第53話「守護天使らは斯く歌えり」
戦艦『ビスマルク』がどのような軍艦であるか、それをことさら述べ立てる必要はない。
それは帝政の灰の中で生まれた巨大な鋼鉄の化け物であり、積年の怨嗟を背に受け育まれたナチス海軍の象徴だった。
先行する『ドイッチュラント級ポケット戦艦』や、ましてや『シャルンホルスト級巡洋戦艦』とはまったく別物の船だ。
戦艦『ビスマルク』は明確に英国海軍の戦艦を撃破するために建造された艦であり、それはすでに巡洋戦艦『フッド』の喪失により達成されていた。
巨大かつ堅牢なドイツの戦艦は、強力な三八〇ミリ砲を以てして処女を切り、これより大洋の同胞としてなお英国に盾突くことになんら疑念の余地はない。
明確に脅威である敵に対する行動は、特に時間に猶予がない場合、
これを徹底的に叩きのめし、二度と水上艦による攻撃など思いつかないようにしてやる。
ヴィルヘルム二世とティルピッツが夢描いた大艦隊に泥を塗りつけ、海軍大国とはいかなるものかというものを思い知らせてやったように。あのユトランドと同じく、すでに血は存分に流されたのだ。
―――そして、その血は血をもってして贖ってもらう。
戦艦『ロドネイ』『キング・ジョージ五世』そして『エジンコート』を主力とした艦隊は、渾身の力を込めて海原を駆けていく。
英国海軍はすでに戦艦『ビスマルク』を破滅させんとして、大西洋上に展開する戦力を集結し、何度も立ち向かっていた。
空母『ヴィクトリアス』艦載機の攻撃、忌々しい天候による失探、そしてカタリナ飛行艇による再捕捉、風速二〇メートルという極限状態の中行われた、空母『アーク・ロイヤル』艦載機による雷撃。
船団護衛任務中に駆り出された、チビで勇ましい第4駆逐隊による夜間攻撃。
それらがあってようやく、戦艦『ビスマルク』の足並みは崩れ、初陣で疲れ果て
5月27日の朝、時計を確認しながら艦長であるマリア・ヴィクス大佐は艦橋で砲撃を命令した。
「諸君、我々の義務を果たそう」
「「「アイ・マム」」」
いつものように、マリア・ヴィクスは戦闘艦橋には下りずに艦長席にしっかりと腰を据えていた。それがヴィクスなりの身体の張り方であり、艦の長として自分に課した義務だった。義務は果たされなければならない。いつ何時であれ、たとえ死の淵に立とうともそうあらなければならない。呪いのようなものだ。
エドモント・K・ヒューム准将は司令艦橋に籠ったままで、時折思い出したかのように伝声管で状況報告をするようにがなっている。それが利になればいいのだが、どうもそうはならなそうだった。
戦艦『ロドネー』と戦艦『キング・ジョージ五世』と足並みを合わせるはずが、第11戦隊は戦艦『ビスマルク』の艦首軸線上に乗るような軌道を取っている。
あのエドモント・K・ヒュームは、遥かに上官である本国艦隊司令長官のジョン・トーヴィー大将と無為な衝突を繰り返し、自分の我を通したのだ。
装甲に問題のある戦艦『エジンコート』が恐るべき『ビスマルク』の前で、その長大な横っ腹を曝け出すことをトーヴィー大将は危惧したが、復讐に燃えるヒュームには些末な問題だったのだ。
この戦いが無事に終わったとして、いったい誰の首が飛ぶのかは明らかだとヴィクスは苦虫を噛み潰したような思いをしたものだ。
そんな苦い思い出を泥水のような冷めた珈琲で流し込み、ヴィクスはすべきことをするべきだと覚悟を決めた。苦く深みのある珈琲が身体の中を潜り抜け、腹の底に溜まるのが分かった。
単縦陣を組む軽巡洋艦『エンフォーサー』と防空巡洋艦『クーロン』もまた、気が気ではない思いをしながら戦闘に備えている。戦艦でさえ危うい戦闘機動を、この老い耄れ戦隊はやってのけなければならない。
こうしている間にも、戦艦『エジンコート』の七基十四門の全砲門に砲弾が装填され、装薬が押し込まれ尾栓が閉鎖され、砲塔が目標目掛けて旋回する。
海上を航行する巨大な要塞が身震いをするかのように動作し、それが完璧に目標を捉えたのだ。同じように戦艦『ロドネイ』と『キング・ジョージ五世』、重巡洋艦『ノーフォーク』『ドーセットシャー』が、波を乗り越え砲門を巡らす。
決して天に恵まれた空ではなかったが、しかし、ヴィクスにはたしかに『ルール・ブリタニア』の一節の歌声が聞こえた。
この世の初めに神の命を受け碧海の中より産まれ出でたブリタニアに、「これこそ証、国の証ぞ」と守護天使らは斯く歌えり。
統べよ、ブリタニア! 大海原を統治せよ。
ブリトンの民は断じて、断じて、断じて、奴隷とはならじ、と。
我らブリトンの
『こちら砲術長、目標までの距離
「よろしい。戦艦『ロドネイ』及び『キング・ジョージ五世』の発砲を待って斉射せよ」
『
マーガレット・ボラン少佐の応答を聞き、ヴィクスは艦内で部署に付く乗員たちのことを頭に思い浮かべた。
厚いバーベットの中の揚弾器で働く者たちや、砲塔で主砲発射に備える者たち、そして測距儀の側でしゃがみ込んでいる砲員たち。
応急処置班にはあらゆる部署から人員が結集され、魚雷や砲弾による損傷を一秒でも早く応急処置するためにあらゆる準備を行っている。
開戦からこの老女と共に戦い続けてきた水兵、士官たち。
この老いぼれはたしかに真新しい戦艦と比べて非力だが、だがたしかに我々と共に海原で戦ってきた。赤錆と埃にまみれた過去から生まれ変わり、ユトランドを経てこの老女はここにいるのだ。
もはや、誰にも迷いなどなかった。
―――
無愛想な塔型艦橋の上には、装甲に囲まれた方位盤射撃指揮所がある。
砲術長であるマーガレット・ボラン少佐は、元より迷いや不安など抱かずにいた数少ない士官の一人だった。如何なる苦難であれ困難であれ、彼女の前に立ちふさがるならばそれらはすべて同様に彼女の敵だった。敵に対処する方法はいつだって一つだけだ。
広いとは言えない方位盤射撃指揮所では人員が忙しなく動き回っているが、それでも誰かと誰かが激突するようなヘマはなくなっている。
戦艦『エジンコート』がマリア・ヴィクスの王国であるならば、方位盤射撃指揮所はボランの領地だ。
長らく素人集団であったこの連中も、ようやくまともになったのだとボランは珍しく口元に笑みを浮かべ、領民らを眺めた。電話手、砲員、弾着観測士、測的士、方位盤照準手、旋回手、旋回手補佐、どいつもこいつも今では愛しいとさえ思えた。
彼女は戦艦『ビスマルク』についてよく知っていた。
英独海軍協定でドイツに許可した上限は条約排水量とも言える三万五千トンだが、あの化け物がその程度で収まっているわけがない。
歴史的にドイツ戦艦は極めて
どう考えても四万トンは下らんだろうと、ボラン少佐は常々思っていた。
英国海軍の比率で三十五%までの保有を許可する? 潜水艦は英国比六〇%? 商船攻撃には使用しないこと、だと?
奴らが守れたのは精々のところ、自らの自惚れによって満足な海軍も整備出来ぬまま開戦に至ったせいで、三十五%以下の軍艦しかない程度ではないか。
忌々しい宥和主義者どもめ、とマーガレット・ボランは舌打ちする。奴らのせいでストレーザ戦線は使い物にならなくなったのだ。せめてオーストリア=ハンガリー二重帝国の末路のように、そしてナポレオンのように、我らでドイツを分割してしまえばよかったのだ。
神聖でもローマでも帝国ですらない有象無象の集まりの時代に、奴らを追い詰めれば、二度と勝ち目のない戦争など思いつかずにベッドの上で自らの図々しさとどうしようもない妄想癖に悪態をつきながら死ねただろうに。
「やるぞ、お前たち。『フッド』の仇討だ」
まるで吐き捨てるかのように、ボラン少佐は言った。
あの肥え太ったドイツの鉄屑一隻では、あの『フッド』に対する手向けとしてはあまりにも価値がないが、今ここで手向けられるのはあの船以外にない。
十五インチ連装砲四基八門、強固な装甲防御と巡洋戦艦なみの高速を誇る、あの船だ。
そんな船の前に戦艦『エジンコート』は横っ腹を曝そうとしている。
エドモント・K・ヒューム准将とマリア・ヴィクス大佐の重い空気に関しては、士官の中で知らない者はいないだろう。
あの古い時代の予備役准将が、理性を失っていなければいいのだがと誰もが思っている。
「……トーヴィーもお冠だろうさ」
本国艦隊司令長官の名前を口の中で弄び、マーガレット・ボランは照準器を覗き込む。
そこには、霧の中より現れた黒鉄の猛獣が映っていた。
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