第33話「カタパルト作戦」
地中海の要衝たるジブラルタルは、スペイン継承戦争後のユトレヒト条約でイギリスが獲得してから、現在に至るまでその戦略的意義を失ったことは一秒たりともなかった。
ナポレオン戦争中はホレーショ・ネルソン提督ら英国艦隊の本拠地として機能し、それ以降はスエズ運河を経由し英国領インドとを結ぶ重要な補給地となり、船の動力源が変化しようとも、燃料が石炭から石油へと変わろうとも、ジブラルタルの意義は決して揺るがなかった。
この地は英国が血を流して手に入れ、そしてこの先も血を流してでも保持しなければならない戦略的重要拠点なのだ。
先の大戦でも、ここジブラルタルは拠点の一つだった。そのことを示す大理石の戦争記念碑もある。
そして、今回の戦争でも、ジブラルタルは拠点の一つとなっていた。
ジブラルタルに駐留している英国海軍H部隊は、巡洋戦艦『フッド』を筆頭に強力な打撃力と機動力を有しており、そこには空母『アーク・ロイヤル』や戦艦『ヴァリアント』戦艦『レゾリューション』といった主力艦艇が肩を並べている。
そんな主力艦艇の一角に、場違いにも戦艦『エジンコート』はあった。
特徴的で悪目立ちするダズル迷彩を今まさに塗り替えているところであり、甲板から垂れ下げられた板の上には水兵たちが塗料缶と刷毛を持って、年老いた淑女の礼装を調えている。地中海の運用を行うため、色は明るい灰色となり、その奇抜な迷彩はすでに大半が塗りつぶされていた。
戦艦『エジンコート』はここで1ヶ月の間、護衛任務をこなしては機関修理に入るの繰り返しであり、その間はずっとあのダズル迷彩だったが、6月末にようやく塗り替えられるほどの塗料がジブラルタルに輸送され、今日に至る。
「戦艦『エジンコート』の機関は全力を発揮できる状態にあるのかね?」
「はい、中将。スカパフローとここジブラルタル、掛かりきりで修理を行いました」
「では現状、戦艦『エジンコート』は最大速力で何ノットを発揮可能なのだ?」
「はい、中将。最大で二十三ノットを出せます」
「……部隊の『レゾリューション』よりも速いな。結構、満足だ。ジブラルタルは本国よりも熱く気温も高いが、体調はどうだね、ヴィクス大佐」
戦艦『エジンコート』艦長、マリア・ヴィクスは、机を挟んでこちらを見つめているH部隊指揮官ジェームズ・サマヴィル中将に肩を竦めながら言う。
サマヴィル中将の視線は幾分か、ヴィンセント・ビスカイトよりもヴィクスに同情的だった。サマヴィルもまた、1939年健康上の理由で一度退役した身で、一年もしないうちに現役に復帰してきたのである。
「ご覧の通りです、中将。ですがご安心ください。御命令は全力で遂行いたします」
文字通り、命にかえても、とヴィクスは言わなかった。
艦長という責務を持つ者がその言葉を口にするということは、艦の全乗員すべてをその胸に抱きながら死ぬという意味になる。そのことを知らぬヴィクスではない。責務を持つ者が責務を盾にして、それを安易に振り回すことは断じてあってはならない。
ヴィクスは、責任を背負うことに重きを置いている。見栄を張るだけならば誰にでもできることではあるが、その責任までをも考えるとき、それを真に背負うことを考えるものは稀であろう。しかし、ヴィクスはそうしてきた。ヴィクスが見栄とも思える言葉を吐くときは、それは彼女がそれ相応の対価を覚悟で発した言葉でもあるのだ。
そんなヴィクスの覚悟を見て取り、サマヴィルは満足気に頷き、重苦しく、権力を行使する立場のものとして口を開き、言った。
「よろしい、大佐。では命令だ。本日中に戦艦『エジンコート』は出港可能な状態にし、総員乗艦の上で待機。明日出撃が可能な状態にせよ。詳細は封密書に。時刻厳守で各部署の将校同席のもと開封し、命令を伝達せよ」
「イエス・サー」
一瞬、ヴィクスはその言葉の中になにかしらの不快感のようなものが混じっているように感じたが、それは飲みなれない水のような微細な違和感でしかなく、深く考えることはなかった。
彼女の頭の中にあるのは、地中海に突き出したイタリアという敵国のことであり、シチリア島であり、マルタ島であり、クレタ島であり、キプロス島であり、そして前大戦の地中海のことであり、ガリポリであった。
しかし、ヴィクスは気付いていなかった。敵と言うのは、所詮は人間の定義にすぎないのだということに。
「下がって良し」
「イエス・サー」
敬礼し、返礼され、部屋を去る。
マリア・ヴィクスは仕事に取り掛かる。
―――
士官休憩所で惰眠を貪っていたり、トランプやチェスに興じていた者たちはすぐに集まって戦艦『エジンコート』に戻っていった。まだ昼だというのに酒場にいたものもいたが、その者たちは軽蔑と警告を受けながら戦艦『エジンコート』に戻った。水兵たちもまた掻き集められ、戻ってこないようならば海兵隊が連行した。
一番ユニークだったのが、ボラン少佐とシルヴィア少佐の二人である。二人は揃ってバーバリーマカクを見に行っていたところだった。バーバリーマカクは、ここジブラルタルどころか、ヨーロッパで唯一の野生猿であり、物珍しさもあって二人はそれを見に行ったのだが、ついに触れること敵わず、遠くから眺めることしかできなかったと。
なぜ見に行ったのかときかれれば、ボラン少佐は、
「あいつが見つかれば、我々がジブラルタルから叩きだされる事はない」
と、それをボラン少佐があの顰め面で恨めしそうな顔で言うものだから、何名かの士官などは膨れ上がったフグのような顔をして甲板にひた走り、腹を抱えて笑い転げたのがペンキを塗っていた地元の軍属に確認されている。いくらなんでも、たしかにあのサルがいる限りイギリスはジブラルタルから去ることはないと言われてはいるが、よりにもよってこの人物がそれを主張するかと、ひとしきり笑った者たちは肩を組み合いながら艦内に戻っていく。
機関科ではプリチャード中佐があらゆる手段を尽くして最大速力を発揮するため、そして万が一、なにかしらの危険、トラブルが生じた場合に備えての準備を始めていた。最悪の事態とはどんなものかというのは、プリチャード自身がよく知っている。高圧高温のボイラーが破損したとき、それが意味するのは機関科にとってどんな意味を持つのかを、彼女はよく知っている。シャツの下に隠れた爛れた後の残る肌がじくじくと痛むような気がして、背筋がぞっとする。生きたまま蒸し焼きにされる女と男の悲鳴が今も思い出せる。蒸気は都合のいい動力ではない。単純明快だが、ガソリンと変わらない。水蒸気は爆発はしない? 狭苦しい劣悪な環境に押し込んでおけば、人間でさえ反乱という形で爆発するというのに、なぜたかが水蒸気などと言えるのだ? 押し込める器が壊れた時、人間はその単純明快な脅威を肌身で思い知るのだ。
そして機関室がそうなったとき、いったい誰がボイラーを修理するのか。血を流し続ける彼女の心臓を、いったい誰が直すのか。
プリチャードはだからこそ準備し、覚悟している。そうなったとき、機関科は誰かを犠牲にしてでもボイラーを修理する。
誰かが犠牲になっていても、彼女の心臓にまた再び鼓動を刻ませる。機関科の覚悟、矜持とはそういうものなのだ。
そうして、日が落ちる頃には半舷上陸していた者たちは戦艦『エジンコート』に舞い戻った。
午後七時になると、マリア・ヴィクスは各部署の長を呼び寄せ、サマヴィル中将からの命令書を開封し、一度、いや三度その中身を黙読した後、読み上げた。
しばしの沈黙が、場を支配する。なにを言っているのだと、顔を青白くさせた者もいた。肩を震わせ、ヴィクスに真偽を問うような目をした者もいた。
「……艦長、それはつまり、我々はメルセルケビール軍港に向かうのだな?」
呆然とした表情で、ボラン少佐が呻くように言った。
ヴィクスは毅然とした態度で返答する。
「そうだ、少佐」
「艦長、我々の目標は、フランス海軍なのだな?」
「そうだ、少佐」
ヴィクスは表情を変えずに続ける。
「大英帝国はフランス海軍、その艦艇を我々の指揮下に置く必要があり、彼らがそれを拒否した場合、我々は国王陛下の政府からの要請に基づき、どのような手段を使おうとも、フランスの艦艇がドイツの手に渡ることを防がなければならない」
ボラン少佐はなにかを言おうと口を開けたが、言葉が出てこないようだった。やがて彼女は口を噤み、自分の立場、あるいはすべきことを理解して唇を噛んだ。
マクミラン中佐はなにも言わなかった。表情も変えず、ただヴィクスを、そしてここに集った面々を見ては、納得したように首肯し、最後までなにも言わなかった。
「各員、質問はあるかね?」
誰もなにも言おうとはしなかった。
しかし今や、誰もその任務を疑うような目をしているものはいなかった。
国王陛下の政府からの要請に基づき、臣民の戦艦たる我々の『エジンコート』は任務を果たさねばならない。
ここに集った者たちはそれを理解している。であれば、次にすべきことは自ずと決まっている。
ヴィクスは面々の瞳を見つめ、そこに秘められた感情を読み取り、最後に言った。
「よろしい。では解散だ」
ヴィクスがゆっくりと立ち上がり、他の者たちもそれに倣って起立した。
深く息を吸い込み、ヴィクスは無味乾燥な、形だけ残った伝統のような言い方ではなく、本心を込めて言った。
「……諸君の良き航海を祈る」
全員が立ち上がり、敬礼し、ヴィクスはそれに返礼した。
戦艦『エジンコート』は今より、
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