第11幕 父、三郎告白の段


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「お父さんが、東京へ行ったんよ」

 照子の声はいつになく、固かった。

 照子は葉書はよく書くが、電話は滅多にかかって来なかった。

 今よりも長距離電話はべらぼうに高いからでもあった。

 九月に入り、暑さも弱まり、夜鳴く蝉の声も弱々しくなっていた。

 夏の終焉でもあった。

 そんな時、珍しく照子が電話をかけて来たのだ。

「それがどうしたん」

「何や、顔がこわばっとった」

「で、何よ」

 いつも照子は、結論、目的を中々話さない。

 正樹はいらつく。

「お父さんを、上野恩賜公園へ連れて行ったらいけんよ」

「もう何云うてるんや」

 ついに正樹も怒った。

 照子は興奮すると、意味不明の単語を叫ぶ癖があった。

 少し落ち着かせて整理させた。

 照子の云いたかったのは、三郎は、上野恩賜公園にある不忍池に飛び込んで死ぬかもしれないと云う事だった。

「なして、わざわざ死ぬのに東京まで来るん。広島にもいっぱい池や川があるじゃろに」

「死ぬ前に一目あんたの顔見て死ぬんだわあ」

「だから何で死ぬの」

 電話口で照子の鳴き声が聞こえ出した。

「母ちゃん、一辺落ち着こう」

「父さん、芥川龍之介の小説にも出て来る、不忍池にはまるんや」

 若い頃、三郎は文学青年だった事は聞いていた。

 広島で同人誌を作り、東京の出版社を訪ねて、自作の小説を披露した話も聞いていた。

「あの顔は死相が出てた」

「何で止めなかったん」

「ちょっと目を離した隙に出ていった」

「で、何で死ぬの」

「さあわからん」

 拍子抜けする照子の答えだった。


 翌朝、三郎が下宿先に直接やって来た。

「どうしたん。母さんが心配しとった」

 正樹は、照子の事を正直に話した。

 三郎は、高笑いした。

「死ぬよ」

「えっ!やっぱり!」

「人間誰でも死ぬ。一度はな」

「そんな事じゃなくて」

「今は死なない」

「安心した。で、今日わざわざ東京まで来た理由は」

「調査報告じゃよ」

「調査報告?」

「もう忘れたか。わし、探偵じゃよ」

「ああ、思い出した」

 東京駅の喫茶店で話したのを思い出した。

 あの時、「探偵」につく話をしていた。

「その報告って」

「実は、正樹の・・・」

 それは俄かに信じられない、受け入れられない話だった。

 今月、九月は東京公演。

 国立劇場では、


「伊賀(いが)越(ごえ)道中(どうちゅう)双六(すごろく) 沼津の段」


 が上演されていた。

 太夫  福竹梅太夫

 三味線 矢澤竹之輔


 旅人十兵衛は、駕籠かき平作と出会う。

 十兵衛は、平作が実は数十年前に別れた実父に気づく。

 しかし、今は敵味方に分かれていた。


 三郎の話は、にわかに信じられないものだった。

 正直に正樹は、三郎の「調査報告」を上条に云った。

「確かめに行こう」

 上条は断言した。

「本当にいいのか」

「本当も何も、本人の口から聞くのが一番じゃないのか」

「でもきみのお母さんや妹さんがどう思うか」

「いや、その前にきみの事が一番だろう!」

 上条の語尾は険しかった。


 上条の父、光蔵は今年の一月から体調を崩して入退院を

 繰り返していた。

 個室には、秀美、母もいた。

「ちょっと、正樹くんとお父さんだけにしてやってくれ」

 上条がいきなり云う。

「何で」

「重大な話があるそうだ」

「でも」

 秀美はまだ何か云いたそうだったが、上条が手を繋いで出た。

「上条社長」

「ああ、正樹君か」

 かすれ声だった。

「国会議事堂公演、赤坂迎賓館公演おめでとう」

「有難うございます」

「やっぱり中田は、約束守る男やのう」

「中田?お父さん、中田首相とはお知り合いなんですか」

「ああ、同郷のよしみじゃ」

「あっ」

 と正樹は思わず小さく叫んだ。

 そうだった!

 何で今まで気づかなかったんだ。

 中田首相も上条も生まれは新潟だった。

 たどたどしく話す光蔵。

 国会議事堂公演では、光蔵が水面下で動いたのだった。

 赤坂迎賓館公演では、春葉、波頭に加えて光蔵も動いてくれたのだ。

 正樹の知らない所で、大勢の大人が動いていたのだ。

 感謝しかなかった。

「何かあるんだろう」

 光蔵から云い出した。

 正樹は、三郎の云った言葉をそのまま口にした。

 光蔵は、天井を見つめ、じっと黙っていた。

 そして・・・

「外にいる家族を呼んでくれ」

「いいんですか」

「構わぬ。さあ早く」

「わかりました」

 正樹は云う通りに上条、秀美、夫人を呼ぶ。

 一同が光蔵を取り囲んだ。

 ゆっくりと言葉を選ぶ。

「正樹君のお父さんは三郎さんじゃが、本当の父親がいる」

「父さんが知っているんだね」

 上条が聞く。

 光蔵は微かにうなづく。

「誰?正樹くんの本当のお父さんは」

 光蔵の唇が震える。


 目の前の出来事と共に、正樹には国立劇場で上演中の

「伊賀越道中双六 沼津」

 がオーバーラップする。

 自害して死にゆく父は、本当の息子と判明した十兵衛に、敵討ちの逃げ延びる先をついに聞き出そうとしていた。


 現実も、死に行くのは光蔵。

 光蔵=平作

 正樹=十兵衛

 脳裏の中は、そうなっていた。


 正樹には、国立劇場で上演される、梅太夫の語り、竹之輔の義太夫三味線の鳴り響きがオーバーラップする。

 平作は腹を切り、命をかけて敵討ちの場所を聞く。

 十兵衛は、忠義よりも家族の絆を取りついに話し出す。

 今、死のうとする平作に向けて十兵衛はついに決断する。


 平作「こなたとわしは敵同士。志津馬様の縁ある此親父を手にかけ殺したれば、頼まれたこなさんの男は立つ、この上のお情けには平作が未来の土産に敵の有かを聞かして下され、外に聞く者は誰もない、今死ぬる者に遠慮はあるまい。

 一生の別れ、一生の頼み、聞かずに死んでは迷いますわい、お願いじゃ旦那さん」


 ♬

 子故の闇も 二夕に分けて

 命を塵芥須弥大海にも 勝りたる

 誠の親に 始めて逢い

 名乗りもならぬ 浮世の義理

 孝行の仕納め

 

 十兵衛「今十兵衛が口から云うは、死んで行くこなさんへのはなむけ、今端の耳に、よう、聞かれっしゃれや。

 沢井又五郎が落ち着く先は、九州相良、道筋は三州吉田で逢うた人の噂さ、親父様是でゆるして下さんせ」

 平作「かたじけない。あれを聞いたか、聞いたものはない、聞いた親父たった一人、これで成仏いたします」

 ♬

  親子一世の 会い初めの

        逢い納め


 哀愁と執念を決めた梅太夫の語りに、哀切の竹之輔の義太夫三味線の音色が重なる。

 正樹は、病室にいるのに、梅太夫の語り、竹之輔の義太夫三味線の音色がはっきりと聞こえた。

 正樹の身体は、病室なのに、耳は、国立劇場と病室を行ったり来たりしていた。


「正樹の実の親父は」

「実の親父は」

 ぐっと一同は身を乗り出す。

「このわしじゃ」

「何ですって!」

 妻の順子が叫ぶ。

「嘘!正樹くんが、私と兄弟なんて嘘!」

 秀美も叫ぶ。

「本当ですか」

「その証拠は」

「その証拠は」

 光蔵は、震える手で、正樹が持っている義太夫三味線を指さす。

「さお・・・」

「棹?」

 正樹は、棹をよく見た。

 棹には、猫の彫り物がしてあった。

 よく見ると猫の額に「上条」、尻尾には「光蔵」と彫ってあった。

「それと肌身離さず持ってるお守りをよく見ろ」

 2年前、正樹は、文楽研修生となり上京した母、照子から車内で渡された松尾大社のお守りを思い出した。

 いつもポケットに入れていた。

 すぐに取り出した。

「裏。そ・・・こ。・・・底」

 お守り袋の裏生地の底を見る。

 そこには、上条光蔵・坊屋照子の文字が糸で綴られていた。

「親父どん!会いたかった、会いたかった」

 光蔵に抱きつきながら、脳内を「文楽・沼津」が駆け巡る。


 十兵衛「親父様平三郎でございます」

 平作「おお兄かい、逢いたかった、逢いたかった。顔が見たいわい」

 十兵衛「ごもっともでございます」

 平作「兄よ、早う苦痛を止めてくれ」

 十兵衛「親父様、ご念仏をおっしゃって下さりませ」

 平作「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」

 十兵衛「親父様のご臨終じゃ南無阿弥陀仏」

 ♬

 唱うる十念十兵衛が こたえかねたる

 悲嘆の涙

 始終伺う池添が 小石ひろうて

 白刃のかね合わす

 火陰は親子の 名残りあとに見すてて


 しっかりと手を握りしめて正樹は泣く。

 その涙に釣られて上条、秀美、順子をも泣き出した。

 死出の旅立ちのたむけに、正樹は義太夫三味線かき鳴らす。

 バチとお守り袋をぎゅっと握りしめて、義太夫三味線の音が病室を這う。

 哀切と寂寥、そして正樹の熱き感情を携えて、義太夫三味線の音が病室にいる光蔵とその家族のこころのひだに染み渡る。

 静かに上条光蔵は息を引き取った。


 葬儀は、青山斎場で行われた。

 秀美は、正樹と異母兄弟と分かり、相当なショックを受けていた。

 癒されるのには、時間が必要だと兄の上条も正樹も思った。

 骨拾いに正樹の参加も許された。

「正樹君と兄弟だなんて」

 何度も秀美はつぶやく。

「ごめん」

 正樹も小さく返答する。


 下宿先の大家の堀川小町も参列した。

 梅太夫も参列した。

 葬儀の帰り、梅太夫は、この日初めて正樹の下宿先にやって来た。

 一緒に帰り、一階の広間でくつろいでいた。

「久し振りやな」

 梅太夫は、ぐるりと部屋を見渡す。

「えっ以前来たんですか」

「ああ、ちょっとした事件でな」

「事件?どんな事件ですか」

「その話は、物語の主人公が帰って来てからや」

 話をはぐらかされた。

 夕方小町が帰って来た。

「師匠、おられたんですか」

 小町は驚いた。

「小町さん元気か」

「はい」

「お父さん元気か」

「多分、元気かと」

 梅太夫は、さらにもう一人誰かを待ってる様子で、何か落ち着かない様子だった。

 そして玄関に人の気配がした。

 小町は飛び出して迎えに行く。

 戸を開けて入って来たのは、頭取の原田だった。

「原田さん」

「すんません。遅れまして」

「これで登場人物全て揃うたな。ほなら初めよか」

 一体これから何が始まるのか、正樹には皆目見当がつかなかった。

「小町さん、わし、お父さんから預かり物あるんや」

 テーブルの上に差し出したのは、達筆な手紙だった。


「町子へ

 赤坂迎賓館公演で、わしは、正樹くんが奏でる義太夫三味線、古典の素晴らしさを改めて認識させられた。

 (葛の葉 子別れの段)は、歌舞伎にもなっていて馴染みがある。

 不覚にも涙が止まらなかった。

 葛の葉と自分を重ねていた。

 町子とも久しく逢ってない。

 もう老い先短い。

 全て許す。

 一度伊予北条に戻って来てくれ。

 原田君も連れてな

          波頭政治より   」


 小町は、手紙を読みながら泣き出した。

 隣の原田も拳を握りしめて、涙をこらえていた。

「正樹君、この二人は昔、駆け落ちして、心中を図ったんじゃ」

「心中!死んだんですか!」

「阿保!、未遂に決まってるやろ。成し遂げてたら、二人ともここにはおらんやろ」

 梅太夫が話し出した。

 心中しようと二人が向かったのは、大阪曽根崎。

 近松門左衛門作「曾根崎心中」を実行したのだ。

「ちょっと待って下さい。江戸時代の曽根崎と今の曽根崎違いますよね」

「お前もそう思うか。そうやろう。曽根崎て、大阪キタの歓楽街やがな」

「ちなみに、曽根崎のどこで心中しようとしたんですか」

「蜆(しじみ)川(かわ)辺りで決行しようと」

「今はないですって!」

 思わず正樹は突っ込んだ。

 近松門左衛門の浄瑠璃の舞台だ。

 今は埋め立てられて、キタ新地の道となっていた。

「それ江戸時代の話ですって」

「そうやろ。ほんまに阿保な奴。さらに阿保くさい事しよったんや」

 梅太夫の話は続く。

 二人は、着物来て、頬かむりしての道行を実行したのだ。

「けどそれだけやったら、おちゃらけで終わるでしょう」

「二人で蜆川を探して、あっちへうろうろ、こっちへうろうろしてたら、曽根崎署の警察官に見つかってしまいました」

「時間は」

「真夜中です」

「そらあ職務質問されますよ」

「そうやろう。さらにマンの悪い事が重なってな」

 梅太夫が再び話し出す。

 日頃文楽の太夫している人は現実の事件を話す時も上手い。

 要領よくかいつまんで、的確に分かりやすく話す。

 その時、写真週刊誌の記者が文部省絡みの不正疑惑の件で原田を尾行していた。

 肝心の不正疑惑の件は追えず、写真に撮ったのは、二人の心中ごっこだった。

 しかし写真週刊誌は、それを「心中道行」と題して大きく取り上げたのだ。

 二人が警察官に職務質問されている所、二人の曽根崎心中版姿の写真もでかでかと載った。

「その記事で当時、私は国家公務員で、文部省勤務してましたが謹慎処分受けました」

 原田が説明し始めた。

「でもその事件で、こいつは文部省を追い出されて、文楽協会に拾われたんじゃ」

「表向きは出向の形でしたが、実質片道切符でした」

「まだ首にならんだけましや」

 原田は文楽好きなのを知っていた上司の計らいだった。

「あのう、そもそもそれで何で死のうと思ったんですか」

 正樹は一番聞きたかった事を口にした。

 原田は、町子を見た。

 町子はこっくりとうなづく。

「結婚の許しを町子のお父さんから得られなかったんです」

「何でですか?国家公務員ですよ。固い仕事じゃないですか」

「時期が悪かった」

 梅太夫が原田の話をさらに説明した。

 当時、文部省の不正疑惑事件が大きく取り上げられていた。

 だから反対されたのだ。

「でも原田さん直接関係ないでしょう。それに結婚は当事者同士の問題のはずです」

「そうや、それでええのや。原田はくそ真面目やから出来ない。ほんま阿保な二人なんや」

「小町さん、伊予の人だったんですね」

「はい。本名は波頭町子です」

「道理で、アクセントが四国だと」

 階下で時折聞こえる小町のイントネーションはどこか正樹の故郷広島に近いけど、少し違うものだとずっと思っていた。

「皆さんご存知でしょうけど、父はこよなく近松門左衛門を愛してました。原田さんが、文部省官僚から、文楽の世界に行くなんて、絆と云うか、縁を感じます」

「ほんまやな」

 梅太夫が答えた。

 この一件で、あの赤坂迎賓館での波頭の言葉、「許す」が氷解した。

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