第54話「死の騎行」

 本国艦隊の戦艦『キング・ジョージ五世』及び『ロドネー』を中核とする戦隊と、戦艦『エジンコート』率いる第11戦隊は完全に戦艦『ビスマルク』を捉えていた。

 数は少ないものの英国海軍はすでに艦載レーダーを搭載し、これを利用する術を対Uボート用に日夜研究しており、臣民海軍においても軽巡洋艦『エンフォーサー』に271型レーダーが搭載されている。

 戦艦『ビスマルク』の正面左側より、本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将座乗艦である戦艦『キング・ジョージ五世』と戦艦『ロドネイ』がやや斜陣形気味にやってきた。

 そしてより先行する形となって、戦艦『ビスマルク』の前に現れた艦があった。

 全長210.7メートルの細長い船体にありったけの砲塔を載せた奇妙な艦形は、不思議と血祭りにあげた巡洋戦艦『フッド』の優美な船体を思い起こさせる。

 英国の近代化された戦艦にありがちな塔型艦橋に、変に傾斜した煙突から小さなマストが伸びていて、不細工なデリックがあり、単脚マストを有する後部艦橋がある。

 奇妙なシルエットをしたその艦は、連装七基十四門の十三.五インチ砲の砲門を向け、黒煙を棚引かせながら戦艦『ビスマルク』の舳先に陣取っている。

 それこそが赤錆と埃に塗れた鬼子、そしてこの場において唯一ユトランド沖海戦の記憶を持つ歴戦の老女オールドレディであり、海原に浮かぶ弾薬庫である『臣民のエジンコート』だった。

 5月27日、8時47分、戦艦『ロドネイ』が発砲し、それに続いて戦艦『キング・ジョージ五世』が主砲を放った。


 8時49分、戦艦『エジンコート』もそれに続く。

 8時50分、戦艦『ビスマルク』のA砲塔の応射が戦艦『エジンコート』を捉えた。



―――


 最初に感じたのは足元から突き上げるような衝撃だった。

 マリア・ヴィクスがその衝撃に身体を屈めて姿勢を低くした瞬間、今度は左舷側で猛烈な閃光と衝撃が発し世界が崩壊した。次に彼女が認識できたのは、血の匂いと硝煙の匂いが交じり合った空間と、自分がどうやら艦長席から投げ出されたということだけだった。

 鼓膜が破れたのか、衝撃で聴覚がおかしくなったのか、立ち上がってなお彼女にはなにも聞こえなかった。

 しかし右目だけはしっかりと動いていることが分かったので、彼女はまっさきに艦橋を見渡し、そらに倒れている士官の肩を掴んで立ち上がらせた。節々の痛みをいつものように無視して、彼女が左舷側を確認すると、そこに立っていた士官候補生たちが破片まみれになって血反吐を吐いているのが見えた。

 破砕された艦橋の窓ごしに左舷側の張り出しを確認するが、ひしゃげて黒ずんだ鉄屑が付着しているだけだった。ここにいたはずのあの赤毛の見張り員は蒸発したのかと酷く冷えた感想が彼女の中に訪れたが、ヴィクスはよたよたと艦長席に戻る。

 席に食い込んでいた焼けた鉄片やガラス片を右手で薙ぎ払い、いつもの席に座り込んだ彼女の右耳に、ようやく音が戻ってくる。



「―――艦長!」



 いったい、誰の声だろうか。



「誰だ? ……誰でもいい、頼む、損害報告を頼む」

「艦橋の伝声管の一部が破損しています。伝令を出しましょう!」

「許可する。―――ヒューム准将は、どうだ。……ローレンス?」



 ようやく、ヴィクスはその声がシルヴィア・ローレンスのものだと認識することができた。

 身体がいつもより重いとヴィクスは感じ、左側のあちこちが酷く痛むことにようやく気が付いた。

 いやだな、と彼女はぼんやりと思う。

 今ここで左腕を失くしたら、私は夫も子供も抱きしめられないじゃないか。



「回線不通です、艦長」

「後部艦橋に臨時指揮を……。君が行け、ローレンス少佐」

了解アイ・マム



 シルヴィア・ローレンスの反応は素早かった。

 彼女は乱れた髪も破れたコートにも構わずに艦橋を走り去っていった。あのローレンスがこんなに立派になったのだ。それがとても誇らしい。

 その瞬間にまた戦艦『エジンコート』の十三.五インチ砲が咆哮し、戻りかけた五感が再びおかしくなりそうになった。

 マーガレット・ボラン少佐は、どうやら戦争を続けているらしいとそれで分かった。

 まだ、戦艦『エジンコート』は戦っている。

 私やここで横たわっている死人や、怪我人たちの血を啜って、なおも。



「………」



 ゆったりと艦長席から立ちあがり、マリア・ヴィクスは横たわっている士官候補生の肩を叩く。

 死人であれば彼女はその開きっぱなしになっている瞳を静かに閉じてやり、生者で動けるようであれば医務室に行けと命令した。動けないようであれば、マリア・ヴィクスは止血するようにと言い、そうやって艦橋の生き残りを統制した。

 彼女は駆け付けたアガサ大尉の部下に止められるまで、艦橋の士気と統制を保った。

 マリア・ヴィクスは負傷しており、左腕の複数のガラス片が食い込み出血し、右手にも裂傷を負っていた。

 頭部にも外傷があり、そこから噴き出した血が固まって左瞼と左耳を塞いでいたのだ。

 彼女は応急処置を受け、この戦いで再び指揮を執ることはなかった。

 だがマリア・ヴィクスはいつもそう覚悟していたように、部下たちを優先させた。

 彼女は、自分の負傷具合を何度も訴えられても搬送を拒み、最後に艦橋を降りた。



―――



 それは戦艦『ビスマルク』の最初で最後の航海の、もっとも厳かで激しい一幕となった。

 戦艦三隻からの砲撃を受けて彼女の武装は破壊され、艦橋に被弾した一撃で艦隊司令長官のギュンター・リュッチェンス中将は戦死し、次々に砲弾が命中し炸裂した。

 徐々に接近する戦艦三隻の砲撃に巡洋艦も加わると、それは戦闘というよりは一方的な殺戮、あるいは屠殺の様相を呈し始めた。

 恐るべき性能を誇る十五インチ砲、その四基ある砲塔はすべて破壊され、彼女には抵抗する術はない。

 あちこちで炎が吹きあがり黒煙が立ち昇って曇天の空に消えていく中、それでも戦艦『ビスマルク』は浮いていた。

 わずか距離三〇〇〇メートルにまで接近した戦艦『ロドネイ』が砲撃しても、彼女は廃墟のようになりながらもしぶとく浮かび続けた。

 あらゆる砲火に曝され、戦艦『ビスマルク』は焼け爛れ、完膚なきまでに破壊された。

 燃料と砲弾残量が心もとなくなった戦艦『ロドネイ』と『キング・ジョージ五世』が離脱をはじめた。

 午前10時15分頃には戦艦『ビスマルク』の甲板から、彼女の乗員たちがようやく脱出を始めたようだった。大きく左に傾斜し黒煙と炎を舞い上げながら、なおも微かに前へと進む彼女に置いていかれたように、海面には彼らが点々と散らばっていた。

 そしてもはや存在することしかできなくなったこの悲しき巨艦に、重巡洋艦『ドーセットシャー』が魚雷を撃ち込み、それが彼女にとっての慈悲の一撃となった。

 戦艦『ビスマルク』の艦尾が切断され、左舷に急速に傾いて、艦首を持ち上げた。


 1941年5月27日午前10時40分、ドイツ帝国海軍の戦艦『ビスマルク』は、数百発の砲弾の雨を耐え忍んだ末に海底へ向かって沈んでいった。

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