第52話「円形闘技場」

 戦艦『エジンコート』がその船体を震わせながら、21ノットの壁を破った。

 延長された艦首は北大西洋の波を切り裂き、吹きあがった海水がまるでモーセの海割りのように艦の左右に落ちていく。

 巡洋戦艦然とした細長い船体が主機の唸りをガタガタと伝える一方で、大西洋の海を客船のように航行している。優美で優雅に、まるで戦艦であることを忘れ、そうあれかしと作り上げられた船であることをしばらくぶりに思い出したかのようだ。先導する軽巡洋艦『エンフォーサー』やW/V級駆逐艦たちの揺れっぷりに比べたら、この老女の歩みは社交界に出でた貴族家の姑のようだ。

 後続の防空巡洋艦『クーロン』も戦艦『エジンコート』に負けず劣らずの老いぼれだが、彼女もまた精一杯こちらに付いてきている。

 老いぼれた淑女レディたちの老いぼれた戦隊が、先行する戦艦『ロドネー』と合流できたのは非常に興味深い出来事だった。

 機関不調が常態化していたこの老いぼれが、22ノットと叩き出せたのは奇跡と言っても良い。いったいこの老いぼれにどれだけの力が残されているのかと、乗組員だけでなく、英国海軍の皆が驚いたはずだ。

 ビスマルクを追い立て、破滅させるためだけに、少将旗がはためく戦艦『エジンコート』のみならず、複数の戦艦がこの場にいた。

 ヒューム少将はヴィクスとは会わずに司令艦橋に引きこもり、そこから指示を出してくる。

 彼は今や小うるさい老骨ではなく、復讐心に燃える伝統と歴史ある英国海軍の将官であり、ライミーだった。

 彼が艦内放送で告げた言葉は、的確かつ明瞭で、巡洋戦艦『フッド』の栄光が今や海底にあるということを水兵たちにも伝えた。



『諸君、仇を討つべし』


 

 エドモント・K・ヒュームは、最後にそう言って放送を切った。

 英国の誇りが、世界に名だたる海軍艦隊の誇りが、あのドイツにしてやられたのだ。

 衝撃はある。ないわけがない。

 巡洋戦艦『フッド』は、英国臣民たる皆の心に等しくある。

 その素晴らしい威容が、その素晴らしい規律が、もはや存在せず、砲火によって失われたのだ。

 ならば、我らがすべきことはヒュームの言った通り、仇討しか残されていない。

 北大西洋の風雨に打たれながら、同じ設計者、サー・テニスン・ダインコート卿に産み出された戦艦『エジンコート』と戦艦『ロドネー』が肩を並べる。

 そして四連装砲塔が特徴的なイギリスの新戦艦である新型戦艦『キング・ジョージ五世』が舳先を共にしていた。彼女もまた姉妹艦である戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』をしたたかに痛めつけられ、復讐するに値する。

 かき集めたという言葉にしては、ビスマルク追撃戦に参加する艦艇の数は膨大だった。

 北大西洋の波浪になぶられ揺れる戦艦『エジンコート』の艦橋で、戦列を見るヴィクスにとってもそれは理解できた。

 すでに船団護衛中だった本国艦隊の艦艇はかなりの数が動員され、主力艦だけでも戦艦『プリンス・オブ・ウェールズ』『キング・ジョージ五世』『ロドネー』『エジンコート』空母『ヴィクトリアス』がいる。

 後方にはディーゼルエンジンを吹かしながらゆっくりと空母『セント・ヘレナ』が付いてきているだろうが、北大西洋の荒天ではブラックバーン・スクアの発着艦ができるとは思えない。

 仮にフェアリー・ソードフィッシュならば、風がどれほど性根が悪くとも、海がどれほど不機嫌であろうとも、三人の飛行士たちを乗せて1トン近い重さの魚雷を抱え、飛び立つことができるだろうが。

 それができるのは、おそらく我々ではなく、ジブラルタルにいる空母『アークロイヤル』のみだろう。



「………奴がブレストに戻るが早いか、我らの買物袋ストリングバックが早いか」



 北大西洋の海は地中海よりも性悪で、まるで戦艦『ビスマルク』の味方をしているかのようだ。

 このまま時が過ぎ去れば、あの戦艦はフランスのビスケー湾にまでまんまと入り込んで、精強なドイツ空軍と灰色狼Uボートに出迎えられてしまう。

 そうなればどうなるか、我々が知らないわけがない。

 口先の道化師たるゲッベルスがラジオでがなり始め、偉大なるオーストリアの伍長閣下の聡明さを喧伝する。

 戦艦『ビスマルク』こそがドイツ民族の優秀さの証として、そして巡洋戦艦『フッド』はイギリス没落の象徴として扱われる。

 時代は変わった、新しい伝統が欧州世界に現れるのだ、と。

 マリア・ヴィクスは、そこまで考えてから耐えがたい怒りを覚えた。どれだけ強かに運命に嫌われようとも、どれだけ身体が蝕まれようとも、ついぞ身が震えるほどの怒りなど湧かなかった彼女が憤怒で両手をぎゅっと握りしめていた。そして一言、誰にも聞こえないような声で呟く。 




「―――ふざけるなBullshit




 英国が艦隊を率いて世界を巡り、波頭を乗り越えて敵を倒し、築き上げた伝統はその程度の軽薄なものではない。

 どれほど艦が沈もうと、どれだけの水兵が海原に散ろうとも、我らが大英帝国は諦めて屈服することなどしはしなかった。

 勝つためにはどんな手段であろうとも使い、持てうるすべてを持ってして敵を貶めることこそが、大英帝国が偉大であった証左なのだ。


〝我らはもっとも強い人間の心を支配している――我等は専横な大勢であらゆる巨大な心を支配している

 我らは無能ではない――我らの蒼白の石は。

 我らの権力のすべては消えてはいない――すべての我らの名声は―――

 我らの有名は魔法は――我らをとり巻くすべての不思議――

 我らのなかにひそむすべての神秘は消えてはいない――

 栄光にまさる外衣に身をつつみ、長袍のごと我らの上にかかり

 我らの周囲にまとうすべての記憶は消えてはいない〟


 故に、その臣民の海軍たる臣民海軍こそは、この新興海軍国家もどきの大戦果を許しはしない。

 ブリトンの民は断じて、断じて、断じて、屈することはない。

 その思い出も、その歴史も伝統も、それらすべてを穢す敵をも、許しはしない。

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