第51話「佳き風とともに」


 戦隊を組んで海原に出たというのに、士官食堂は奇妙な静けさに包まれていた。

 従兵もいないばかりか、普段は開け放たれている扉などは締め切られ、舵窓にはカーテンがかけられている。

 扉の前には海兵隊員が控えており、誰も士官食堂に入り込んだり、盗み聞きなどせぬようにしていた。近寄れば海兵隊員が然るべき処置を取るように厳命があった。

 机に並ぶのは、各部署の長たちだ。

 戦艦『エジンコート』の臓器たる各部署を監督し、制御し、運用する者たち。

 マリア・ヴィクスはもう随分と長いこと、彼や彼女らと一緒にいる気がしてきた。

 北海とノルウェー沖での巡洋戦艦との戦い、封鎖突破船の最期を目撃し、地中海で戦い、そして我らはこの痩せぎすの老女と共に戻ってきた。ビス止めの心臓をなんとか動かし、気難しいこの戦艦『エジンコート』と共に英国に、英国の海へと帰って来たのだ。

 今、ヴィクスの手中にある電文は衝撃的なものだ。ヴィクスにとっても、そしてヒュームにとっても。それはここにいる皆も同じだろうと、ヴィクスは確信している。

 事実として、この電文を受けてヒュームは真っ青になって、司令官室に閉じ籠ってしまった。

 ヴィクスでさえこの電文を受け取った後、しばらくは艦長室で物思いにふけり、覚悟を決める時間が必要だった。

 夫にプレゼントしてもらった十字架のペンダントを見つめ、祈った。

 主よ、どうか我らをお守りください。

 願いはそれだけだ。

 いつだって、願いはそれだけだ。

 


「諸君、悲報だ」



 ヴィクスが一言告げれば、面々は衝撃に備えるかのように身を強張らせる。

 しかし、この電文の衝撃はその程度では防ぎきれないだろう。どれだけ身体を身構えても、どれだけ強がろうとも、心の壁というのはいつだって厚さが決まっている。そして現実に対してその壁は、いつだって非情にも薄すぎるのだ。

 先の大戦後、英国の伝統ある海軍に奉仕し、その歴史と確かな力を知っている者にとって、これはまさに悲報だった。



「巡洋戦艦『フッド』が、戦艦『ビスマルク』によって撃沈された」



 沈黙という幕が、唐突に降りてきたかのようだった。

 息をすることさえ忘れて、皆があの優美かつ強大な『フッド』の姿を思い描いていた。

 彼女は、英国が世界に誇れる艦だった。

 彼女はユトランド沖海戦の戦訓を取り込み、クライドバンク造船所で四年の歳月を費やして誕生した。誕生した時から彼女は強大マイティと呼ばれるにふさわしい大きさと優美さを備えていた。どのような戦艦でも『フッド』には追い付けず、どのような巡洋艦も『フッド』には敵わない。

 あの大戦の後、自沈したドイツ艦隊よりも惨めだったのは条約に縛り付けられた海軍だった。それが妥協の産物である『ネルソン級戦艦』を産み出し、そして巡洋戦艦『フッド』の強大さを確かにした。

 戦艦『エジンコート』と同じく、彼女もまたサー・ユースタス・ダインコート卿によって生み出され、最大かつ最強の戦艦として君臨していた。速力は30ノットを超え、八門の一五インチ砲はカタパルト作戦の時もその威力を見せつけたいた。

 どのような波頭であろうとも、どのような場所であろうとも、七つの海を越えてなお、巡洋戦艦『フッド』は英国海軍と臣民とともにあったのだ。どれほど惨めな時であろうとも、不況のときであろうとも、軍縮の時代であろうとも、彼女はずっとずっと、我々とともにアルビオンの守護者であったのだ。

 今、その彼女を、我々はに喪ったのだ。



「………ランスロット・ホランド中将は」



 震える声をなんとか抑えようとしながら、シルヴィア・ローレンス少佐が声をあげた。

 取り乱している様子はない。彼女は彼女なりに、自分自身を制御することができるようになっている。

 しかし、現実はそれを慰めてはくれないとヴィクスは知っている。

 どれだけ強固な艦であろうと、ついには沈む時がある。

 それを我々はカタパルト作戦で見ていたのだ、あの戦艦『ブルターニュ』の最期を。炎と黒煙をあげながら、断末魔さえ上げずに海原に飲まれた彼女の姿を。



「生存者は極めて少ないだろう。ユトランドの時のように」



 ヴィクスは静かに、続ける。



「我らのすべきことに変わりはない。国王陛下の海軍本部ロンドンよりの命令だ。我々は戦艦『ビスマルク』を追撃する」



 臣民海軍第11戦隊は、全力をもって大西洋を駆け抜けていく。



―――



 戦隊が最大船速で航行する場合、その足並みはもっとも遅い艦艇に縛り付けられる。

 第11戦隊の場合、それは空母『セント・ヘレナ』の15ノットだったが、戦隊司令官のヒュームは我慢ならなかった。

 駆逐艦3隻を護衛として分離し、彼は戦艦『エジンコート』と軽巡洋艦『エンフォーサー』防空巡洋艦『クーロン』に最大船速を命じた。

 エドモント・K・ヒューム予備役少将は、巡洋戦艦『フッド』に乗り込んだ者の一人だった。

 素晴らしい船だった。厳格で規律ある、世界でもっとも強い海軍の、もっとも訓練の行き届いた艦だった。

 ヒュームの部屋となった司令官室には、額に入れた写真がある。それは巡洋戦艦『フッド』だった。

 素晴らしい船だった。本当に。

 ヒュームが一将校として勤務し、水兵たちを締め上げ、鍛え上げた船でもあった。

 それが今は大西洋の荒波の底に沈んでいるなど、彼は思いたくなかった。

 彼女はそんな終わり方をするべきではない。

 きっと時がくれば、あの老いぼれの巡洋戦艦『レナウン』のように大改装がなされたはずなのだ。

 そして彼女はもっともっと、時代に適合し、さらに強大な『フッド』となって戦ってくれたはずなのだ。



「……佳き風とともに」



 かたかたと、机の上のカップが揺れていた。

 戦艦『エジンコート』が久々の全力運転で、ぐずっているかのようだった。

 けれども、ヒュームにはどうでもよかった。

 彼は断固として、古き海軍の生き残りとして、激怒した。

 よくも英国海軍に、世界に名だたる最強の海軍に、泥を塗ってくれたものだ。

 あのフン族どもがこの世の海から絶滅するまで、許すべからず―――と。



―――

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