第32話「地中海の長靴」



 1940年6月上旬、フランスの戦線は、もはや風前の灯であった。

 フランス軍のドイツ軍補給線への攻撃はことごとくが失敗し、三〇トンを超える重戦車シャールB1bis有する機甲部隊はドイツ軍戦車に包囲、各個撃破されていき、空はスペイン内戦時よりも進化したMe109と駆逐機110が、そしてJu-87が支配していた。フランス空軍は戦間期のフランス航空業界の混乱と、ドイツ航空業界の躍進により機体の性能も数も劣勢に立たされていた。しかし勇敢なフランス人、あるいはポーランド人たちはそれぞれの機体で抵抗し、数少ないフランス爆撃機隊などは戦略爆撃も敢行したが、その成果は乏しかった。空は封じられ、航空偵察や航空支援はドイツの手中にあった。

 各所で孤立無援となったフランス陸軍は、友軍に合流しようとして大抵が包囲殲滅されたが、彼らのいくつかは大いに暴れ回り、一部でドイツ兵たちを恐慌状態に陥らせることもあったが、それらが戦略的に役に立つことは最後までなかったのだ。

 ダンケルクからの連合軍撤退作戦「ダイナモ」では、多くの将兵をイギリス本土へ脱出させることに成功したが、彼らが所有していた重火器のほとんどは破棄され、浜辺には無数のトラックや火砲、戦車や装甲車が打ち捨てられてその事実上の〝敗走〟の悲壮さに‶ヨーロッパの陥落〟という苦々しさをトッピングしている。また海軍は『グラフトン』『グレネード』『ウェイクフル』『バジリスク』『ハヴァント』『キース』といった駆逐艦たちと、作戦に参加した補助巡洋艦と船舶のいくつかを失った。

 それまでのドイツ空軍の熾烈な攻撃はイギリス空軍機約480機の損失と引き換えによって阻止されたが、彼らは垂れこめる雲や浜辺から離れた空域で孤軍奮闘し、誰にも看取られることなく静かに活躍し、あるいは死んでいった。


 他にもル・アーヴルからは撤退作戦「サイクル」によって多くの将兵たちが脱出に成功した。が、輸送船『ブルージュ』がドイツ空軍の爆撃により沈没した。

 

 6月中旬から下旬にかけて行われた撤退作戦「エアリアル」では、さらに多くの将兵がフランスより脱出した。

 6月17日には客船「ランカストリア」がJu88爆撃機による攻撃を受け、3発の爆弾が直撃した。それは『ランカストリア』にすし詰め状態で乗り込んでいた陸軍将兵を巻き込みながら貫通して船の心臓部に達し、炸裂し、彼女はイギリス海事史上、もっとも多くの将兵の死とともにひっくり返るように沈んでいった。少なくとも3000名、多くとも約8000名の命が彼女とともに海の底へ消えた。正確な死者数は分からずにいる。


 6月10日には、ドイツ軍の優勢を知ったイタリアがこれ幸いとフランスとイギリスに対して宣戦布告した。

 そして6月14日、西部戦線でさえ持ちこたえたあのパリが、落ちた。ドイツ軍が無血入城したのだ。


 しかしフランス人は闘志を失っていなかった。同日、フランス海軍地中海艦隊第3艦隊司令長官エミール・デュプラ中将率いる戦隊がイタリア本土に艦砲射撃を行った。

 重巡洋艦『デュプレクス』『コルベール』を中心とする戦隊はジェノヴァの工業地帯を、重巡洋艦『アルジェリー』及び『フォッシュ』を中心とした戦隊はサヴォーナを艦砲射撃した。

 重巡洋艦と駆逐艦で構成された高速戦隊は、見事に一撃離脱を成し遂げた。殴り込みと言っても良い。だが奇跡的にも2つの戦隊の受けた損害は、駆逐艦『アルバトロス』の中破のみであった。



 それでも、その戦果も空しく、21日にはフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府がドイツに休戦を申し込み、コンピエーニュの森近くで、1918年にドイツ帝国が休戦協定に署名したのと同じ鉄道車両の客車の中で交渉が行われた。

 博物館から引き出された客車は、1918年のときとまったく同じ位置に置かれ、アドルフ・ヒトラーは、1918年にフェルディナン・フォッシュ元帥がドイツ帝国首席全権マティアス・エルツベルガーと向き合った席に座った。

 6月25日にはカナダ海軍駆逐艦『フレーザー』がイギリス海軍防空巡洋艦『カルカッタ』に衝突され沈没し、乗員45名が死んだ。彼女は過去に2度衝突事故を起こしていたが、3度目の幸運には肖れなかった。

 


 同日、ドイツとフランスの間で、停戦が発効された。



 その後、ドイツ軍は第一次世界大戦の休戦記念碑などを破壊し、休戦交渉に使われた客車はベルリンへ持ち去られた。

 ヨーロッパ大陸の西部は陥落し、かつての西部戦線の幻想はついにドーヴァーの海原へと投げ捨てられた。

 我らの前にあるのは白亜の壁と、何百年もブリトンを守りきっていたドーヴァー海峡しか残されていない。




―――





 その間、戦艦『エジンコート』は再びスカパフローにて留め置かれることになった。

 本来であれば旧式戦艦であり失っても惜しくはない戦艦『エジンコート』は、輸送船団の護衛や囮など、いくらでも利用価値があったものの、そうできない理由が彼女にはあった。機関部のいくつかの配管の一部に亀裂が生じているのが発見され、他にも機関不調の原因を解明しなければならなかった。ジョン・ブラウン社製の主機は、ネルソン級戦艦で用いられた設計を幾分改良したものであったが、それはあくまでその場凌ぎ程度の改良でしかなかったことが露呈する形となったのだ。


 幸いにして機関長であるエディス・プリチャード中佐はネルソン級で用いられた新設計の高温高圧缶の蒸気圧にタービンが耐えられず、亀裂が発生するということを知っていた。そのため、事前にそれらの在庫をチェックしていたが、それらは未だに亀裂の発生は確認できなかった。しかし、慣熟航海中に発生した機関の異常加熱やその他諸問題に関しては、現場でのマニュアル作成がなされ、手間は掛かるが性能は発揮できるようになっていた。

 最悪、戦時中に主機のオーバーホールが必要になるかもしれないとプリチャード中佐は頭を悩ませていた。

 軍艦の主機というのはそれが大きければ大きいほど大きく、複雑に、そして目を剝くほどの数の配管とバルブとボルトから成り立っている。これをオーバーホールするとなれば、屋敷裏の掃除どころの話ではなく、一度屋敷に火を放ってからその跡地にまったく同じ屋敷を立てるような芸当で、そうなれば戦艦『エジンコート』は長い間、戦列を離れることになる。巡洋戦艦『フッド』がついこの前にそうなっていた。この瘦せぎすの老女は老い耄れと言うだけでなく、この困難な時期に乾ドックを一つよこせとのたまっているのだ。なんという図々しさか。

 先の見えない情勢の中、プリチャード中佐と機関科要員たちは、耐え難い不安を感じ、それをヴィクスに報告した。マリア・ヴィクスは淡々と言った。


「であるならば、戦艦『エジンコート』はしかるべき手順をもってオーバーホールに入る。だが、今はその時ではない。我々は動く限り、この老いぼれを動かす。それが私の責務であり、君たちの責務であり、それこそが海軍の命令だ。目下、問題はないのだ。ならばそうなるまで、彼女には動いてもらう」


 それを聞き、プリチャード中佐は一つ溜息を吐いてから首肯し、口元に笑みを浮かべてラフに敬礼した。

 エディス・プリチャードは戦艦『エジンコート』の心臓が壊れるまで動くようにするために、出来うる限りの努力を図る。それが戦艦『エジンコート』の最大の幸運であり、彼女の心臓はプリチャード中佐の手によって保持された。

 これからも、どのような荒波の中も突き進めるようにと。


―――



 戦艦『エジンコート』は、燃料補給と機関修理のために再びスカパ・フローに留め置かれることになった。また並行して271型レーダーの追加と、それに伴う艦橋構造の補強が突貫工事で行われた。

 この期間中、各部署は保守点検と休息に時を費やし、人員が新たに補充され、また戦艦『エジンコート』から去る者もいた。特に一度破損してから手放していたレーダー手を確保せねばならなかったが、そこはヴィンセント中将が処理してくれた。

 艦から去る者たちは、彼、彼女らは、痩せぎすの老女、戦艦『エジンコート』とその家族らに見送られて、他の軍艦へと転属するものたちだ。そして、機関修理完了の目処が立つと同時に、戦訓が取り入られた訓練が始まった。彼女たちは今や海軍であった。たしかに筋力や体力では劣るかもしれないが、それでも素人の水兵よりは機敏に動き、するべき仕事を覚えている。生き残る術を学んでいる。倒すべき敵を知っている。


 入念に油が差され、動き出した歯車から錆が自然に落ちていくように、戦艦『エジンコート』は動作した。

 完璧には程遠いかもしれないが、それでも完全に戦艦と呼べるだけの力を得た。一四門の大口径砲を備え、八インチを超える装甲を着込み、千名を超える乗員をその腹に抱えている。

 もはや、彼女たちは誰にも馬鹿にされることもなく、蔑ろにされることもなく、間違いなく海軍であった。




―――




 戦艦『エジンコート』は、再びスカパより出で、小船団と共にジブラルタルへと向かった。

 6月10日にイタリアが枢軸側に参戦したことによって、地中海航路はもはや安全なものではなくなってしまった。地中海の最奥部のアレクサンドリア軍港に展開していた英国海軍地中海艦隊と、ジブラルタルに基地を置く新編成のH部隊はイタリアという地中海に突出したイボに悩まされることになった。地中海艦隊の主な基地であったマルタ島が、シチリア島のイタリア空軍によって空爆される危険性があるということも大きい。マルタは歴史上何度目かの危機を迎えて、初めて空からの侵略に晒されようとしている。

 戦艦と言えども爆撃が直撃すればただではすまないという事を、英国海軍はすでに知っている。知らぬというには艦と兵士を失いすぎていた。そして、おそらくこれからも失い続けるのだろうが。


 戦艦『エジンコート』は、その増援として送られたのだ。必然的に、保管倉庫から出してきたルイス機関銃が何丁も艦に持ち込まれた。ないよりはマシだった。

 マルタ島ではすでにU級潜水艦を主力とし、イギリス人だけでなくポーランド人も加わっている英国海軍第一〇潜水戦隊が城塞都市ヴァレッタのグランド・ハーバーに展開しており、臣民海軍も予備役から復帰したM級機雷敷設潜水艦『M3』を旗艦とし七隻のh級潜水艦、三隻のL級潜水艦で構成される第二十二潜水戦隊が展開していた。またこの第二十二潜水戦隊へ加わるためにすでにイライジャ・ヒースコートの『L71』がジブラルタルからマルタへ向かっていた。

 その他にもこの戦域を支えるために支援艦艇が何隻かすでにジブラルタル入りを果たしている。そのうちのさらに何隻かは、敵地の只中にあるマルタ島へ向かうことになっていた。

 そうして、日付がまだ6月のうちに、戦艦『エジンコート』はジブラルタルに入港した。

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