第55話『分かたれぬ繋がり』
戦艦『エジンコート』がオークニー諸島に姿を現した頃には、戦いの模様は新聞やラジオで報じられた後だった。
スカパ・フローに戻った彼女は戦いで負った傷を港の者たちに見せつけ、そして彼女の傷と共に死傷した者たちを陸へと下ろす。
無愛想な塔型艦橋の横っ腹に空いた風穴は、戦艦『ビスマルク』の十五インチ砲弾が残した傷跡だと思われた。
別名『アン女王の館式』とも言われるこの塔型艦橋は、英国の近代化された戦艦や新型戦艦に用いられたもので、戦艦『エジンコート』はそのプロトタイプに当たる。それまでの伝統的な三脚マストに、非装甲の仮面を取り付けたこの奇抜なスタイルは、装甲は断片防御のみに留められ、容積増加と軽量化を同時に果たすために考案されたものだ。結果としてこの『アン女王の館式』は従来の三脚マストとは比べ物にならないほどの空気抵抗を生み、それまでの操舵性に一癖加える始末となった曰くつきの代物だった。
航行中に行われた損害調査では、エドモント・K・ヒューム准将を含む司令艦橋に詰めていた十二名全員が即死したことが分かっていた。
貫通後に炸裂した十五インチ砲弾の鉄片によって、非装甲の艦橋にはまるで白蟻でも入り込んだような小さな穴が無数に穿たれ、その先に運悪く配置されていた人員が死傷していた。
ヴィクスのいた羅針艦橋では士官候補生三名が鉄片と砕け飛んだガラスが頭蓋を貫き即死し、他にもヴィクスを合わせた八名が負傷、左舷側の張り出しにいた見張り員は蒸発したのか依然として行方不明だった。
そして、副砲弾の命中を受けた水曜日砲塔は撃発装置の不具合により戦闘中に砲塔爆発事故を起こし、水曜日砲塔だけで戦死九一名の損害を負っていた。
水曜日砲塔の砲塔付士官であるイーファ・オドンネル大尉は開戦時からずっと戦艦『エジンコート』に奉仕していた者で、シャルンホルスト級二隻との海戦でも従軍していた。彼女は撃発装置の不具合で左砲が筒内爆発を引き起こし、砲塔内火災に発展した時、重傷を負いながらも内側から隔壁を閉鎖し破滅的結果を避けるために注水を求めた。ベルファスト出身のアイルランド士官、イーファ・オドンネル大尉の遺体は水曜日砲塔の中で黒焦げになって発見された。コルダイト装薬の燃焼により水曜日砲塔は内側から激しく燃え、ほとんどの水兵たちが焼死したが、誘爆爆沈という破滅的結果は避けられた。九一名の命が、戦艦『エジンコート』と残る一〇〇〇名もの命を救ったのだった。
統計した数として戦艦『エジンコート』は戦死一〇六名、重傷者は全体で二四名、行方不明者一名を出した。水曜日砲塔は完全に使用不可能となり、これを完全に交換すべきかバラストを積んで封印すべきかという議論が進んでいる。
同時に、この追撃線で臨時指揮を執ったウェイク=ウォーカー少将、戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』艦長のジョン・リーチ大佐、戦艦『エジンコート』艦長マリア・ヴィクス大佐に対して軍法会議を開くべきだという声が上がっていた。前者二名は巡洋戦艦『フッド』を喪失後、戦艦『ビスマルク』との交戦を継続しなかった敵前逃亡について。そして戦艦『エジンコート』艦長のマリア・ヴィクス大佐は不必要に戦艦『エジンコート』を危険に曝し、一〇六名もの戦死者と無視できない損傷を被ったことについてであった。
本国艦隊司令長官にして前線に参じていたジョン・トーヴィーは、この馬鹿々々しい批判に対して己が職を掛けて反論した。
その結果、三名に対しての軍法会議が提案されることは、二度となかった。
一方、戦艦『ビスマルク』の戦死者は膨大な数となった。
救助活動中にUボートが付近にいると警報が発せられたために、英国海軍と臣民海軍が救助できたのは合計でわずかに一七四名にとどまった。
戦艦『ビスマルク』には二〇〇〇人以上の将兵が乗っていたにもかかわらず。
――――――
マリア・ヴィクスが軍病院で戦艦『エジンコート』艦長の職を降ろされたことを知ったのは一九四一年、六月三日のことだった。
左目と左腕に包帯を巻きながらも自力で歩くことのできる彼女は、日曜には教会でミサに参加し、気軽に散歩をこなして復職に備えていた。いくつもの裂傷で傷跡が残ってしまうことを気にした彼女だったが、頭の傷は髪で隠せる、手と腕の傷は長袖と手袋で隠せる、と話していた。彼女の負傷はガラス片による裂傷がほとんどで、アガサ大尉の手でガラス片の摘出と縫合が迅速に行われたこともあって経過は順調だった。
しかし軍法会議騒ぎのためか艦長の解任、そして健康上の懸念から療養のため陸上勤務職の臣民海軍本部幕僚長付参謀の任が与えられ、回復後に彼女が戦艦『エジンコート』に戻ることはない。
だからというべきか、戦艦『エジンコート』が応急修理を受けている間に、軍病院にニーナ・マクミラン大佐が贈り物を携えてやって来た。
「戦艦『エジンコート』はアメリカで本格的な修理を受けることに決まりました」
小さな小包をヴィクスに手渡し、マクミランは略帽を脇に挟んで椅子に座った。
襟や肩には真新しい大佐の階級章が縫い付けられていて、それをヴィクスは誇らしい気分で見つめた。将来は私よりも出世しそうだと彼女に言ったのが、もう数年前のことのように思えた。
「そうか。大西洋を越えるんだな」
「ええ、バーミューダに寄港し点検を。そこからはノーフォーク海軍造船所へ行くそうです。砲塔の交換は見送られ、水曜日砲塔は封印されることになりました」
「オドンネル大尉、いや、中佐か」
「彼女は、ヴィクトリア勲章が叙勲されることになりました。ユトランド沖のフランシス・ハーベイのようだと新聞に書かれて、彼女の遺族に対する寄付を募ってるそうです」
「それは……良かった」
「ヒューム准将についての話は、もう聞きましたか?」
「………ああ、ボラン少佐から聞いた。チャーチルもパウンドも死人には興味がないらしいと、憤っていたな」
「ボラン少佐らしい」
「ああ、とても彼女らしい」
とても、と繰り返し呟きながら、ヴィクスは小包を開けて中のものを取り出した。
それは小さな金属でできた円形の
円形の紋章は戦艦のものであることを表している。そこにある文字は見間違えようがなく『AGINCOURT』だった。戦艦『エジンコート』の
「艦長へ、皆からです。―――紋章の意味をご存じで?」
「いいや、私は紋章学には疎いんだ。君は知っているのか、マクミラン大佐」
「もちろんです。ヤシの枝は勝利、征服、平和、そして永遠の命の源の象徴として、そしてアンテロープはヘンリー五世の紋章から戴いたものだそうです」
「ああ、アジャンクールか」
「シェイクスピアのヘンリー五世は知っていますか」
「ある程度は」
指先で艦紋章を弄び、その艦名をそっとなぞりながらヴィクスは口元を緩めながらマクミランに言った。
「諸君、もう一度突破口へ……の後だろう?」
「……そうですね。第四幕のほうです。意地が悪いですね、艦長」
「マクミラン大佐がヘンリー五世を知っているかどうか、試しただけだよ」
小さく笑みを浮かべつつ、ヴィクスは呟く。
―――我々は、我々幸福なる少数は、兄弟の集まりだ。
今日わたしと共に血を流す者はわたしの兄弟となるだろう。
どんな卑賎な者も今日を以て貴紳と同列となろう。
その部分だけで充分だ、と言いたげに、ヴィクスはマクミランを見た。彼女もその部分だけでを聞きたかったと言いたげに、ヴィクスに静かに頷いて見せた。
兄弟姉妹、同胞、家族、多くの言葉が強い絆を表しているだが、どんな言葉も共に戦い共に生き、共に死に曝されるほどの絆を表してはくれない。血は水よりも濃いとは言うが、その絆は血すらも超越した特別な絆、繋がりなのだと彼女らは知っている。
それは誰にも分るまい。この繋がりは、決して分かたれぬ。
今や我らを分かつものなし。たとえどのような大洋を跨ごうとも、たとえどのような大陸を越えようとも。この繋がりだけはきっと、我らを繋ぎ続けるだろう。
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