ませて抵抗してみせるが」

「高淑儀様は何やら腕を庇っているようでしたよ」

「確かに。珍しく袖がゆったりした衣服を着ていたな。指先すら見えなかった」


 彩妍と雪玲が交互に話し合うと婉児は腕を隠すように抱きしめた。


「婉児よ。私は君を兄上に明け渡すつもりはない。だから真実を話してくれるかい?」

「わ、私が李恵妃様を、殺しました」

「私と春燕は、君がにえとして出されたように見えたが」

「違います。私です。私が、李恵妃様を……」


 婉児はうわごとのように繰り返した。自分が李恵妃を殺害したと。高淑儀は無罪だと。




 ***




「ねえ! これあげる!」


 幼子の笑声が黒嶺宮に木霊する。物思いに耽っていた雪玲は意識を今に戻すと声のする方向へ顔を向けた。

 崔婉儀の息女である紅嘉が薄紅色の花びらが幾重にも広がる牡丹を自分に差し出していた。あげる、というからこれは雪玲への贈り物ということになる。


「鳴美人に会ったらお礼を言いたいと庭から取ってきたのよ」


 崔婉儀は絹団扇で口元を隠しながら柔らかく目尻を下げた。

 毒殺事件の後に入内し、毒入り包子を吐き出させたことから信用を得たのか、崔婉儀は「あまり関わりたくない」と言っていたのに二日と明けず、雪玲の房室を訪れては茶菓子を食し、茶を飲んだ。最初の頃と打って変わった態度に少したじろぐが、これが生来の気質なのだと自分に言い聞かせる。それに、崔婉儀の生家は代々医師を輩出してきた名家だ。医療道具を取り引きするにはうってつけ。コネを作っておけば後々、鳴家の役に立つ。

 打算を笑顔で隠した雪玲は牡丹を受け取る。紅嘉は照れくさそうに小さな歯を覗かせて笑った。


「よかったわね。受け取ってもらえて」

「うん!」

「ありがとうございます。皇女様。花瓶に挿して大切にします」


 紅嘉は唇をへの字に曲げる。不服そうな、今にも怒りだしそうな顔に何か失言をしたかと心配する。


「こ、う、か!」


 どうやら、雪玲が敬称で呼ぶのが不服なようだ。


「紅嘉様。お花、ありがとうございます」


 可愛らしい我が儘に破顔はがんする。その無邪気な挙動に幼い頃の紫雲を思い出し、重ねたところで雪玲は「あっ」と声を上げた。


「どうかしたの?」


 崔婉儀が首を傾げる。


「汚してしまった敷物を弁償したくて。お好きな柄や生産国があれば、と思いまして」

「あら、いいのよ。あれは私を助けるためですもの」

「すみません……」

「あなたって真面目なのね。自分の命に比べたらあんな敷物、安いものよ」


 母の言葉に紅嘉はその場でぴょんぴょんと飛び跳ねながら「そうよ!」と同意する。


「さあ、紅嘉。みんなと遊んでらっしゃい。かあさまは、鳴美人と少しお話しがあるの」


 崔婉儀は娘の背を優しく押して、自分の侍女へ向かわせた。


(私と、ということは人払いをした方がいいのでしょうか)


 恐らく、他者の耳に入れたくないことなのだろう。雪玲は手にした牡丹を珠音に手渡して花瓶を用意するように命じた。峰花と鈴鈴には紅嘉のお守りを頼む。

 人が離れたのを確認してから崔婉儀は口を開いた。


「李恵妃様を殺した者が見つかったそうよ」


 見つかってはいない——とは口には出せない。高淑儀が連れてきた宮女、婉児はを庇っている可能性が高いため一旦、彩妍お預かりになっている。翔鵬にも伝えられていない、この事をなぜ崔婉儀が知っているのかと思えば、


「高淑儀様が言いふらしていたわ」


 高淑儀は自分の宮女が李恵妃を殺したと大袈裟な身振り手振りで伝えてきたそうだ。


(ことを荒立てるなと彩妍が言っていたのに)


 閉鎖された空間での噂というものは尾ひれはひれが付くどころか、胸びれ、腹びれも付いてくるものである。李恵妃を殺害した者を見つけ出すため、余計な情報を封じるために彩妍が命じたのに、よくもまあたったの数日で反故ほごにできるものだ、と雪玲は呆れ果てる。

 その光景を目にしたわけではないが、高淑儀が楽しそうに話している事は容易に想像できた。


「嘘、だと思うの。それで、あなたの意見が聞きたいのだけれど」


 雪玲の心中を察してか、神妙な面持ちでこちらを見つめる。


「……ごめんなさい。困らせるつもりはなかったの」

「いえ、どう答えようか迷っていまして。そのお話は初めて聞きましたし、高淑儀様のお人柄も友好関係も分かりませんから」


 雪玲は膝に視線を落として考える。彩妍が箝口令を発しているので真意を語ることはできない。かといって、適当に答えるのも駄目だ。崔婉儀は妙に鋭いところがある。


「そうよね……。私の勘違いかもしれないし」


 とたとた、と回廊から足音が聞こえる。崔婉儀はその方向へ顔を向けると考えを吹き飛ばすように首を振る。


「今日はこれで失礼するわ。今から高貴妃様の元に行くから」

「高貴妃様は、体調はよろしいのでしょうか?」

「……さあ。会ったことないの」


 悲しげに、面を伏せる。

 花瓶を手にした珠音が入室し、崔婉儀の表情を怪訝に思ったのか不思議そうに目を丸くさせた。


「会いたいけど、会ってくれなくて……。宦官にお手紙を渡して、最近、後宮であったことを報告してるだけなの」


 お返事はいただけないけれど。

 それでも日課になりつつあるのだと、崔婉儀は悲しげに笑い、遠くで遊ぶ侍女と紅嘉を呼び寄せた。全員が集まるのを確認すると、膝を折り、退室する旨を伝える。

 踵を返して扉に向かう一行に、雪玲は慌てて声をかけた。



「あの、私も着いていってもいいですか?」



 その言葉に、珠音が「は?」と声を漏らした。

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